第一話⑤

 追及不要とばかりにアドラスさんは馬装を始める。リコくんはもの言いたげにアドラスさんの背中を見つめるが、結局は諸々を押し殺したような表情で、荷の用意を始めるのだった。

 邪魔にならぬよう脇に寄りながら、二人の様子を観察する。

 アドラスさん同様、リコくんの衣服も長旅を経たあとのように擦り切れていた。そのわりに荷物は少量で、あっという間に彼の荷支度は済んでしまう。

 このアウレスタから帝国領までは、馬で駆けて四、五日ほどの距離しかない。らした魔獣を使えば、もっと短く二日半だ。確かに大掛かりな旅支度は必要ないが、どうして彼らの衣服はこんなにくたびれているのだろう。

 いや、そもそも彼らは帝国領からここに来たのだろうか。アドラスさんは帝国の騎士だと言っていたが、だからといって出発点が帝国であるとは限らない。今から向かう先が帝国だという保証もない。

 ……本当に、何も聞かずについてきてしまったものだ。

「馬には乗れるか」

「はい、少しは」

 アドラスさんの問いにうなずき返す。馬は得意ではないが、乗れないことはない。

「この通り、二頭しかいないからな。しばらく俺と二人で我慢してもらうぞ」

「聖女様と二人乗りなんて、不敬じゃないですか」

「ではお前が俺と乗るか。俺はそれでも構わんぞ」

 アドラスさんが暴論を振りかざせば、リコくんは何も言わなくなる。

 不服そうな従者の頭をぽんとたたくと、アドラスさんは馬にまたがって、私に手を伸ばすのだった。

「さあ行こう、聖女殿」




「マルカムが逃げた、だと」

「……はい。申し訳、ございません」

 主席聖女執務室にて。ミアは唇をみ締めながら、頭を下げた。

 オルタナは表情こそ動かさないものの、彼女が全身から発する空気は、刃のように鋭く冷たい。

 しかしミアの胸の内は、屈辱で焦げつきそうなほど熱かった。

 神殿内の警備統括はミアの仕事だった。警備の配置と人事は、近頃彼女の手によって再編成されたばかり。それなのに、二度も同じ部外者に警備を突破された挙句、ヴィクトリアの逃亡を許す羽目となってしまった。

 オルタナの配下となってこの地位を勝ち取ったばかりなのに、どうしてこんな無様な事態になってしまったのか。

 ──それもこれも、全てヴィクトリアのせいよ。

 心の中で吐き捨てて、ミアはいまいましげにこぶしを握り締める。

 ヴィクトリアはその昔、陰気で鈍臭い子供だった。他の子供たちが遊びや勉学に夢中になっているあいだ、彼女はいつもぼけっと突っ立って、何もない部屋の角を見つめていたものだ。当然ながら周囲からは気味悪がられ、扱いに困った大人たちは、彼女の世話を優等生のミアによく押しつけた。

 その度に、どれだけ煩わしい思いをしたことか。

 だが、気づけばヴィクトリアはミアを差し置き主席聖女の付き人に選ばれていて。ついには十七という若さで、聖女の座まで手に入れてしまった。

 許せない、と思った。何が「物見の聖女は真実を見通す」だ。

 蟻の行列を眺めて一日を使いつぶすような奴が、一体どんな真実を視るというのか。あんなもの、予言でも何でもない。きっと聖女ジオーラは、弟子可愛さにでたらめを口にしたのだ。

 だから間違いを正してやろうと、ここまで尽力したのに。あともう少しというところで、ヴィクトリアは裁きの手から逃れ、ミアの足を最悪な形で引っ張るのだった。

「追跡は私にお任せください。部隊の編成は既に済んでおります。計画的な脱走とは思えませんし、捕縛にそう時間はかからないでしょう。あのアドラスという男も必ず──」

「必要ない。放っておけ」

 必死に並べた提案があっさりと却下され、ミアは続きの言葉を失った。

 追う必要がないとはどういうことか。懲罰房から抜け出して、どこの馬の骨とも知れぬ男と逃げるなど、いんを誓う聖女にあるまじき所業である。神殿内の風紀と規律のためにも、あのような堕落者はさっさと捕らえて見せしめにするべきではないのか。

 そんなミアの考えに応えるように、オルタナは首を振った。

「現状はむしろ我々に好都合だ。あれが逃げるなら、好きにさせた方がいい」

「好都合、とは」

「マルカムの聖女位はくだつは、半数以上の上級神官から同意を得て決議された。しかしいまだに聖女ジオーラの言葉を盲信し、たびの追放処分を渋る者もいる。だが、マルカムがここで逃亡するなら、彼らも表立ってあれをかばうことはできなくなるだろう」

「ですが、もし彼女を取り逃がしてしまったら」

「問題ない」

 きっぱりとオルタナは言い切る。

「あの者たちの目的と行き先は把握している。だから今は泳がせておけ。聖女位剝奪の儀を終えていない以上、いずれ処理する必要はあるが」

 処理、という言葉にミアはひやりとしたものを感じた。

 聖女の位は、書面や口頭でやり取りできるものではない。一人を罷免するのにも、神殿幹部の承認を得て、しかるべき祭儀を執り行うか──もしくは、対象者の死亡を確認する必要がある。

 オルタナの言う処理とは、一体どちらのことなのか。

「マルカムとあの騎士は、帝国領へ向かっているはずだ。帝国には何人か知己がいる。いつでも手を回せるよう私から連絡を入れておこう。……それもあの男と共にいるなら、必要なくなるかもしれないが」

「承知、いたしました」

 煮え切らない思いを抱えたまま、しかしそれ以上オルタナに問いかけることもできず、ミアは深くうなずいた。もとより、彼女には首を横に振れるだけの権利も力も存在しないのだ。

 オルタナはしばらく腕を組んでいたが、やがてこの話題に興味がせたらしい。ミアなどはじめからいなかったかのように、手元の書類に目を落とし始めた。

 黙ってもう一度礼をして、ミアは執務室を出る。そして扉を慎重に閉じたところで、はいの空気を一気に吐き出した。

 オルタナの配下となって、もう一年が経つ。

 彼女の一派は有能揃いで有名で、仕事はできて当たり前。普通の頑張りなど評価の対象にもならない。だからミアはあらゆる仕事を引き受け、全てをかんぺきにこなし、ただの一神官として埋もれぬよう努めてきた。

 だが、まだ足りない。ミアはオルタナの眼中にすら入れてもらえない。

 今だって、言いたい言葉が言えなかった。ミアの胸中でうごめく予感を、伝えることができなかった。オルタナの研ぎ澄まされた空気が、助言も反論も許してくれなかったのだ。

 ……おそらくオルタナは、ヴィクトリアごときに何もできぬと踏んでいるのだろう。だからこそ、この状況で放置を選んだ。

 その考えは正しい。だが、甘くもある。

 確かにヴィクトリアは何もできない。あんな無能に、成せることなどあるはずがない。


 しかしいつだって、事件は彼女の周りで起きるのだ。

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