第10話①

 気づくと、日高は床に転がされていた。周囲には、むせ返るような熱と共に、白煙が立ち上っている。まるで煙幕のように濃い白煙だ。実際、観客や軍隊からの視線は遮られ、彼らとの間に帷ができている。


 日高は、ゆっくりと上体を起こした。爪の先まで鉛を詰められたみたいだ。しかし、思いの外ダメージは少ない。赤いお札の攻撃を無防備に受けても、以前のように気絶することはなかった。それどころか、千景の攻撃に関しては、ほとんど無傷と言える。どうしてだろう。


「日高、大丈夫か!」


 背後から切迫した声がかかった。心配そうに駆け寄って来たのは、放送室の中にいるはずの迅。なぜ迅が、日高の真隣にいるのか。なぜドアを挟むことなく、手を差し伸べ、日高の身体を支えているのか。日高は、冷静に辺りを見渡してみて、ようやく気づいた。


 日高は今、放送室の中にいたのだ。床についた手が、明らかに廊下のそれではないカーペットの柔らかさを覚える。そして目の前には、鍵を壊されて開け放たれたドア。どうやら千景の攻撃は、ドアを開け放ち、日高を部屋の中まで吹き飛ばしたらしかった。


 ようやく状況を理解する日高。同時に、カーペットに冷や汗が染みる。


 千景によって、とうとう放送室の守りが破られた。目標達成まであと少しという時に、ドアを壊され、日高までもが戦えなくなってしまっている。再起は不可能。このまま煙幕が消えれば、敵は放送室になだれ込んでくるだろう。放送が続けられなくなる。いやそれどころか、軍隊や教師一派に捕まれば、学院長の元に連れて行かれて、命を奪われる可能性も十二分にあった。


 乾いた唇を舐める日高。恐怖のせいで顔が引きつる。


 その時、早くも煙の向こうに、黒い人影が見えた。ドキッと肝を冷やす二人。固唾を呑んで身構える。現れたのは、二枚のお札を手にした千景だった。


 迅がギリッと歯を食いしばる。


「……出ていけ、裏切り者」


 聞いたこともないような低い声で、静かに怒りを滾らせる迅。明晰な彼は、千景の姿を見た瞬間に、日高を攻撃したのは彼女なのだと理解した。当初から抱いていた警戒心をいっそう強める。


 しかし、そんな迅を、日高がたしなめることはなかった。ただ迅と千景を交互に見て、何もできず戸惑うだけ。今の日高に、迅に反論してまで千景をかばうことは、もはやできなかった。


「出ていけって言ってるだろ!」


 迅が、怒りを堪えきれずに立ち上がった。千景を突き飛ばそうと手を伸ばす。一瞬慌てる千景。が、彼女の対応は早かった。逆に迅の腕を掴んで引き寄せる。あっけなく身動きを取れなくする。迅は抵抗するも、戦闘科の千景にはとても歯が立たなかった。


「迅……!」


 切実な日高の声が、虚空に消えていく。日高は哀願するばかりで、迅を助けに入れなかった。もちろん、すぐにでも迅のもとに駆けつけようとした。けれど身体が心に追いつかないのだ。日高の体力もまた、彼の身体を巡る呪力と同様に、底をついていた。


「くそっ、動けよ身体……っ」


 力と声を絞り出し、日高はどうにかして立ち上がろうともがいた。その様子に千景が気付く。彼女は日高の方を向くと、軽くその背中を押さえた。それだけで、日高の拘束は完了した。


 千景が、放送機材の電源を切った後で、鋭く言う。


「二人とも、お願いだから大人しくしていて。一旦私の話を――」


 不意に何かに気づいて、千景が手を引っ込めた。


「日高、もしかして呪力切れを起こしてたの?」


 思いもよらぬ言葉に、日高が警戒しつつ答える。


「……だから何だ」


 千景は息を呑んで戦慄した。目を泳がせて、思案にふける。そうして、懐から二枚のお札を取り出した。


「ごめんなさい。こんなにも二人を追い詰めていたなんて、私、知らなくて……っ」


 お札をそれぞれ、日高と迅の胸に貼り付ける千景。華奢な白い指が、繊細に二人の制服の上を滑る。ガラスでも扱うような、優しい優しい手つきだった。


「手荒な真似ばかりしたけど、私の罪は私があがなう。これで終わりだから。もう二度と、こんなひどいことしないから……っ」


 日高と迅は、しばらく目を丸くするしかなかった。二人とも、おそるおそる千景の顔を見上げ、次いで、互いの顔を見合わせる。千景の人柄が急に変わってしまった。いや、今までの千景、さっき放送室の外で問い正した時の千景に戻ったのか。


 と、すれば。


 彼女は今、「これで終わり」という台詞を再び口にした。その言葉は、とどめを刺す宣言ではなく、日高と迅の邪魔をするのはこれが最後、という意味だったのか。


 やはり千景には、まだ慈悲も罪悪感も残っているのかもしれない。


 それは本当か? この言葉は嘘ではないと、本当に言えるのか?


 日高の胸に疑念が湧き上がる。千景は何度も二人の邪魔をして、何度も態度を一転させてきた。この言葉も態度も、またころっと変わるかもしれない。


 髪をかきあげたい衝動に駆られる日高。それは、千景に吹っ飛ばされ、ヘアピンを失くしたせいで、前髪がはらはらと落ちてくるからだけではない。とにかく頭の整理が追いつかないのだ。何が本心で何が偽りなのか、もう千景のことが分からない。


 混乱が弾ける。心から溢れ出る。


「お前はどっちの味方なんだ! さっきから、言ってることとやってることがチグハグなんだよ。学院長の手下なのか俺らの仲間なのか、悪なのか善なのか、いい加減はっきりしろよ!」


 千景は、唇を噛み締めてうつむいた。悔しそうに、申し訳なさそうに、眉をひそめる。日高には、なぜ千景がこんなに苦しげなのか分からなかった。


 唇を震わせ、千景が小さく口を開く。


「分からない」

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