二十三話 魔女の涙と、生きる道

二十三話 魔女の涙と、生きる道



 最後の夜は、静かに過ぎていく。


 ゆっくりとお風呂に入り、いつもよりとびきり豪華な食事を食べて。明日の昼前にはここを出ることを決定してから、アンジェさんと別れて部屋で一人。


 もう深夜だというのに、僕はまだ寝付くことができない。ここで過ごす夜がこれで最後だと思うと、呑気に寝つくことなどできなかった。


「……水でも飲むか」


 このままでは埒が開かないと思い、僕は台所へと向かう。


 そうしてリビングを通ろうとした、その時。


(アンジェ、さん?)


 そこでは師匠が一人。どこか妖艶な顔つきで、グラスに入った……あれは、ワインだろうか。それを飲みながら、机の上で肘をついていた。


 こんな時間に何をしているのだろうか。もしかしてまた、研究で無理をし過ぎていたのか。


 そんなことを考えていると、その視線が僕の姿を捉える。心の声が聞こえてしまう師匠にとっては、きっと今こうして僕が物事を考えているのも自分に話しかけられているかのような感覚だったのだろう。手招きをされて、アンジェさんの前に座った。


「ユウナ、お前も眠れなかったのか」


「そ、そういう師匠こそ」


「ああ。やることがあるわけではないのだかな。本当に明日で最後なのだと思うとどうも、な」


 お互いに、考えていたことは一緒だったらしい。でも、師匠がこうして僕がいなくなるのを寂しがってくれているのだと知れて……少し、嬉しい。


「寂しい、か。そうだな。きっと私は……お前がいなくなることが寂しいんだ。また、一人になってしまうことが」


「えっ……?」


 否定されると思っていた。なのに、ほんのりと頰の赤いアンジェさんは静かにその事を受け入れ、ガラスの中のワインを飲み干す。


 初めてだ。師匠の、こんなに正直な姿は。


「なぁ、ユウナ。お前はいつだったか、言ってくれたよな。私に出会えて本当によかった、と」


「い、言いましたっけ。そんな恥ずかしいこと……」


「言ってくれたさ。でもな……そう思っているのは私も同じだ。私も同じように、ユウナ。お前に救われたんだよ」


 衝撃の告白に、僕は動揺を隠せなかった。


 僕は確かに、アンジェさんに救ってもらった。諭されて、力を与えてもらった。だけど僕からアンジェさんには、何かを返せただろうか。


 きっと、何も返せていない。だからこれから返すために、ここを出たらやる事を決めた。なのに、一体僕の何がアンジェさんを救ったのか。


「どれだけ空間魔術で封印を押し広げて部屋を快適にしてもな、ふとした瞬間に私は恐怖に襲われるんだ。『本当にここから出られる日はくるのか』、『私はここで一人、死んでいくんじゃないか』、とな」


 それは、最強の魔女が初めて口にする、明確な弱さ。普段は僕の前で気丈に振る舞っていても、心の中には常に弱さが隠れていたのだ。


「でも、お前が来てからのこの三年間はその寂しさを忘れられた。私を内面から食い破ろうとする孤独感はあの日、お前が扉を開けてくれた日から消え去ったんだ」


 誰とも接することなく、ここから出られることもなく一生を終える。どれだけ研究を重ねても破ることのできない封印のせいで、師匠は何度も自暴自棄に陥ったのだという。今の姿からは想像もできないが、最も酷いときは自死まで考えたこともあったらしい。


 当然か。どれだけ魔術の才があろうとも、十五歳の少女が一人、暗く狭い空間に封印されたのだ。人は何もない空間では三日間しか正常な意識を保っていられないとも聞いたことがあるが、師匠の場合はそれを八百年。何もない空間だったのは始めだけだったのかもしれないが、それでも常に正常でいられるはずがない。


「……そう、だったんですね」


「ふふっ、すまないな。これから旅立とうとしているお前にするべき話ではなかったかもしれない。でも……知っておいて欲しかったんだ。私がどれだけ、ユウナのことを想っているのかを」


 僕の頭にそっと細い手が伸びてきて、前髪に触れる。そして頰を撫で、青い瞳に当てられた。


 初めて会った日と同じ、優しい微笑み。でも、その瞳の奥には微かに弱さが滲み出ている。手はほんの少しだけ震えていて、口には出さなくともまるで″行かないでほしい″と、そう訴えているかのようだった。


「アンジェさん。僕は……」


 師匠には、返しきれないほどの恩がある。僕にとっての全てはこの人で、この先の人生の使い方はもう、決めている。


 あの日、僕は″強い人になる″と決意した。けれど、その形はあまりにも曖昧で。剣を極めて武力のある人間になるのか、それとも精神的に強い人間か。あの世でみんなが胸を張れるような男になるということへの正解は何なのか、ずっと分からなかった。


(これは、明日別れ際に言うつもりだったのにな……)


 でも、もう答えは見つけた。僕の進む道は、ただ一つだ。


「僕は、アンジェさんを絶対にここから救い出して見せます。だからもう少しだけ、待っていてください」


 人を救うことこそが、強い人になる証明だ。剣士として、騎士として、そして弟子として。僕はこの生涯をかけて、アンジェさんを救い出す。まだその方法も算段も何も無いけれど、関係ない。


 それこそが、僕の生きる道だ。


「っ……何を、言ってるんだ。お前の人生は、私のように長くはないのだぞ! ユウナには、ユウナの人生が……そこに、私は……ッ!!」


「アンジェさんは僕の全てなんです! 絶対に、欠けてほしくないんです。だから……何が何でも、ここから引っ張り出します!」


 師匠は優しい人だ。自分が枷になることを嫌がって、反対することは分かっていた。


 でも、師匠は枷なんかじゃない。目標であり道標。そして、生きる意味だ。たとえ何と言われようと、僕は絶対に救い出したい。そして、また一緒に……


「本当に、お前は。お人好しめ……」


「師匠だってお人好しですよ。僕はただ、そんな生き方を弟子として見習っただけです」


「……もう、勝手にしろ」


 そういうアンジェさんの顔は、嬉しさを隠しきれてはいなかった。そっぽを向かれてしまったが、それが怒りからではないことは知っている。


「お休みなさい、師匠。また、明日」


「…………お休み」


 最後の夜は、静かに更けていく。




────魔女の涙を、背景に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る