朱色から紫を経て紺へと変わりつつある空をぼんやり眺めながら、通学路を黙々と歩む。近所の学生を除けば普段から人通りなど絶えてない道では、時間帯も相まって麻友子の学校指定の靴以外の音はしなかった。

 登校日は、基本的には午前中で解散となる。だのに一番星が輝く時間帯になってもクーラーも設置されていない教室に拘束されたのは、麻友子だけだった。登校日までに終わらせなければならない、数学の二束のプリント集。その片方に全く手を付けていなかったため、数学担当でもある担任の怒りを買ってしまったのだ。

 麻友子は別に、わざと課題に手を付けなかったのではない。現に、もう片方のプリント集は、ところどころどころかほとんど間違っているだろうが、自力で答えを出して終わらせた。

 昨今の高校生は十人につき九人以上もスマホを持っている。ド田舎といえどスマホの所持率は都会とさほど変わらない。クラスメイトたちは分からない課題があればラインで教え合い、難問にぶちあたればどうにか繋がった秀才に懇願したりして、課題を済ませていた。親が厳しくてどうしてもスマホを持たせてもらえなければ、友達の家まで行って写させてもらえばいい。皆そうして、自分の手には余る課題を要領よく終わらせるのだ。スマホも友達も持っていない麻友子以外は。

 仮にプリント集を片方教室の机の中に置き忘れたとしても、他のクラスメイトならば途中で気付けたのだろう。それこそ、ラインか何かで友人に指摘してもらって。登校日でなくても学校は解放されているから、こっそり取りに行けもしたのだろう。だが麻友子は、怒りに目を吊り上げる担任に、真っ白なプリント集を、紙よりも白くなった手で提出せざるを得なかった。麻友子はスマホも友達も持っていないから。

 普段から課題の提出が遅い麻友子に目を付けていた担任は、当然激怒。そうして麻友子は、本来ならば帰宅する時間になっても、担任が落とす雷を浴びせられかけた。その上嵐から解放された後は、形だけでもプリント集を仕上げるまで拘束される羽目になったのである。

 麻友子の学校は、従姉が通った冷暖房完備の高校ではないから、購買などありはしない。昼食を食べそびれて悲鳴を上げる腹を、生ぬるくなった麦茶で誤魔化しながらでは、最後の方は自分でも何と書いているのか理解できなかった。学校に最も近い自動販売機のジュースで糖分を補給したというのに、まだ頭がぼうっとしている。だから麻友子は、前方から近づいて来る集団に気づけなかったのだろう。

「お前がこんな時間に歩いてるなんて、珍しいな」

 麻友子の自宅に最も近い家の同学年の少年は、左右をいわゆる「チャラい」男に囲まれていた。うち一人は、隣のクラスの少年の兄だろう。金髪とピアスで分かりづらいが、顔立ちにどことなく覚えがある。だが、うち片方は……。

「あー、俺の左の人、兄貴の大学でのツレ。都会の出身だから、うちみたいな田舎に昔から興味があったって、遊びに来てんの」

 麻友子の視線から察したのだろう。隣のクラスの少年は頼んでもいない説明をし出した。だが、麻友子は彼にも彼の兄やその友人にも興味はない。

「そう」

 そっけないが一応返事をして通り過ぎようとしたところ、厚くて硬い掌で生白い腕を掴まれた。

「なにー? この子、もしかしてヒロくんの彼女? めっちゃカワイイじゃん」

「いや、彼女じゃないっすよ、家が近いんでっていうか同い年なんで、知り合いではありますけど」

 隣のクラスの少年――そう言えば名前は弘幸ひろゆきは、登校中にすれ違った時同様、麻友子の顔ではなく胸のあたりをじろじろと注視している。汗で下着が透けていないか、と期待しているのだろう。本当に気持ち悪い。だから麻友子はいつも内心で、弘幸をクソいがぐり頭と罵倒していた。こいつと比べたら栗の方がまだ中身が詰まっているだろう。

「ふーん。俺だったらこんな美少女が近くにいたら、放っとかないけどなー」

 クソいがぐりの兄の友人は、外見通りのチャラ男なのだろう。つまり、麻友子とは住む世界が違う人間だ。初対面の人間の身体に遠慮なく触れられるのがその証拠である。

 厚い掌にじんわり滲む汗が不愉快で。太い腕を振り払おうとしても、チャラ男の割に込められた力は強くて振りほどけなかった。

「つれないのもツンデレって感じがして、むしろグッとくるし」

 俺、アニメとかマンガ結構好きなんだよね。そういえばこの子、俺が好きなアニメのヒロインに似てる気がする。

 浮ついた声でひとりごちて、麻友子に抱き付きかねない勢いで距離を詰めて来るチャラ男の厚かましさに、鳥肌が立った。

「ねーねー、名前教えてよ? んで、お兄さんとライン交換しよ?」

 ねっとりした話し方も、気持ち悪くて仕方がない。こんなヤツと、これ以上付き合ってはいたくない。

 不運続きということもあって元々ふつふつと沸いていた頭は、煮えたぎるのも早かった。

「――嫌です!」

 ばしん、と乾いた音がどこから発したのか、最初は理解できなかった。だが、目の前には頬を幽かに赤く腫らしたチャラ男がいて、セーラー服の夏服の袖から伸びる腕は、反動でじんと痺れている。つまり麻友子は、衝動に駆られてチャラ男を殴ってしまったのだ。

 これからどうなるのだろう。誰か近くを通らないかと周囲を窺っていると、それまで口を閉ざしていたクソいがぐりの兄が急に喋りだした。

「いくらなんでも、それは酷いんじゃないの? 田村麻友子ちゃん」

 にたり、という形容詞がぴったりの笑みを浮かべた友人に、チャラ男が驚いた声を上げる。

「田村? もしかしてこの子が、お前が船の中で言ってた家の子?」

 ――あの、大麻を育ててるっていう。それで、密かに警察にもマークされてるっていう家の子?

 チャラ男が楽しげに吐き出した言葉は、スローモーションでもないのにゆっくりと響いた。

 そうだ。他の家のものよりも僅かに高い程度のブロック塀の中で、洗濯物でガードしてなんて杜撰な隠蔽では、ばれるのも時間の問題に決まっている。いくら交流を絶とうと、田舎に張り巡らされた人間関係は蜘蛛の巣だ。どんな小さな羽虫も逃しはしない。これまで近所の人間が何も言ってこなかったのは、無実だった場合を考え、躊躇っていたからなのだろう。

「そういえば初日に、こっそり麻友子ちゃんの家の見物行ったよなー。マサが、誤魔化してるつもりかどうかは知らないけど、あの家は大麻を植えてるあたりに娘の下着干してる、なんて言うから」

「そしたら、ほんとに苺のパンツとブラ干してて、大爆笑したよなー」

 金髪と茶髪の大学生は、げらげらと締まりのない顔で笑っているが、麻友子にとっては笑いごとではなかった。

「でもさあ、あのサイズってことは、麻友子ちゃんDぐらいあるんじゃない? そんだけあれば十分よ」

「ていうかもしかして、今麻友子ちゃんあの下着付けてんじゃ?」

 言いようのない恐怖に駆られて逃げようとしても、空いている方の腕までクソいがぐりに掴まれて。

「麻友子ちゃん、ちょっとでいいからお兄さんたちと一緒に、マサの家に来てよ。大丈夫。ちょっとだけ、ほんとに苺柄付けてるか確かめたいだけだから」

 そうして麻友子は、悲鳴を上げる間もなく、クソいがぐりの家に連れ込まれた。



 中心がずきずきと痛む身体で、這うようにクソの家から抜け出す。重い頭を上げると、空では無数の星が瞬いていた。

 クソいがぐりの父は八時まで残業もザラのブラック公務員。母は島で唯一の大きな病院に勤める看護師で、夜勤も多い。だから麻友子は、普段ならばとうに夕食も済ませている時間まで、クソ男どもから解放されなかったのだ。

 口に詰め込まれた下着に悲鳴を吸い取られ、呻くこともできない麻友子に最初に圧し掛かって来たのは、頬の腫れが引いたチャラ男だった。次に、クソいがぐりの兄、そしてクソいがぐり。特にチャラ男は、制服美少女の処女を貰ったと、得意そうにしていた。

『こんなハッピーな日には、写真を沢山撮りたいじゃん? もちろん動画もね』

 最初、クソいがぐりはただスマホを構えるだけの係だった。だが、チャラ男に開かされた脚の奥を見ていると、気が変わったらしい。最後は兄たちよりも余程ズコバコやってきた。

 麻友子も確認させられたが、クソいがぐりがチャラ男のスマホで撮影した写真にも動画にも、クソ共の顔は映っていなかった。あるのはただ、麻友子の顔と、裸――特に、クソ共の最もクソな部分を押し込まれた部分のアップだけ。見ようによっては麻友子が援交しているように見える写真を、こんな経験は初めてだろうに見事に撮ったクソいがぐりは、写真家に向いている。今すぐ野球部をやめて、カメラを買った方がよいのではないだろうか。

『じゃあ、また明日ね、麻友子ちゃん』

 クソ共がようやく満足すると、麻友子は皮肉を言う間もなく、玄関から押し出された。

 ――ヒロくん曰く麻友子ちゃんはかわいいけどおバカらしいから教えておくけど、警察に相談しても、麻友子ちゃんや麻友子ちゃんの親が困ることになるだけだよ。

 帰り際、念押しに突き付けられた画面の中では相変わらず、四つん這いにさせられた自分が、クソ共に最もクソな部分を押し込まれていた。明日から麻友子はチャラ男たちが帰るまで、もしかしたらその後もクソいがぐりに、ずっとこんなことをさせられるのだろう。

 クソ共の奴隷になるのは嫌だが、従わなければ、我が家が抱え込んだ秘密は無残に明らかにされ、お縄となる。つまり、麻友子の人生は「積んだ」のだ。

「……ただいま」

「――麻友子! あんた、こんな時間まで担任の先生に迷惑かけてたのね!」

 重い身体を引きずってどうにか帰宅すると、いの一番に金切り声を叩きつけられた。母は、普段はひたすら父や麻友子の御機嫌伺いに徹しているが、一度切れたら中々怒りを収めない。

「お昼に先生から電話あったわよ。クラスどころか学年でも一人だけ提出しなきゃならない課題が終わってなかったから、終わらせるまで残らせます。麻友子さんの家は学校からそう遠くないから遅くなっても構いませんよね、って。――馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、馬鹿にも程ってもんがあるわ!」

 恥ずかしい。身体だけじゃなく頭も弱いなんて、どうしてこんな子に育ったの。

 母は遅くなった夕食の間もずっと、麻友子に怒りを浴びせかけてきた。この調子だと、母は麻友子の身に起きた事件に気づくまい。打ち明けても、「自分の頭の悪さを誤魔化したくて、そんな嘘ついて」と、余計責められるに決まっている。

 味など分からない夕食を喉に押し込み、念願の風呂に入っても、クソ共の手や舌やアレの感触は生白い身体にこびりついままで。いつまでも、消え去ってはくれなかった。

 薄っぺらな布団に横たわっていても、眠気が訪れる気配はない。眠れない日はいつもやっているように、蝶の図鑑のモルフォのページを開くと、輝かしくて清冽な青が視界いっぱいに広がった。麻友子は汚れてしまったのに。

 モルフォ蝶は優美で清らかな見た目に反して、腐った果実や動物の死体を餌にするのだという。花の蜜を吸う他の蝶と比べたら、モルフォ蝶はある意味「汚い」存在かもしれない。だけど、モルフォ蝶と麻友子の汚さは同じではない。

 ずっとずっと、南米の森に行って死んで、青空を映した鏡さながらに輝くモルフォの餌となってその一部となるのが、麻友子の夢だった。しかしもう、いつかを――大人になって、南米に行く資金を獲得する日まで待てそうにない。今すぐモルフォ蝶と同化したい。

 蝶の羽ばたき程度の小さな行動でも、嵐のような大きな結果を巻き起こすという。そのものずばりでバタフライエフェクトと呼ばれる現象が、本当に存在するのなら。麻友子の運命を導いた蝶の羽は、きっとモルフォ蝶のようには美しくなかっただろう。どころか、蛾の羽ばたきだったのかもしれない。それでも麻友子はモルフォ蝶になりたかった。

 あの青い翅と融け合って、一つになるにはどうしたらよいか。

 まんじりともせずに考えていると、いつしか空は再び茜色になっていた。寝不足の目で仰いだ朝日は、網膜を焼かんばかりに輝いている。今日はきっと快晴だろう。海も、真夏の日差しを浴びて眩いばかりに澄んでいるはずだ。

 昨日、登校する前にちらと眺めたテレビの天気予報を思い出した途端、脳裏で青い翅が煌めいた。開きっぱなしの図鑑、もしくは麻友子の頭の中から抜け出したモルフォ蝶は、ひらひらと優美に宙を舞っている。

「……ごはんよ、麻友子」

 日本には生息していないはずの蝶はしばらく部屋の中を漂っていたが、普段通りに戻った母が扉を開くと、開いた隙間からするりと抜け出した。けれどもモルフォは、決して麻友子の視界から消えたりはしない。麻友子を誘うように、けれども導くように、佇んでいる。だのに、腕を伸ばしたらふわふわと距離を開けた。まるで鬼ごっこだ。

 このモルフォをどうしても捕まえたかったから、麻友子は母を突き飛ばして家を出て、久しぶりに自転車に跨った。いまだ悲鳴を上げる身体の中心の痛みは無視して。そうして無我夢中で追いかけっこをしていると、麻友子はいつのまにかひっそりとした崖の上にいた。そこから眺める海原は、息を呑むほど美しい。

 身体中にうっすら汗をかいて辿り着いた崖には、邪魔な人影はなかった。ただ、申し訳程度に設置されている転落防止の柵の向こうで、モルフォ蝶が麻友子を待っているだけで。

 蹴飛ばせば外れそうな柵を乗り越えるのは、造作もないことだった。不安定な足場から身を乗り出すと、細い身体は宙に浮いた。海は、幾千幾万のモルフォ蝶の翅を敷き詰めたかのごとく煌めいている。

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蝶葬 田所米子 @kome_yoneko

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