第8話 鉄

 夜、時刻は二時を指していた。明神は直人の家の前に立ち尽くすと、不意に玄関から黒い犬がすり抜けて出てきた。

「礼を言い忘れていた」

 明神がそう言って頭を下げるが、犬は何も言わない。行儀よく座り、尻尾を右へ左へ動かしている。中型の黒い柴犬の様だが、目は瞑っているのか見えない。

「直人を護ってくれてありがとう」

 自分が直人に向かって刀を振り下ろした時、既の所で止めたのは彼だった。彼が居なければ今頃、自分は直人を殺した事を後悔していたかもしれないし、それすらも解らないまま鬼になっていただろう。

「般若堂には居なかったな。お前も般若堂へは近付けないのか?」

 静かに呟くと、犬は右耳を上下に動かした。

「まだ、足りない」

 犬が呟くと、明神は首を傾げたーー。



 日光が微かに黄色味を帯びていて、壁や塀の強い反射が幾分和らいで見える。田んぼに早生の穂が出揃って白く波打っていた。あれは小学二年生の秋の事だった。

 空が茜色に輝く頃、黒い犬が不意に目の前に現れた。以前、呪詛が抑えきれなくなった時に一度会った覚えがあった。下校途中に急に現れたそれに明神は眉根を寄せる。

「春香が倒れた」

 黒い犬が喋ると、瞳を宙に泳がせた。そうすることで、視たいと思う離れた場所を頭の中で視ることができるからだ。

「そう」

 確かに、自宅の台所で倒れている橋本 直人の母の姿を確認することができた。けれども、だから何だというのだ? 別に彼女が死んだ所で、直人には父親が居る。父親が直人の面倒をみるだろう。それが出来なければ施設にでも入れられるというだけの話だ。別に自分には関係ない事だ。

「直人の事を頼む。と言伝を頼まれた」

 相変わらず奇妙な生き物だ。今、自らが生死の境を彷徨っていると言う時に、息子の心配をしている。

「どうして俺に?」

 黒い犬は行儀よく座り、尻尾を振った。

「あれには恩がある。産まれて直ぐに捨てられた俺を拾い上げて育ててくれた」

「俺には関係の無いことだ」

「お前もだ」

 犬の言葉に明神は首を傾げた。

「お前を可愛がってくれた。だからお前に頼む。もしもあの親子を助けてくれるなら何でも一つ望みを叶えてやる」

 黒い犬はそれだけ言い残すとさっさと姿を消してしまった。

 助ける……

 その言葉の意味が良く分からなかった。苦しみが少しでも長く続かないように早々に止めをさせという意味だろうか? 親子と言われたのでそうなると直人も殺さなければならないのだろうか? あの犬からはそんな邪悪な気を感じなかったから多分、違うのだろう。自分は、母親が死んでしまった時に一緒に殺しておいてほしかったと思うが、生き続けられると言うのであれば、母親と一緒に生きていたかった。だから多分、直人もそう思うのだろう。だって彼もまた、まだ小学生なのだから……

 田んぼの用水路でザリガニを取って喜んでいた直人に視線を向けた。母親の事を何も知らずに無邪気に燥いでいる。

「明神! お前も来いよ!」

 直人に声をかけられ、明神は溜息を吐いた。近く迄寄ると腰を下ろして直人を見下げた。

「逃してやれ」

「えー折角捕まえたのに〜!」

「宿題」

 明神の言葉に直人の顔が強張った。夏休みは終わったのに漢字の書き取りの宿題が出来ていなくて先生に怒られていた。夏休みに出来なかった分もやるようにと言われたのが二週間くらい前のことだった。

「どうせ先生も忘れてるよ」

「そうだろうな。けど、直人はそれでいいの?」

 直人は不思議そうに首を傾げた。

「直人は逆上がり出来る?」

「出来るよそれくらい」

「その逆上がりは、ある日急に出来るようになったの?」

「練習したんだよ」

「学校の勉強も同じだ」

 直人は不満そうに眉間に皺を寄せた。

「漢字も書けるようになるまで反復練習しなきゃ書けるようにならない。だから先生は宿題として出しているんだ」

 直人がげんなりとした表情をしていると、捕まえていたザリガニが跳ねて逃げた。

「分かったよ。帰れば良いんだろ?」

 明神はゆっくりと頷いた。

「じゃあ宿題手伝ってよ」

 直人は用水路から上がると、明神の腕を掴んだ。有無を言わさずに夕日に染まった丘を駆けて行く。いつもなら忙しいと手を振り払うのだが、その手を振り払えなかった。



「ただいま〜!」

 玄関に直人の声が響いた。いつも通り靴を脱ぎ捨てて居間に駆け込む。明神がお邪魔します。と呟いて、直人が脱ぎ捨てた靴を揃えた。

「母さん?」

 明神が直人の声のする方へ行くと、倒れた母親を目の前にして狼狽えている直人の姿があった。

「お母さん……」

 このまま目を覚まさないのではないだろうかという不安と、何が起こったのか分からいまま、どうすれば良いのか分からないらしい。目頭が熱くなって涙が出ると、次から次へと涙が止めどなく溢れてくる。泣いている直人の傍に明神が来ると、直人は腕で顔を擦った。

「明神……母さんが……」

「泣いたら何とかなるって思うの?」

 明神の表情は冷たい。直人は涙を拭って必死に声を出す。

「お母さんを助けてよ」

「俺じゃなくて、大人の人に助けを求めるべきだと思う」

 面食らって、唇を噛み締めた。

「どうすれば……」

「先ずは状況の確認」

 明神はそう言うと壁にかけられた時計を指差した。直人が時計を見ると五時を指している。

「怪我をしてないか、出血の有無」

 直人は明神に言われて母の様子を見るが、怪我はしていない様だ。

「電話」

 直人は気付いて廊下に置かれた電話に駆け寄る。

「えっと、110?」

 パニックになっている直人を尻目に、明神は電話帳を開いて見せた。

「里の救急に電話かけた方が早いから……」

 そう言いながら、電話帳に書かれた小さな数字を指し示す。直人は手が震えて何度も押し間違えたが、やっと救急に繋がった。聞いたことのない男の人の声で緊張し、言葉が出てこない。

「救急ですか? 消防ですか? どうされましたか?」

 頭の中が真っ白になり、隣にいる明神に目を向けるが、彼の表情は驚く程変わっていない。

「お前はどうしてほしいの? 自分の言葉で、ゆっくりでいいから話してみろ」

 ゆっくり深呼吸して、やっと言葉が出てきた。

「お、お母さんを助けて下さい!」

 それから自分が何を喋ったのか覚えていない。泣きじゃくって、しどろもどろで話すのを、電話口のおじさんが丁寧に一つ一つ聞き返してくれて、気が付いたら家の前に救急車が停まっていた。慌ただしくタンカーで運ばれる母に付いていくように救急車の荷台に乗ろうとすると、当然付いてきてくれるだろうと思っていた彼が、何も言わずにぼうっと立っていた。

「ねえ、ついてきてよ」

 心細くて声をかけた。明神は相変わらず瞬き一つしないで隣に座ってくれた。そのまま病院まで付き添ってくれて、いつの間にか直人は待合室の椅子で眠っていた。

 気付いたら外は暗くなっていた。薄暗い病院の待合室で目を覚ました直人は、自分の置かれている状況がよく分かっていなかった。だんだん母が台所で倒れていた事や救急車で運ばれた事を思い出し、飛び上がる様に起き上がった。

「お母さんは?!」

 隣に座っていた明神に聞くと、彼は何も言わないで椅子から下りた。明神に手招きされるままに付いて行くと、点滴に繋がれ、ヘッドに横たわっている母が目に入る。母に駆け寄るが、寝ているみたいだった。

「死んじゃうの?」

 涙目になっている直人に向かって、明神はやっと口を開いた。

「いや……」

 言いかけて、言葉を濁した為に不安がこみ上げた。明神は嘘をつかないと思うが、もしかしたらダメなのかもしれないと思った。それを察したのか、やっと彼は言葉を続ける。

「直人のおかげで、手術が間に合ったから死にはしない」

 彼の言葉にホッと胸を撫でおろした。

「明神のお陰だろ? ありが……」

「俺は何もしていない」

 言葉を遮られて少しつむじを曲げた。きっと、自分一人じゃ何も出来なかったと思う。だから感謝してるのに、そんな言い草ないと思う。

 直人のお腹が鳴って、どうしようかと思った。慌てていたのでお金なんか持ってきてないし、お母さんの傍にいたいし、でも、一人で病院に泊まるのも怖いし……

「帰るぞ」

 思案していると、明神がそう言ったので当然かとは思った。あいつはあいつの家に帰るのが本当だろう。これ以上、同い年の彼に頼るのも悪い気はする。けれども心細い。

「なあ、明神の家に行ってもいい? その……一人は怖くて……」

 背を向けたあいつが、再びこっちを見た時一瞬、首を傾げた。何かを考えているのか少し言葉を詰まらせてゆっくりとあいつの唇が動く。

「……それは出来ない」

 やっぱり……想像してはいた言葉に肩を落とした時だった。

「お前の家にお邪魔していいなら一緒に居てやる」

「勿論!!」

 目の前に光が差した気がした。その後病院の隣にあるうどん屋で明神に奢って貰って家に帰った。一緒にお風呂に入ろうと誘ったのだが断られ、どうやら部屋の埃とかが気になったのかずっと細々動いていた。明神があんなに綺麗好きだとは知らなかった。宿題を一緒にして、部屋に蒲団を二つ並べて横になると、何時も居るはずの母がいない事が心細くてずっと一人で喋っていた。本当は明神に話しかけていたのだが、何を言っても空返事だった。

「なあ、明神の母ちゃんはどんな人?」

 なんの気なしに聞いてから、彼の母が既に亡くなっている事を思い出した。しまった! と思った時にはもう遅くて、別の話題を考えようとするが直ぐに思いつかない。

「さあ……」

 溜息の様な声が聞こえた。

「俺みたいに自己満足の塊みたいな人だったんだろうと時々思う。勝手に産んどいて勝手に死んでいったやつの事なんて覚えてないから何とも言えないが、バカだと思う」

「自分の母ちゃんの事、バカなんて言うなよ」

 少しの間、沈黙があった。齟齬が生じたのだと思ったらしい。

「……生きていれば辛いことや悲しいことがあるのは当たり前だけど、楽しいことや嬉しいことまで投げ捨てて死んでしまった事に対してバカだと言っただけだ。尊敬してないわけではない」

 何となく、怒らせてしまった様な気がした。多分、生きていてほしかったのに。という彼の切な願いが込められている様に感じた。

「ごめん」

 それからお互いに何も話さなくなって、いつの間にか眠ってた。



 パンの焼ける美味しそうな匂いに誘われて直人は目を覚ました。蒲団から起きて居間に向かうと、居るはずの母の姿は無く、昨日のことは夢では無かったのだと思い知らされる。テーブルに並べられたこんがり焼けたベーコンと卵焼きとブロッコリーと、バターが塗られたパンの前に座り込んだ。嫌いなミニトマトを皿の外に追い出そうとすると、ヨーグルトをよそった小さな器と、温かいお茶が入った湯呑みが運ばれてきた。それを並べた明神を見ると、相変わらずつまらなそうな顔をしている。

「おはよう」

「早く食べないと遅刻するぞ」

 眠気眼にテーブルに並べられた食事を一瞥してから明神に問いただした。

「明神は? 食べないの?」

「もう食べた」

 それなら起こしてくれたっていいのに……と思いつつ、準備してもらっといて文句を言うのも何だか気が引けた。急いで食べている間にあいつは何をしているのかと思ったら、洗濯物を干していた。直人が食べ終わった食器も洗って片付けてくれた。そんな事しなくていいと言ったのだが、一人暮らしが染み付いていて気になるのだろう。家を出る時に何やら大きな紙袋を持って家を出るのでそれは何かと聞いたら、直人の母の着替えだと教えてくれた。到底、小学二年生の男では気付きもしないだろう事に気が回る彼が少し怖かった。

「明神って、好きな人居るの?」

 急に何を言い出したんだと言いたげな表情をしたが、直ぐに何時ものつまらなそうな顔に戻っていた。

「いない」

「えーー!? 本当にーー?」

 俺が茶化す様に言うと、明神は瞳を宙に泳がせた。

「……お母さん」

 一気に言葉が詰まった。やっぱり子供ながらに親に想いを馳せているのだろう。ただ、そういう意味での好きな人と聴いたわけでは無いのだが……触れてはいけない部分に触れてしまった気がして何も言えない。

「冗談だ」

「冗談かよ?! いいよ冗談じゃなくて! 誰だって母ちゃん好きに決まってるじゃんか! そういう意味じゃなくてな……」

「俺なんかに好かれてるなんて噂流れたらその子が迷惑だろ。だからそういう話はするな」

 明神の言葉はいつも難しかった。

「人に好かれて迷惑なの?」

「世の中には色んな人がいるって事だ」

「何だよそれ。っていうか居るんじゃん。好きな人」

 明神が一瞬、煩わしそうな顔をした。

「そんなものいない。いなくていい」

 友達なんだから、教えてくれたっていいじゃんと悪態ついたのだが、明神は教えてくれなかった。

 学校に行く前に病院に寄り、荷物を病室に置きに行ったが、まだ母は目覚めていなかった。そのまま学校に行った。

 明神は本当に同い年なのだろうかと思う事が多々あった。年齢を偽証しているのではないだろうかと思ったりもするが、身長は直人より小さいのでそれは無いだろう。



 学校帰りに病院へ寄ると、母が意識を取り戻していた。俺は泣いて喜んだのだが、直ぐには退院できないらしい。

「ごめんね。お父さんに連絡とったら、直ぐには帰れないらしくて、もう少しの間、直人の事をお願いしたいんだけど……」

 母の視線の先には勿論、明神の姿があった。明神は相変わらずつまらなそうな顔をしている。

「なんで俺なの?」

 明神の問いに俺は頭を捻った。

「気心知れてて、直人と違ってしっかりしてるから、私はその方が安心できるんだけど」

「ちゃんとした大人で、直人の面倒見てくれる人に頼むのが筋だろう。無理なら託児か養護施設辺りに頼めば……」

 と言いかけて明神が口籠った。そんな明神を見て、母が笑っている。

「お願いね」

 明神が静かに頷くと、直人は首を傾げた。明神は嫌なら嫌だと言ったはずだし、拒否出来たはずだ。まあ、まだ小学二年生で一人暮らしをしている事を知っている直人の母が彼を心配して施設に入れと言わないわけがないから、その辺目を瞑って貰っていることが弱みを握られている様に思っていたのかもしれない。



 病院から帰る途中、商店街で晩御飯の材料を買うと明神が言っていた。

「ハンバーグがいい!」

 と直人が言うと、明神は嘆息して制服のポケットから小さな財布を出した。中身を確認する明神の姿に直人は何も考えずに言ってしまった言葉の重さに気付いた。

「ごめん、やっぱりいい。家に帰ったら俺の小遣いあるからさ、明日にしよう」

「いや、お金の心配はしなくていい。春香からもそう言われているし……俺が気にしているのはお前の栄養面……」

 明神の言葉に直人は首を傾げた。

「朝、ブロッコリーとミニトマト残しただろ」

 すっかり忘れていた朝食のことを言われて口籠った。

「あれは時間が無かったからで……」

「じゃあいい。ハンバーグ作ろう」

 明神がそう言って精肉店でミンチ肉を頼んでいる。直人はほっとしていたのだが、その後八百屋で色んな野菜を買う明神の姿に狂気を感じていた。

 直人がミンチ肉を捏ねていると、明神がサラダを作っていた。レタスに胡瓜の輪切り、トマトの角切り、ゆで卵とチーズが入っている。ドレッシングをかけると、手早くテーブルに置いていた。直人はその手際のいいのを見つめながらハンバーグの形に丸めている。飴色に炒めた刻み玉ねぎの香ばしい匂いをかぎながら丸めたハンバーグをフライパンに並べた。その間に明神は南瓜と大根と人参の入った味噌汁を作っている。

 本当に、こいつは何者なんだろう……

 そう思いながらも、これほど心強い友達は他に居なかった。

 晩御飯が出来上がると、直人は自分で作ったハンバーグが美味しくてぺろりと食べてしまった。明神がそれに気付いて自分のお皿と取り替える。

「明神は?」

「俺は肉が苦手なんだ。それより、一つのものだけを食べるばっかり食べじゃなくて、三角食べをした方がいい」

 直人は聞き慣れない言葉に目を丸くした。

「三角?」

「一口ずつ、ご飯、メインのおかず、味噌汁といった具合で食べていった方が体に良い」

 そうなると、必然的に野菜にも箸が伸びなければならなくなる。直人は嫌々ながらも言われた通りに箸を伸ばしていく。明神を見ると、明神は自分で言っていた通りに食べていた。ハンバーグの無くなった皿を除けて、ご飯と味噌汁とサラダを交互に食べている。直人は箸でハンバーグを半分にすると、半分明神の皿に置いた。

「ちゃんと食べないと大きくならないんだぞ」

 直人が背の低い明神に嫌味を込めて言うと、明神は嘆息した。

「直人、気持ちは有り難いが、今のは刺し箸と言ってマナー違反だからやめろ」

 直人は半分にしたハンバーグに箸を突き刺して明神の皿に置いたのだが、それが気に入らなかったらしい。

「え、まじで?」

「あと三角食べが慣れてないのは分かるけど、迷い箸も駄目。あと箸の先をしゃぶるのは舐り箸と言ってこれもやってはいけないことなんだ」

 直人は自分の食べ方を指摘されてげんなりした。

「別に良いじゃん。食べ方なんて……」

「最初は面倒臭いと思うかもしれないが、作法は自分の心を整える為のものだ。新渡戸稲造の武士道にも書いてある」

 直人は新渡戸稲造も武士道も解らなくて首を傾げた。

「それ、面白いの?」

「ルーズベルトやケネディ大統領も読んだくらいだから面白いと思う。本来は英語で書かれたものだが、俺はまだ日本語に訳されたものしか読んでない。英語を勉強したら英語版も読みたいと思う」

 明神の話に直人は頭の中が混乱した。新渡戸稲造は、名前からして日本人だろう。

「え? 日本人が書いたのに英語なの?」

「元々外国人向けだから英語なんだ。日本という国がどういった国で、日本人がどういう民族なのかを外国人に紹介するために新渡戸稲造が英語を勉強して書いたんだ」

 直人はふーん……と鼻を鳴らした。この里でも、出稼ぎに来た中国人なら何人か見る事はあるが、直人はアメリカ人を見た事が無い。テレビで黒人とか原住民の人とかを見る事はあるが、それはテレビの中だけであって、自分が生きている世界の延長線上にそんな人達が居るというのは想像しにくいものだった。

「外国人かぁ……想像出来ないなぁ」

 直人が呟くと、明神は食事を終えて食器を片付け始めた。直人もサラダを少し残して食べ終わると、明神は小さなお菓子の箱を一つ直人の前に置いた。

 さっき買い物で八百屋に行った時、お店のおばさんが子供だけで買い物なんて偉いね。と褒めてくれたものだった。

 明神は箱を開けて新しい小皿に一粒出すと、それを指し示した。

「チョコの原材料は知ってる?」

「え、なんだっけ? ココア?」

「カカオだ」

 直人は惜しかったと思ったが、明神の表情は変わらない。

「カカオは中南米で作られているんだ」

「ちゅーなんべー?」

 直人が聞き返すと、明神は地図帳を持ってきて世界地図を広げた。

「日本は?」

「そんなの知ってるよ。ここだろ?」

 直人は得意気に地図の中央を指した。地図にもちゃんと日本と書かれている。

「中南米はここ」

 明神が指し示した先は日本から太平洋を越えた先だった。

「ブラジルで作られているものが多いか……」

「え、こんな遠くでチョコ作ってんの?」

 こんな小さな一粒が、こんなに遠くから旅して来ているなどとは直人は想像したことも無かった。

「原材料のカカオをな。ここで、カカオを育てているのは勿論現地の外国人だろう。その人達からカカオを買い付けて、船で太平洋を渡って、チョコに加工して、直人の手元に来るまでに、沢山の人の手間と時間がかかっているんだ。この中の誰か一人が欠けたら直人の元へはこのチョコは辿り着かない。だからここにチョコがあるのは、この世界に色んな人がいて、お互いに良い影響を及ぼしあった結果、一番良い形で存在している。そう考えれば、そういった沢山の人達のことを知ってみたいと思うのは必然だと思うのだけど……」

 明神はそう言うと、直人の顔を見た。直人は小さい一粒のチョコと、地図を交互に眺めている。

「テレビなんかでは魔法で何でも出したりするんだろうけど、この世界は沢山の人の繋がりで出来ているんだ。その繋がりを断つと誰も生きてはいけない。それが分かっていないと人との関わりが蔑ろになってしまう。だから、学校で勉強するんだ」

 直人は神妙な顔をして明神を見つめた。

「また勉強……」

「子供が勉強に拒否反応示すのは教える側の問題であることも確かだ。教える側の先生が日々の業務に忙殺されていて全く楽しそうじゃない。教える側が楽しそうじゃないと教わる側も、自分達の不手際で機嫌を損ねてしまったのだろうかと萎縮してしまい、質問が出来なくなる。質問が出来ないから分からない所がそのままになってやる気が無くなる。家にお金があって塾へ行ける子はどんどん成績伸びていって、それを羨んでどんどん成績落として行く子も居るのは確かだが、そこで自分なりに努力することを身に着けておけば将来困らないのに、そこで挫折してしまうのは自分の人生勿体無いと思う。

 自転車の練習だって、百回やって乗れなくて諦めたら一生乗れないけど、百十回目で乗れれば一生乗れるんだ。どちらも努力はしている。けどこの十回をやるかやらないかで将来の振り幅が変わるんだ。だから勉強は、やらないよりはやった方が良いに決まっている」

 直人はそれを聞くと立ち上がってランドセルから宿題を出した。

「分かんないとこあったら聞くからな!」

「分かるまで教科書読もうとは思わないのか」

 直人はそれを聞くと、自分の言い方が悪かったのだと気付いた。

「教えて下さいお願いします」

「俺の分かるところであれば助言はしてやるから、先ずは漢字の書き取りと音読からやっとけ」

 明神はそう言うと食器を片付け始めた。直人も言われた通り、漢字の書き取りを始める。そうやって夜も更けていった。



 夜中、直人はトイレに行きたくて目を覚ました。隣で寝ていたはずの明神の姿がない。部屋のドアを開けると、居間の電気が点いている事に気付いた。テーブルに本が何冊か置かれていて、明神が何かしている。そういえば直人が宿題をしている時に食器を洗ったり、洗濯物を片付けたりしていたので自分の宿題が終わっていないのだろかと思った。

「明神」

 声をかけると、明神は振り返った。

「まだ朝には早いぞ」

「何してるんだ?」

 直人が近付いて覗き込もうとすると、明神が電気を消した。目が眩んで何も見えなくなると、明神は廊下の電気を点けた。直人はトイレに行こうとしていたことを思い出してトイレに駆け込む。明神は本を片付けると寝室へ向かう。

 直人と一緒に布団に入ると、明神は暗い天井に視線を這わせた。

「明神」

「おやすみ」

 明神がそう言って目を瞑ると、直人も眠った。



 直人は眼の前で白い目をして口を開けている鰯と睨めっこをしていた。明神は早々に食べ終えている。直人は箸で魚の腹を突くと、細い小骨が二本、三本と顔を出した。

「直人、魚も魚肉と言って、肉なんだぞ」

「いや、そんなのどうでも良いんだよ! 嫌いなんだよ! 小骨刺さるし、苦いし、美味くないんだよ!」

 直人がそう言うと明神は嘆息した。結局直人は魚を食べることなくご飯と味噌汁だけ胃に流し込んで家を飛び出した。明神は夜、片付けた本を開くと、片付けをしながら本を読んでいた。

 今日は土曜日なので学校が半日で終わった。直人はランドセルを家に置くと、

「明神! 遊びに行こうぜ!」

 と言うので、明神は首を横に振った。

「お昼作るから……」

「腹減ってないからいいよ! 一食くらい食べなくても平気だって!」

 直人がそう言うと、明神は首を横に振った。

「忙しい」

 それを聞くと直人は家を飛び出していた。今日はクラスメイトの上田と遊ぶ約束をしていた。少し遠いので少しでも長く遊べるようにと急いでいた。

「……腹減った」

 田んぼの畦道で蹲った。上田の家までまだ少し距離がある。小遣いは持ってこなかった。そもそも、周りは見渡す限り田園で、スーパーなどまだ里に無かった。

「あれ、何だっけ?」

 餓鬼憑きという妖怪がいて、それに憑かれると突然空腹に襲われて動けなくなるという話を聞いた事があった。何か食べ物を一口食べれば餓鬼憑きは何処かへ行ってしまうのだが、ポケットの中を探しても何も無い。直人が蹲っていると、不意に明神がやって来て、朝、直人が残した鰯を眼の前に差し出した。直人は眉間に皺を寄せ、首を左右に振るが、それどころではない。鰯の尻尾に噛み付くと、明神は鰯の頭を取って畦道に投げた。何かが嘶いて、田んぼの中へ入って行った。

「美味しいだろ?」

「苦い」

 直人が応えると、明神は嘆息して隣に腰掛けた。持っていたあずま袋を開くと、曲げわっぱの弁当箱が顔を覗かせる。蓋を開けると、焼きおにぎりが二つと、だし巻き卵、ほうれん草のお浸し、プチトマト、タコさんウインナー、れんこんの照り焼き、貝割れ大根のハム巻きなどが所狭しと入れられている。

 明神が箸を差し出すと、直人は手を合わせた。

「いただきまーす!」

「ちゃんとご飯は食べないと、さっきみたいに急にお腹が空いて動けなくなるから、三食しっかり食べた方がいい」

「餓鬼憑きだろ?」

「まあ、そう呼ぶ地域もあるらしいな」

 直人が早々に食べ終わると、明神はタッパーを出して空になった曲げわっぱと交換した。直人が蓋を開けると、フルーツサンドが入っている。ぺろりと平らげてしまうと、丁寧に手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

「なあ、明神も上田の家に行こうぜ!」

「忙しい」

 明神はそう言うと、空になったタッパーを持ってさっさと帰ってしまった。



 直人が家に帰ると、美味しそうな匂いがして台所へ向かった。明神が何か本を見ながら料理を作っている。明神が見ているのが料理の本だと知って直人は目を丸くした。

「明神ってそんなのも読むの?」

「直人が野菜も魚も食べてくれればこんなの読まなくて済んだんだがな」

 明神に言われ、直人は申し訳なくなってきた。パプリカの肉詰めに、豚汁、ご飯にポテトサラダ、大学芋、そしてこの良い匂いの正体……と思っていたら、自分が思っていたよりも小さい姿に直人は目を丸くした。匂いは鰻の蒲焼きかと思ったのに、その姿は鰻とは程遠い姿をしている。けれども匂いに誘われて口に入れると、美味しくて目を輝かせた。

「美味しい! 何これ?!」

「鰯の蒲焼き」

 鰯……と聞いて直人は脱力したが、もう一つ口に入れる。小骨が柔らかくなっていて、甘いタレのおかげで苦味が和らいでいる。直人はピーマンも苦手だったのだが、パプリカが甘いのと、肉詰めにされていたのでぺろりと食べていた。残さず完食すると、直人は自分で食器を流しへ持って行った。

「美味しかった!」

「それは良かった」

 そうやってあっという間に一週間が過ぎた。直人の母が退院すると、明神は早々に帰って行った。



 夜、明神は何かに呼ばれた気がして橋本家の家の前に来た。玄関から黒い犬が姿を現すと、明神は溜息を吐いた。

「何?」

「礼を言っていなかった」

 犬が頭を下げると、明神は目を伏せた。

「お前の望みは何だ?」

 犬に言われ、明神は眉を潜めた。相手が何者なのか、何処まで何が出来るのか分からないので言葉を詰らせると、犬は鼻で笑った。

「即答するのかと思っていたが……」

「何を?」

「お前は母親に会いたいと言うだろうと思っていた」

 犬に言われ、明神は首を傾げた。

「それは出来ないだろう」

「まあ、普通なら……」

 犬はそう言うと左足を手招きするように前に出した。明神がその前足を掴むと、柔らかい毛の感触がある。

「まだ足りないが、お前の中にある母親の記憶を呼び起こすことくらいならなんとか出来るだろう」

 不意に後ろから誰かに抱き締められる感覚があって上を向いた。赤い梅結びの柄が描かれた手拭いを頭に巻いた女性がにっこりと笑ってこっちを見つめている。優しく頭を撫でられると、明神の目の端から涙が零れた。

 霞の様に女性の姿が消えると、明神はそっと犬の手を離した。

「……ありがとう」

「菫は幸せそうだったぞ」

 菫は明神の母親の名前だ。

「お前の誕生を一番喜んでいた。無事に産まれてきてくれただけで親孝行な子だと」

 犬の話に明神は目を伏せた。

「そう……」

 明神は帰ろうとすると、一度立ち止まって振り返った。犬はまだそこに座っている。

「お前の名前は?」

 犬は尻尾を振っていたが、ぴたりと止めて笑った。

「名前か……あいつは鉄と呼んでいた」

 あいつ……それが誰を指しているのかは分からないが、犬は姿を消した。



 ーー明神は昔の事を思い出すと、目の前の犬に視線を落とした。

「あの時にも言っていたな。足りないと……何が?」

 明神の言葉に犬は後ろ足で耳をかくと欠伸をした。

「全てが」

 漠然とした言葉に明神は首を傾げた。

「あれを破壊するには人が足りない。力も足りない。お前にかけられた呪詛も解いておく必要もある。でないとあいつが邪魔をしてくるだろう」

「あいつ?」

「お前の屋敷に居る現況だ。あいつが般若堂の解体なぞ許さんだろう」

 その話に明神は瞳を宙に泳がせた。

「何故?」

「さあ……理由は知らんが、妙に執着していた。般若堂と……」

 そう言いかけて犬は頭を下げた。

「俺は般若堂の封印に失敗したが、俺の娘は屋敷の封印に成功したのだと思っていた。それなのに、お前に呪詛がかかったのは俺の力が至らなかったからだろう」

 明神は何の話をしているのか分からなかったが、犬が姿を消すと、明神はその場を後にした。


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