第三話⑦

「噓つき!」

 目の前で、女の子が私をにらんでいる。幼いながら、彼女の憎悪は本物だった。

「幽霊が視えるなんて言って、馬鹿みたい。私のお母さんは、外国でお仕事をしているの。それでいっぱいお金を貯めたら、私のことを迎えに来てくれるって言っていたわ。なによ、ちょっといじめられたからって私に仕返ししているつもり?」

「……でも、あなたの後ろにいるんだもん」

 私は少女の背後に立つ、やせ細った女性を見上げた。その姿は吹かれるろうそくの炎のように、頼りなく揺れていた。

「髪は肩まで伸びていて、赤茶色。あと、少し癖っ毛だね。見た目からして、南部の人なのかな」

「え……」

 特徴を挙げると、ゆがんでいた少女の顔から怒りがするりと抜け落ちた。確かな手応えがあって、私はさらに霊の姿を言葉に換えていく。

「顔立ちも、ちょっと違う気がする。お母さんは丸顔で、肌の色が濃いんだね。でも、ひとみの色は深い緑だ。これはあなたと同じ」

「ひっ」

 小さな悲鳴をあげて、少女はその場から飛びのいた。私が見上げる場所に視線を向け、赤く色づいていた頰を、さっと青くする。

「本当に、お母さんがいるの」

「うん。一週間くらい前からずっとあなたの後ろにいたから、気になっていたの」

「……」

 少女はしばらく、言葉を失っていた。だがやがて、「何て、言っているの」と恐る恐るたずねてくる。

 震える彼女に、私ははっきりと告げるのだった。

「『置き去りにしてごめんなさい。でもあの人を愛していたの』だって」


「……ん」

 目を開く。

 まず、闇に染まった天井が視界に入った。次に、自分が寝台に横になっていることを確認する。そして、直近の記憶をずるずる辿たどって──ふう、と息を吐いた。

「懐かしい夢を見たな」

 独りちながら、上半身を起こす。汗をかいたせいで、服がじっとり重い。

 サロンでの一件のあと、用意された客室に入るなり、ひどく疲れて寝台に横になったところまでは記憶がある。どうやらそのまま、ぐっすり眠ってしまったらしい。最後の記憶では空はまだ明るかったのに、め殺しの窓から外をのぞくと、既に辺りは濃紺の闇に沈んでいた。

 木々が月光を浴びてわずかに輪郭を映し出し、さわさわと風に揺れている。しばらく外の景色を眺めていると、私の言葉を聞いて崩れ落ちる少女の姿が脳裏に映し出された。

 ──あれは、まだ神殿の孤児院で生活していた頃の記憶だ。苦く忘れ去りたい思い出なのに、今でもこうして夢という形で、たびたび私の前に現れる。

 あのあと、少女は孤児院から姿を消してしまった。噂によると、アウレスタの分院に移されたらしい。「せっかく高い魔術の素養があったのに」と教育係の神官が、残念そうに語っていたのを覚えている。

 原因は、言うまでもなく私だろう。私が無神経に吐き出した言葉が、彼女の心を打ち砕いたのだ。

 今回も、同じことをしてしまった。

 私はただ、可能性を提示しただけのつもりでいたけれど。私の言葉は、母を信じるアドラスさんの気持ちをひどく傷つけてしまったのだ。

 大事な人の名誉が傷つけられる、屈辱感。それを自分一人では覆すことのできない、無力感。私はそれを、誰よりも知っていたはずなのに。

「……よし」

 寝直す気になれなくて、寝台から降りる。簡単に服を整えると、私は扉に手をかけた。

 夜更けは霊が活発化する。つまり今は、幽霊観測にうってつけの時間帯なのだ。少しは霊感女らしく、それらしい働きをしてみよう。




『……』

 廊下に出てすぐ、物言わぬ人影と遭遇した。第一幽霊である。姿からして、この屋敷の使用人であるようだ。

「こんばんは」

 声をかけると彼はふと顔を上げたが、大して興味もなさそうに、廊下の奥へと向かってしまう。やがてその姿は、夜の陰に飲まれて見えなくなるのだった。

 すがすがしいほどの無視である。これでは傷つく暇もない。同じ方向に歩いてばったり再会しても気まずいので、私は霊と反対方向へ足を進めることにした。

 こうもあっさり霊に遭遇できるとは、さすが古いお屋敷だ。昔のとりでを改築した建物だというだけあって、造りもしっかりしている。けれども石造りの廊下は所々で折れ曲り、注意しなければ迷子になりそうなほど入り組んでいた。

 グレイン領に至るまでの道中、アドラスさんは幼少期のほとんどを、自宅とこの屋敷で過ごしたと話していた。私生児はとかく風当たりの強い人生を送るものと聞くけれど、彼は伯父おじに可愛がられて、貴族の子弟と変わらぬ教育を受けさせてもらったらしい。

 アドラスさんが、この土地と人々を大事に思っていることは、これまでの彼を見てよく分かった。だから彼は、あれだけ必死に自身が皇子であることを否定しようとしているのだ。

 できることなら、力になりたいと思う。だけど、彼は本当にただのアドラスなのだろうか。現状では、彼を皇子と断定する材料も、否定する材料も手元にないのだ。もし彼が皇子であるとする証拠が見つかったら、私は──

「おい」

 呼び止める声が聞こえて、反射的に振り返る。声の主の姿を見て、私は立ち止まったことを後悔した。

「どうしてこんな時間に一人で出歩いている。金目のものでも探していたのか?」

「……あなたは」

 昼間アドラスさんにけんを売り、惨めにたたきのめされたボラードだった。

 ボラードは周囲に視線を走らせたあと、ニタニタと笑いながら私に歩み寄ってくる。合わせて私も、数歩後ずさった。

「この先はお偉方の部屋だぞ。商売女が踏み入っていい場所じゃない」

「ごめんなさい。寝つけなくて、少し歩いていたらこんな場所まで来てしまったんです。すぐ部屋に戻りますね」

「それに皇子殿下は、別の女とお楽しみ中だ。邪魔しない方がいい」

「え」

 受け流すつもりが、ついボラードの言葉に反応してしまう。

 私が見せた硬直に気を良くしたらしい。ボラードは露骨に笑みを深めた。

「残念だったなぁ。小銭を稼ぐ機会を失ったな」

「あの、そういうつもりではないので。道を空けていただけませんか」

「なんなら俺がお前を買ってやろうか」

 だめだ、会話が成立しない。

 どうも酔っているらしく、ボラードはれつの回らない舌で、一方的な台詞せりふを繰り返す。吐く息はひどく酒臭い。そのくせ足取りはしっかりとしていて、じりじりと私は壁際に追い詰められていく。

 とうとう背中が壁に触れると、ボラードは壁に強く手をついて、私の逃げ道を断つのだった。

「……私は、アドラスさんの客人ですよ」

「ここはグレインきようの屋敷だ。この屋敷の中では、あの方もただの客さ」

「む」

 意外と鋭い返しである。酔っ払っているくせに。

 黙って顔を伏せると、あごつかんで強引に持ち上げられた。

「グレイン卿は、殿下に東部貴族の女を宛てがうつもりだ。お前のような女の出番はもうねえよ。なら、俺にこびを売っておいたほうが、うまがあると思わないか?」

「……」

「おいおい、だんまりかよ。まあいい。下手にうるさいより、こういう手合いを鳴かせたほうが──」

「そう言えば、謝罪がまだだったな」

 新たな男の人の声。

 ──と同時に、目の前にあったボラードのにやけ顔がもんの表情に変化し、「いだだだ!」というだみ声混じりの悲鳴が次に響いた。

「アドラスさん!」

 ボラードの背後には、アドラスさんが立っていた。彼は昼間と同じく瞬時にボラードの腕を絡め取り、背部へ回して容赦ない角度でひねり上げていた。

「え、エミリオ殿下……!」

「謝罪しなければ折ると、昼にはっきり宣告したはずだ。それでも彼女への侮辱を重ねるというなら、俺も容赦はしない」

「で、殿下、ご容赦を! 俺は侮辱なんて」

「深夜だからな、あまり大きな悲鳴をあげてみなに迷惑をかけるなよ。──よし行くぞ」

「申し訳ございません! 謝ります! だからどうかお待ちください! これは全て、グレイン卿の指示でございまして!」

 情けない声が、廊下に反響する。

 ボラードの叫声で空気が震えるあいだ、アドラスさんはぴたりと動きを止めていた。やがて音が壁に吸い込まれると、彼は目線で私に語りかける。

 私がうなずくと、アドラスさんはおびえるボラードをそっと解放した。

「今の話、どういうことだ」

 床にへたり込んで肩をでるボラードに、アドラスさんは冷然と問いかける。

 先刻までの権柄ずくな態度はどこへやら、へこへこしながらボラードはまくしたてた。

「グ、グレイン卿が。これから継承権保持者としてご活躍する殿下が、下々の女にうつつを抜かすべきではない。邪魔になる前に、この女を適当におどしてさっさと屋敷から追い払え、とおっしゃいまして」

「……」

「ですから、俺自らの意思で彼女を侮辱しようとしたわけではないのです。どうかお許しください」

 真偽はともかく、あり得そうな話ではあった。グレイン卿は、私のことを快く思っていないようだったから。

「……行け」

 けんたいたっぷりにため息をつきながら、アドラスさんは顎をくい、と動かす。ボラードは何度も謝罪を繰り返しながら、幽霊使用人と同じ方向へ消えていくのだった。

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