くらげ

「みずくらげ、はながさくらげ、さかさくらげ!」

「はいはい」

 小さな爪を赤く染め、めいっぱいおしゃれをしたこどもの人差し指があちこちに矢印を飛ばす。形も大きさもさまざまなクラゲが浮遊する青い空間に子供の声がよく通って、名前が次々に明かされていった。

 日曜日の水族館は、カップルや家族連れで賑わっていた。俺だけが場違いな気がして、つい周囲の視線に敏感になる。そのうち、その場にいる人々の間になんとなくふわっとした笑いの気配を感じ取って、俺はこどもの両肩をそっと押さえた。

「ちょっとしずかにしようか。もっと近くで見る?」

「見ない。全部当ててからにする」

「あ、そーう」

 美月みつきちゃん、みーちゃんは沢村の長姉の娘、つまり同居人の姪っ子だ。姉・夏妃なつきは美月の父親とは別れ、実家の手を借りながら子育てをしている。が、たまに都会でパーッと気晴らしをしたくなるらしく、沢村は荷物持ちに駆り出され、俺は子守りを言いつけられた次第だ。

 はじめ、沢村は抵抗しようとした。

「なつ、先輩は関係ないだろ。巻き込むなよ」

『関係ないわけないでしょ、うちの野菜食べてんだから』

「相変わらずめちゃくちゃだな……」

 スピーカーで通話していると、力関係がまるで筒抜けだ。俺は頭を抱える同居人を見かねて、横から口を出した。

「いいよ、俺べつに予定ないし。お世話になってんのもそうだし」

「まじですいません……」

『じゃ、再来週の日曜よろしくね!』

 そう、夏妃の辞書に遠慮の二文字はない。なにせ彼女は夏の女王だからだ。名付けた親を恨むしかない、とざるうどんをすすりながら沢村がぼやいた。


 水族館のくらげは美月たっての希望だ。入学祝いにもらった図鑑はほぼ丸暗記しており、そのなかでもくらげが一番好きなんだそうだ。

「なんでくらげがいいの?」

「くらげって、うみのつきってかくでしょ。お母さんと、みつきと、おそろいだから」

 こどもが得意じゃない俺も、これにはちょっときゅんとしてしまった。

 一番好きなのはたこくらげ、まるくてきいろくてかわいいから。「どれ?」と聞いたらなぜ知らないのかと詰られた。

 美月の「すき」にはみんなちゃんと理由がある。そのことに感心しながら、まじめに説明してくれる彼女の丸い頭を、決して見失わないようについていく。


 美月を連れて帰宅すると、沢村姉弟はすでに帰ってきていて、二人揃ってソファに伸びていた。

「おかえり美月、楽しかった?」

「うん、だいまんぞく。おかあさんは?」

「おかあさんもだいまんぞく」

「おじさんはめっちゃつかれた……」

 娘より母の相手のほうが大変だったようだ。なんだか申し訳ないが、実は沢村に頼んでおいたミッションがある。

「疲れてるとこ悪いんだけどさ」

「いやお互いさまっす、ていうかありがとうございました。どうでした?」

「そこそこ仲良くできたとおもうよ」

「よかった。それにしても先輩、面白いこと思いつきましたね」

「なんも知らないって言われちゃったからな。まあいっこくらい驚かしてやろうかと」

「いいと思います、たぶんまだ知らないんじゃないかな」

 さて、その晩沢村と俺が手を組んで用意した晩飯は中華定食。ワンタンの皮と豆苗のスープに青菜のナムル、そして。

「あっ、きくらげ!」

 母の嬉しそうな声に、美月がぎょっと振り返った。

「きくらげ……?」

「知らない? ほらこの黒いの」

「くろいくらげ……?」

 ふわっと黄色い炒め卵から見え隠れする黒いひらひらに、美月は明らかに混乱している。彼女が知り尽くしているはずのくらげワールドに、きくらげが暗い影をおとしたのだ。

 意図を察した夏妃を含めて大人三人、おそるおそる箸を運ぶ美月をしばらく見守る。しかし、母は長くもたなかった。

「ごめん、それほんとはきのこなの」

「え、そうなの?」

 怒るか、と身構えた大人たちの予想に反し、真相を知った美月はほーっと大きな溜息をついた。

「やっとごはんの味がする……」

「わー、ごめんごめん!」

「食べ物で遊ぶのは、よくないとおもう……」

「ごめんて!」

 その後、美月はお詫びに買ってもらったハーゲンダッツを掬いながら、「でも、きのこのくらげも好きになれそう」とにっこり微笑んだのだった。

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