胡蝶の恋

八百本 光闇

眠り

 スイセンと三日月と蝶々が、朧げに少女を照らしている。一面に咲き乱れるスイセンが黄色く地面を照らし、三日月の細い光がスポットライトのように彼女を貫く。少女の周りには、蝶々が青白く輝いて、ひらひらと飛んでいた。

 夏用の制服を着ていたせいで肌寒かった。風が吹くたび、スカートが緩やかに揺れ、朝露が冷たく肌に触れる。膝小僧へ飛んだ水滴が裸足に落ちる。しかし、僕は体を動かそうとはしなかった。正確に言うと、少女に見惚れて体を動かせなかったのだった。


 蝶々の羽ばたきが奏でるピアノの音に合わせて、少女は自由に歌って、踊っていた。


 ……心の弱い部分を、ゆるやかに撫でてくれる。午前2時に独りで布団を被っているときのような不安とあたたかさが混ざりあって、僕に強烈な懐かしさを感じさせた。蝶々の伴奏と少女の歌声と踊りを鑑賞していると、僕はいつも泣きそうになったり、本当に泣いたりする。



 曲が終わる頃には、僕はぽろぽろ涙を流していた。今までで一番涙が出たような気がした。僕は曲を終わらせてほっと一息ついた少女に歩み寄った。

「本当に君は天才だよ。歌も、踊りも、本当にすごい。どこか懐かしさを感じさせて感慨深いし、才能に嫉妬しちゃうくらいには素晴らしいんだ」

 少女は僕の表情を見るなり、柔和な笑顔をしながらもうつむき、首を横に振った。

「いや、全然そんなことないよ」

「謙遜なんてしなくていいよ、君は天才だから」

「天才、か。ありがとうね」

 少女を見ていると、胸が高鳴ってくる。勝手に笑顔になってくる。彼女の全てが麗しく見えてくる。これが恋だと、僕は薄々分かっていた。

 この気持ちを伝えるべきか、僕はずっと迷い続け、何百回とここへ来るのに、まだ自分の気持ちを伝えられていない。



「うっ……」

 少女と他愛もない話をしていると、僕は段々頭がぼおっとしてくる。いつも、こうだ。

「もう寝ちゃうの?」

 少女はまだ話し足りないといった様子で僕をパチパチ見つめる。僕もまだ話し足りない。

「僕も本当は、ずっとここにいたいよ。でも……生物は、眠らないと死んじゃうから」

 たとえ悪夢を見ても。

 少女は少し間をおいてから、頷いた。

「そうだね。……起きたら、また、来れる?」

「うん。来るよ」

 僕がそう言うと、意識を失った。悪夢に耐えれば、また会えるから、大丈夫だ。



――



 ある日、いつものように少女のパフォーマンスを見て感動して、彼女の方に歩もうとしたとき、スカートのポケットに違和感を覚えた。

 スカートのポケットをまさぐると、そこにはカッターナイフが入っていた。青く濁った無骨なデザインは、僕が悪夢の中でいつも使っているカッターナイフと同じ種類のものだった。しかし、これはまだ新品のようだった。

 ……どうしてこんなものを持っているのだろう。美しく高尚なこの世界にこのような場違いな凶器はいらない。僕は何とかしてそれを消そうとした。しかし、どれだけ念じても念じても、刃はギラギラと光るばかりで消えてくれなかった。


「ねぇ」

 少女に催促され、僕はカッターナイフをポケットに戻して、彼女の元に行った。

「ごめんごめん。今日も綺麗でさ、感動したよ」

 少女はやはり僕の褒め言葉をやんわりと否定する。でも、どれだけ否定していても、少女は実は喜んでいることを、僕は知っている。なぜかは分からないけど、知っている。




 しばらく他愛も無い話をした後、蝶々の話になった。それは僕にとってとても印象に残ることだった。



 少女は指先に蝶を止めた。蝶はゆらりゆらりと青い羽根を動かしている。

「蝶って、どの姿が一番好き?」

「蝶?」

「幼虫とか成虫とか、あるでしょ?」

 僕は少女が手に止めた蝶をよく観察しようと目を細めた。触覚がピクピクと動いてかわいらしかった。

「もちろん、成虫だよ」

「どうして?」

「いちばん、綺麗だから」

「そう……」

「君は何が好きなの?」

「あ……わたしも、成虫が好きだよ逆に幼虫は、なんだか自分と重ねちゃって、嫌いだな」

「重ねる……?」

「揚羽蝶の幼虫の、擬態してるところとか」

 少女がちょっと手を動かしたら、蝶々はどこかへ飛んでいってしまった。

「擬態? 僕には……哲学的すぎて、よく分からないな」

 こんなふうな高尚な考えは、今の僕にはできない。理解したくもない。僕はわざと話題を避けようとした。

「擬態の話。これは……わたしの考えじゃない」

「え?」

「本当は、ぜんぶ分かってるんだよね?」

「分からないよ。僕には何も」

「いつか分かるよ」

 少女は時々、いや、よく、僕にはよくわからないことを言う。年下なのに、僕なんかより頭が良くて、僕なんかと比べるのはおこがましいくらい全部上回っている。しかし、僕は、僕は……。

「……どうしたの? 今日、なんだか顔が固いよ」

「なんでも! なんでも、ない……から」

 僕はポケットに手を突っ込んでカッターナイフを強く握りしめた。いくらか強くなったような気がした。




――



 少女は、何でもできる。歌も、踊りも良くできる。頭もいい。愛嬌もいい。みんな僕に欠けている。しかし、僕がカッターナイフを手にしてから、『僕は少女を殺せる』という意識が強く出て、にわかな嫉妬心が生まれた。

 彼女が美しく踊るたび、どうして僕はこんなにも踊れないのだろうと妬んだ。彼女が美しく歌うたび、どうして僕の声はこんなに汚いのだろうと失望した。彼女が僕の心を震わせるたび、釣り合わない僕に構う彼女にイライラした。



――



 ……それはきっと、嫉妬だった。積もりに積もった嫉妬が無能の僕を突き動かしたのだ。ある日、僕は少女に、カッターナイフを向けていた。元々腹の中に溜まっていた嫉妬心が、凶器になって現れたのかもしれない。ともかく、僕は彼女に走り寄って、左腕を切った。悪夢でいつも僕がそうしているように。

 彼女を切り裂く手は、僕だけのものではないような気がした。今まで出会ったすべての人間か。親、教師、他人、そして、僕。

 少女は、浅く切っただけなのに叫んで、悶え、仰向けに倒れた。少女は痛みに慣れていなかった。僕は倒れた少女の前にしゃがんだ。


 痛みに悶えた少女は、僕とよく似ていた。もっと切ると、もっと似た。僕は何かに取り憑かれたように悪夢を思い出すままに、傷をつけていった。

 そうして、『少女は僕である』という単純な結論に気づいたときには、少女の腕は今の僕のように、傷だらけになっていた。


 ……少女は昔の僕と同じ髪型をしていた。昔の僕と同じ制服をしていた。昔の僕と同じ顔をしていた。昔の僕と同じ、高い能力を備えていた。僕も含めたいろんな人から、たくさん期待された。


 そんな少女が好きだ。そんな君が好きだ。

 そんな僕が好きだった。やっと思い出した。


 スイセンが咲き乱れる夜に、少女は血を流していた。蝶々はそんな僕と少女の辺りを舞って、青白く発光する。

「好きだよ」

 僕がそう言うと、少女は何かを喋ろうと口を開く。少女が言葉を発してしまう前に、僕は片手で彼女の首をそっと押さえた。彼女に何も言わせないように、唇にキスをした。

 僕らが、世界が、ゆるやかに溶けていった。蝶々は白黒の幼虫になって、食糧を探しに地を這った。三日月は新月となって、スポットライトはなくなった。スイセンだけは例外だった。スイセンだけは、黄色い光をもっと強くして、僕らを覆った。まるで、僕らの行為を肯定してくれるかのように。少女が死んでいくのを肌で感じながら、僕も目を閉じる。



――


 目が覚めた。カーテンから強く光が漏れている。もう昼下がりだ。不健康な生活だよな、と、心の中で笑う。

 赤点が重なったテスト用紙。無用心にも無造作に置かれた古ぼけたカッターナイフ。いつもと同じ、悪夢のような景色だ。しかし、悪夢のような景色ではあるが、ここはもう悪夢ではない。

 ただの、現実だ。

 僕は部屋の椅子もたれかかって、目を瞑り、あの夢のことを思った。期待された少女は、才能が眠っていると言われた少女は死んだ。傷をつけたのはみんなかもしれないが、結局は僕自身が手をかけた。それで良かったのだ、と、思うことにした。


 僕はふと、久しぶりにピアノを弾いてみようと思いついた。今まで弾くのを嫌悪していたのに、こういう考えを思いついたのは、やっぱり夢のせいだろう。

 ずっと弾いてないくせにホコリ一つないピアノを開け、ずっと座ってないくせにホコリ一つもない椅子に座り、白と黒が並んだ鍵盤を押さえた。下手くそな音が鳴った。当然だった。眠っていた才能を殺したのだから。或いは、称賛によって作られた偽物の才能を認識したのだから。ピアノは下手くそだったが、しかし悪い気はしなかった。だから僕はしばらくその下手くそなピアノを弾いた。既に陽が差している。きっとどれだけ下手くそな曲を弾いても、許してくれるだろう。たとえ誰も許してくれなかったとしても、僕は勝手にピアノを弾き続けるだろう。そう思った。



(了)

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