第9話 今は昔 前編

 空を霧の様にかき曇らせていた雪が止んだ。雲の切れ間から陽の光が零れ、薄明光線が幾つも白い大地に降り注いでいる。縁側に腰掛けてぼうっとしていた明神は鶯色の作務衣に、赤い梅結びの手拭いを頭に巻いている。そこへ分厚い羽布団を羽織った狛が鼻水を垂らしながら明神の隣へ擦り寄った。

「彦は、一体いつからこんな所におるんじゃ?」

 狛に聞かれ、明神は瞳を宙へ投げた。

「さあ……」

「火鉢では寒くて堪らんのじゃ。ストーブを買ってほしいのじゃ」

 そういえばそんなことを考えたことは無かったと考えを巡らせる。暑いとか寒いといった感覚ももう無いのだろう。白い雪景色の中に明神は古い記憶を回想した。



 気付けば眼の前に閉ざされた門があった。三歳程の幼子が、呆然とその門を見上げている。不意に雨が降り出したが、子供はそこから動こうとはしなかった。藍色に、秋津柄の甚平は赤い血で濡れている。冷たい雨が体温を奪って行くと、やっと気付いた様にゆるゆると子供は立ち上がった。開いた玄関から土間に入ると、玄関の上がり端の所で、割烹着を着た女が血を流して倒れている。否、もう既に事切れていた。幼子はそっと女の頭に手を伸ばすと、赤い梅結びの描かれた手拭いを取って髪を撫でた。

「…………」

 言いかけて、言葉にならなかった。声が枯れていたのかもしれない。若しくは呼ぶのを躊躇したのかもしれない。本人にもそれは解らなかった。別れを告げられないまま、幼子はその場を後にした。

 生きてほしい。

 それが母の願いだった。けれどもそれはただ息をしていれば良いという意味では無いことを幼子は承知していた。だから風呂に入って新しい着物に着替えると、台所へ向かった。炊飯器に炊けたご飯でおにぎりを二つ作ると、お皿にのせて玄関へ向う。けれどももうそこに女の死体は無かった。微かに床に血の跡があるだけだった。幼子は皿を玄関の上がり端に置くと、一つだけ手にとって食べた。

「たなつもの、もものきぐさも、あまてらす、ひのおおかみの、めぐみえてこそ」

 辿々しく呟いていた。意味はわからないが、ご飯を食べる前に唱えなければならないと思った。味は全く解らなかった。頭も心の中も空っぽになっていた。ショックから、何も思い出せなかった。

 家中の障子や襖を開け放って人を探した。何でもいい。自分を知るものが何か欲しかった。玄関で亡くなっていた人の事を知りたかった。けれどもどういうわけか、アルバムの一つも出てこなかった。

 居間の隅に実語教の本が置いてあるのを見つけて開いた。漢字は読めなかったが、何となく知っている気がした。

「やまたかきがゆえにたっとからず、きあるをもってたっとしとす」

 読めもしないのにすらすらと暗唱した。意味も解らなかった。本の一番最後のページに、綺麗な字で文字が書かれていた。

 おたんじょうびおめでとう おかあさんより

 何故か頬を涙が伝っていた。その時は理由が解らなかった。何かを思い出せた訳ではなかったのに、酷く悲しく、恋しく思った。蔵にあった本を読み漁った。読めない漢字や意味の分からない文字は国語辞典と漢和辞典で調べた。そんな日々を三年屋敷で一人きりで過ごした。

 幼子は成長し、やっと門の掛けがねが外せるまでに身長が伸びた。外には何があるのだろうかと期待と不安に駆られて門を開けた。

「何処へ行くの?」

 不意に女性の声がして振り返った。誰も居ない伽藍堂の屋敷があるだけで誰も居ない。居るはずが無かった。

「外に……」

 言いかけてふと、脳裏に幼い子供の声が浮かんだ。

 ぼくもがっこういくの〜!

 泣き喚いて、誰かに縋り付いてそう自分が言っていた気がした。

「学校に……」

 楓の葉が集まって女性の姿に変わると、何故か以前からその女性の事を知っていた様な気がした。

「クレハ」

 女は静かに頭を垂れた。

「少々手続きがあります故、お待ち頂けないでしょうか」

 クレハの言葉に子供は目を伏せた。聞きたいことが沢山あった。どうして今迄姿を見せなかったのか、玄関で亡くなっていた人は誰だったのか、どうして自分はここに一人で居るのか……けれどもそのどれも口をついて出ることが無かった。それを知った所で、過去も今も変えられない。

「……そうか」

「一つお願いがございます」

 クレハの言葉に子供は目を瞬かせた。

「私を彦の式神にして頂けないでしょうか」

 成程、主が他に居るから今迄姿を見せなかったのだろう。けれどもそうなると、前の主は死んだのだろうか?

「別に良いけど……」

 クレハはそれを聞くとにこりと笑った。

「では、契約の印に何か下さいな」

 何だか面倒臭いなぁと思ったが、門を閉めると屋敷へ戻った。押入れの中から水引を五本取り出すと慣れた手付きで梅結びを作った。ヘヤピンにそれをつけるとまた玄関から外へ出る。待っていたクレハがにこりと微笑むと、今作った梅結びのヘヤピンを差し出した。

「橙と赤の梅結びですか。大切にしますね」

 たいして上手でもない子供の作品を嬉しそうに髪につけるクレハの姿が少し不快だった。

「お上手に出来ておられます。お母様も手先の器用な方でしたからね」

 クレハが何の悪気もなくそう言ったことは解るのに、どうしてもそれが許せなかった。

「俺の前でそんな話はするな」

 クレハの顔が真っ青になって、萎縮したのだと思う。クレハは直ぐに頭を下げた。

「申し訳ございません」

 酷く怯えているように見えた。

 クレハはそれから学校へ行く手続きをしてくれた。今迄、屋敷の庭の手入れや掃除をしてくれていたのも彼女だったのだと気付いた。料理の作り方も、洗濯物の畳み方も全部彼女から教わった。

「学校へ行く前に、外へ慣れておきましょう」

 クレハに言われて外へ出た。屋敷は山の中腹にあった。鬱蒼と茂る獣道を抜けて山から下りると、里の景色が広がった。

「学校はこちらです」

 クレハに手を引かれ、農道を歩いた。近くの保育園から子供の笑い声が聞こえる。小学校の門の所へ着くと、クレハが膝をついて指し示した。

「あちらが昇降口です。一年生は左側ですね」

 真っ白で無機質な校舎が屋敷とは風貌が異なっていて違和感はあった。

「不安ですか?」

「別に」

 平気ではないが、不安かと聞かれても答えに困った。親もなく一人きりで過ごした日々を思えば、不安だの寂しいだのといった言葉なんて取るに足りない。

「参りましょうか」

 クレハに手を引かれ、ゆるゆると歩いた。探検と称して里の中を見て回る。不意に公園からボールが飛び出したのを拾い上げると、同い年くらいの男の子が駆け寄った。

「ありがとう」

 屈託ない笑顔でそう言われた時、一瞬何を言われたのか解らなかった。だから真っ先に『おかしな子』と思った。

「一緒に遊ぼう」

 そう言われて戸惑った。今、初めて会った相手に遊ぼうなどと誘う意味が解らなかった。

「学校へ行くのでしたら、これも一つの社会勉強です。ごゆるりと遊んで来てください」

 クレハもそういうので渋々歩を進めた。

「橋本 直人って言うんだ。君は?」

 聞かれて戸惑った。クレハは彦と呼んだが、あれは男の子の古い呼び名であって名前ではない。そもそも自分は自分の名前を知らない事にその時気付いた。

「明神というの」

 クレハが助け舟を出すが、直人は首を傾げた。

「みょーじん?」

 自分も初めて聞く名前に戸惑いもあったが、何故かそれが正解だと思った。直人は不思議そうに首を傾げたが、直ぐに笑顔になった。

「ま、いいや! みょーじん、一緒に遊ぼう!」

 直人に急かされ、直人とボール遊びをした。砂場で砂山も作ったし、色鬼のルールを教えてもらって、滑り台もブランコものった。初めてなのに、久しぶりだという感覚があった。やがて日が暮れ始めると直人の母が公園へ迎えに来た。

「もうっあんたって子は……五時のサイレンが鳴ったら帰ってきなさいって言ってるでしょう?」

「えーでもー」

 直人が口答えすると、直人の母は明神を見て首を傾げた。何かを思い出そうとしている風に見える。明神が帰ろうとすると、直人が声を上げた。

「またな! みょーじん!」

「明神?」

 直人の言葉に母が驚いた様な顔をした。

「菫さんの息子さん?」

 直感で、自分の母の名前だと思った。帰りかけていた足が止まる。ゆっくりと振り返ると、直人の母は笑っていた。

「お母さん元気? 最近音沙汰無いから少し心配してたの」

「死んだ」

 直人の母の顔が一気に凍りついた。

「お父さんは?」

「知らない」

 逃げるようにその場を後にした。知りたくなかった。否、ずっと知りたかったことの筈なのに、それ以上知るのが怖かった。



 南側、六畳程の部屋。この畳部屋の隅に膝を抱えて蹲る小さな少女が居た。何時から居るのか、何故そこに居るのかは解らない。気まぐれに彼女の居る部屋の縁側に花を一輪置いた。

 部屋の隅から動こうとしなかった少女が、縁側まで出て置いた花を眺めている姿に、花が好きなのだろうと漠然と思った。

 喜んでくれているのだろうか?

 彼女の顔が見たくて、部屋を離れて直ぐに踵を返した。彼女の目から大粒の涙が溢れて、雨の様に牡丹の花弁を濡らしていた。

「どうした?」

 当時六歳だった明神は少女に問い質したが、聞こえていないのか反応はない。近寄って触れようとした瞬間、背後から声がして振り返った。

「何をしているの?」

 二十六、七程の赤い羽織を着たクレハが訝しげに眉根を寄せている。

「この人、泣いてるんだ」

 クレハが近付くと、縁側には牡丹の花が一輪あるきりだった。それを見やるとそっと目を伏せた。

「彦、それは関わってはいけないものですよ」

 クレハの言葉に首を傾げた。自分には、他の人には見えない霊と呼ばれるものが視える事は知っていた。けれども母の霊は一度も視えなかった。

「何故?」

「絵本と同じです。七匹の仔山羊が狼に食べられると解っていて、扉を開けないようにこちらから干渉する事は出来ないでしょう? それと同じです」

 クレハの言葉に首を傾げた。

「置いた花を見に来た」

「きっと他の物を見ていたのでしょう。彼女は彦に見て欲しくて居るわけではないのです。そっとしておいてあげましょう?」

 クレハに窘められてその場を後にした。

「あの人はどうしてあの部屋に居るの?」

「あのお部屋がお好きなのでしょう」

 それでもう、彼女の話は辞める様に言われた。聞いてはいけない事だったのかもしれない。

 それでもこっそりクレハの目を盗んであの部屋を覗きに行った。

 雨の日の事だった。部屋を除くと、相変わらず部屋の隅で蹲っている少女の姿が見えたが、その姿が酷く哀しげだった。宙空を見つめ、大きな瞳から涙が一粒、また一粒と溢れている。何か言っているのか、薄く紅を点いた様な唇が動いた。けれども何も聞こえない。声を聞こうと近付くと急に彼女の胸から柘榴石と同じ色をした血が吹き出した。倒れかけた少女に手を伸ばすがすり抜けた。

「彦!」

 クレハに襟首捕まれ、呼吸するのを忘れていた事に気付く。脳裏に少女の声が響いた。

「許して……」

 大きく息を吸い、心臓の鼓動が早鐘の様だった。明神の体をしっかりと抱きしめたクレハが、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「忘れなさい」

 強く怒った口調で、けれども少し哀しげにクレハは言った。逃げるようにその部屋を出て、居間に連れて行ってくれた。

 けれども、明神はそれを忘れられなかった。

「もう良いよ」

 翌朝、部屋に入ってそう声をかけた。蹲っている彼女の隣に腰掛けて話しかける。

「もう終った事なんだ。君はもうとっくに亡くなっているんだよ。だからもう、苦しまなくて良いんだよ」

 彼女が、俯いたまま首を横に振ったように見えた。だからこちらの声が聞こえているのだと思う。けれども少女の腕が誰かに引っ張られ、彼女の体が引き摺られて縁側に出ようとした所で、口から大量の赤い宝石を吐き出した。否、鮮血の赤い血が、板間の縁側を濡らした。慌てて彼女に駆け寄ったけれども、彼女に触れるのを躊躇った。彼女は、ずっとここでこの痛みと恐怖を繰り返しているのだと思うといたたまれない。

「……どうして……?」

 彼女の光の無い瞳に問いかけた。とても綺麗な人だった。目鼻立ちが整っていて、肌は象牙みたいに白いし、長いみどりの黒髪も、黒曜石の様な瞳も、まるで世の中の宝石を集めて職人が作った人形みたいだと思った。その黒曜石の瞳に、白髪の誰かが写り込んでいた。

 倒れた彼女の手が、明神に伸びた。伸ばした手が空を掴んでいる。否、何かを掴んだのだろう。その手を恐る恐る両手で掴むと、胸に痛みが走った。頭の中に沢山の声が入ってくるが、痛みが強すぎて何を言っているのか解らない。けれどもなんとなく、恨みや憎しみといった言葉ではないと感じた。

「……許して」

 もういいよと、許してやると声をかけようとしたが、思いとは別の言葉が口をついた。

「許さない」

 怒りと憎しみの籠もった青年の声で、眼の前が真っ暗になった。何も見えない。何も聞こえない。自分はもう、死んでしまったのではないかと思うくらい何の感覚も無かった。

 不意に誰かに肩を掴まれる感覚があった。ゆらゆらと体を揺らされ、段々辺が明るくなる。目を開けると、泣いているクレハの顔が飛び込んで来た。

「良かった……」

 強く抱きしめられて、少し擽ったかった。

「クレハ……?」

 一瞬、驚いた顔をしてクレハが顔を覗き込んだ。抱きしてめていた手が小刻みに震えている。

「どうした?」

 不思議そうに聞くとクレハはゆっくりと深呼吸した。

「何でもありません」

「髪の白い男を見た」

 クレハの額から汗が吹き出した。

「誰か知ってる?」

 クレハは神妙そうな顔をして話てくれた。

「きっと、それは白髪碧眼の鬼と呼ばれた方でしょう」

「鬼?」

 クレハは頷いた。

「千年も前の話しですし、貴方には関係の無い事です」

「その鬼が、彼女をここに縛り付けているの?」

 尋ねると、クレハは息を吐いた。

「……そうかもしれません」

「どうして?」

「それは私にも分かりません。私にはその方が視えません。彼女は笑っていましたか?」

 クレハの問に首を横に振った。

「泣いてる」

「そうですか。まあ彼は酷くあたっていましたからね」

「どうして?」

 クレハは困った顔をした。

「それは私にも分かりません」

 クレハの言葉に、なら何なら分かるのかと問いたかった。

「昔、飢饉が起こりました。その折に人身御供としてあるお姫様が鬼の生贄にされたのです。貴方が見た女の人は多分、その生贄にされた人でしょう」

 直ぐに、彼女は殺されたのだろうと想像した。

「死んだの?」

「人は何れ死ぬものです」

 クレハの言葉に不満を覚えた。

「どうしようもない事です。終った事なんですから。だからもう、忘れなさい」

「空に帰して……」

「ですから!」

 クレハが怒鳴ると、明神は首を傾げた。

「貴方が視たのは霊や怨霊の類いでは無いのです」

 言葉の意味が解らなかった。

「彼女の魂はもう転生しています。残っているのは思念だけでしょう。けれども彦が視たものは彼女ではありません」

「つまり?」

 理解ができなくて聞き返した。

「千年前の鬼の記憶でしょう」

 クレハに言われて部屋の隅へ目をやった。また少女が部屋の隅で蹲っている。クレハが両手で目を覆うが、まるで目が開いている様に部屋の中がくっきりと眼の前に浮かんだ。彼女の泣き顔が脳裏に焼き付いている。彼女が血に染まる光景が美しいとさえ思った。

「やめ……」

 西日を反射させた金剛石の涙も、真珠の肌に這う紅玉色の血も、全部綺麗だと思った。

 クレハの手を外して少女へ駆け寄るが、やはり触れることは叶わなかった。不意に、自分の眼の前を白い何かが過ぎった。自分の前髪を見ると、真っ白になっている。部屋を出て庭の水鏡を覗くと、真っ白な髪と、碧い瞳をした自分の姿が映った。漠然と、この碧眼が彼女を見せているのだろうと思った。

 水鏡を眺めていると、徐々に髪と瞳の色が戻った。成程、自分はその千年前の鬼の呪いを受けているのだと思った。あの長い烏の濡れ羽色の髪を羨んだ。夜空を映した瞳を妬んだ。自分には無くて、彼女が持っているもの全てが許せなかったのだろう。

「学校へ通うのはもう少ししてからにしませんか? 勉強でしたら私がお教えします」

 クレハの申し出に戸惑った。多分、屋敷から一時的に外へ出たから、鬼の呪詛が体の中で暴れているのだろう。

「……問題ない」

 このくらいなら、大丈夫だろうと思っていた。練習がてら何度か屋敷を出て、山里を見回って帰った。それだけでもやはり彼女の死に様を目にすることはあったが、気付かないふりをして、無かった事にした。そうすることで彼女を視ることは無くなったし、すっかり忘れた。



「医者ならなんとかしなさいよ!」

 病院で、聞き覚えのある女の声に惹かれた。病院には色んな人が居た。そこで、人の寿命が何となく解ることも気付いた。廊下を歩いていると、橋本 直人の名前が書かれた病室を見つけて首を傾げた。確か、初めて屋敷から出た日に声をかけてきた男の子だ。初対面のこんな自分に「ありがとう」と感謝を述べた不思議な子だった。あの時には、寿命はまだあったはずだから死んでしまうということは無いだろう。病気にでもなったのだろうかと病室を覗くと、直人の母がベッドで寝ている直人に覆い被さる様にして泣いている。そっと近付いて直人の手を取ると、眠っているのだと解った。腕に繋がった点滴の袋を眺めていると、不意に直人の母が気付いて驚いていた。

「ごめんなさいね。直人、今日は遊べなくて……」

 ゆっくりと首を横に振った。

「夢をみてる」

 直人はずっと夢を見ていて、自分が起きていない事に気付いていない。けれども本人がそれで良いと言うのであればそれでも良いかと思った。良い夢であれば、途中で起こすのはお節介だろう。

「そうなの。もう三日も目を覚まさないの。もうすぐ入学式なのにね……」

 残念そうに直人の母は呟いた。学校……それを聞いた時、起してやらなければならないだろうかと思った。

「起きてほしい?」

「勿論!」

 母は即答したが、直ぐに目を伏せた。

「でも、何をしても目を覚まさないの。お医者さんも原因はわからないって」

 母の言葉に戸惑った。

「原因が知りたい?」

 問うと、直人の母は少し考える素振りをした。

「違うわね。原因なんてどうでも良いの。直人が無事で居てくれればそれで良いの」

 直人の母がそう呟くと、明神は少し笑った。

「善言は福を招くが、悪言は災いを招く。直人はありがとうと俺に言ってくれたから、助けてやりたいけれども、あんたが誰かを悪者にして怨み言を吐いたり、誰かを妬んで悪口を言うと助けてやれない。だから言葉を間違えないでほしい」

 それを聞いて母は不思議そうな顔をした。

「不思議な子ね。じゃあ直人を治してくれる?」

 冗談半分で母がそう言うと、明神の瞳が碧く光った。直人の母が驚いて立ち上がると、直人が目を開けた。

「母さん?」

 直人の母が混乱した様に直人を抱き寄せた。明神は直人から手を離すと、直人は不思議そうに明神を見つめた。

「また助けてくれたの? ありがとう」

 夢と現実がごっちゃになっているのだろう。それでも明神はそれを否定せずに頷いてみせた。

「幸多かれと……」

 そう言いかけて言葉を止めた。本当は、自分を産んでくれた母に贈りたかった言葉を口にするのが何とも悔しかった。

「明神くん……」

 驚いていた直人の母が恐る恐る声をかけた。

「直人を助けてくれてありがとう」

 そう言われて会釈するとその場に居るのが嫌で出て行った。嬉しかった筈なのに、一番言ってほしい人からはその言葉を貰うことはない。それが解っているから悔しかった。あの心優しい親子に嫉妬して、二人の幸せを祈れない自分が情けない。

 屋敷に戻ると直ぐにクレハを呼んだ。

「クレハ!」

 いつになく情緒不安定な顔をした明神にクレハは心配そうな眼差しを向けた。

「いかがなさいました?」

 言葉がつっかえて中々出ない。クレハに深呼吸するよう言われて大きく息を吸った。

「お母さんに会いたい」

 クレハの瞳が小刻みに震えた。

「……出来ません」

「どうして?」

 死者を視ることも話すことも出来るのに、何故母に会えないのか解らなかった。

「母君はもうおられません」

 意味が解らなかった。クレハは神妙な顔をすると明神に手を出した。

「お付き合い願えますか?」

 クレハに言われ、手を引かれて山の中を歩いた。行ったことのない山の南側へ出ると、里とは違った港町が広がっている。その港町の公園へ行くと、二歳くらいの女の子が砂場で穴を掘って遊んでいる。ピンク色のリボンを頭に四つも付けていて、まるで金魚の様な髪型をしていた。前髪と、両サイド耳の上に其々、そして後頭部に結び目があった。

「母君は亡くなられた後に早々に次の体へ転生しました。勿論、前の記憶はございません」

 クレハの話を、頓には信じられなかった。けれどもそれなら、幾ら屋敷を探しても母の霊を見つけられない事に納得がいく。

「どうして?」

 明神が問うと、クレハは目を伏せた。

「せめて、自分の息子が苦しむ姿を視ることの無いようにとの配慮です」

 呼吸が浅くなって、視界が狭くなった。

「彦?」

 クレハに抱え上げられる。どんどん意識が深い所まで行くと、誰かにおんぶされている感覚があった。鼻唄が聞こえて、ゆらゆらと揺れる。暖かくてうとうとしていると心の中が満たされて安心する。このままもう二度と目を覚ましたくなかった。このまま……

「彦!」

 クレハの声で目を覚ますと、紅葉がちらついていた。まだ秋では無いのにおかしいなと思ったが、クレハの右腕が無くなっているのに気付いて目を伏せた。

「良かった……」

 何があったのか聞くのが怖かった。いつの間にか屋敷に居て、赤と緑の楓の葉が庭に散乱している。自分が取り乱したばかりに、クレハを傷つけてしまったのだと思った。クレハから離れようとすると、クレハは優しく明神の頭を残った左手で撫でた。

「貴方が無事で良かった」

 思わずクレハの手を払い除けていた。

「そんな状態でよく巫山戯たことが言えるな」

 嬉しかったのに、素直になれなかった。クレハはそれを察してか微笑する。

「すみません、腕の修復に時間を要します故、少しの間お休みを頂けないでしょうか」

 クレハがそう言うと、明神はクレハの右肩に触れた。無くなった腕の部分に手を翳すと、庭に落ちている楓の葉が集まって来る。見る間に右手が元に戻ると、クレハは驚いていた。

「勝手にしろ」

 明神がそう言うとクレハの姿が楓の葉に変わって庭の木に吸い込まれて行く。明神はそれを見届けると溜息を吐いた。



 あれは一体いつの記憶だっただろうかと考えながら庭伝いに歩を進める。庭の端に大きな金木犀の木が生えている根本を掘ると、呪符の貼られた香炉が出てきた。土を払うと不意に瞳を宙に泳がせた。

「俺の記憶じゃない……」

 それに気付いた。けれども、そもそも自分は誰なのかを知らない。家族のことも忘れてしまった。だから今更、他の誰かの記憶に侵食された所でどうでも良かった。

「右慶」

 札を剥がして名を呼んだ。香炉の蓋が開いて光が出ると、十歳程の赤い袴を履いた男の子が姿を表す。男の子は一瞬、明神を見て首を傾げ、周りを見回した。他に誰も居ないことを確認すると、再び明神に視線を落とした。

「……童が封印を解いてくれたのか?」

 右慶の言葉に頷いた。右慶は困惑しながらも明神の落ち着き払った姿に嘆息した。

「お前が次の彦君か?」

 右慶の言葉の意味が解らなかった。

「それは次の主かと聞いているのか?」

「違う。俺の主人はあいつだけだ。代替わりしたのかと聞いたんだ」

 成程……と、明神は瞳を宙に投げた。

「知らん」

 明神の回答に右慶はその場に突っ伏した。顔を上げるとひたすら怒鳴った。

「は? なに……子供の元服と同時に代替わりするのが慣例だったろ! なのに何でお前みたいな年端も行かぬ子供が、俺の封印を解いたのか聞いているんだ!」

 それを聞いて首を傾げた。

「悪いが三歳の時に母親が死んで、父親は全く帰ってこないからその辺の事は解らない」

「はあ?! 父親って……」

 と、言いかけて側に立っている金木犀に目をやった。封印される前は小さな苗木だったのに、もうこんなにも大きな枝を伸ばしているのを目にして俯く。

「白髪碧眼の男の代からどれだけ時間が経ったんだ?」

 右慶が愛おしそうに金木犀の枝に手を伸ばした。

「多分、千年くらい」

 明神の言葉に右慶は卑屈に笑った。

「あいつ、俺のこと忘れて死んでいったな。見つけたら必ず封印を解いてやるって約束したのに……」

 右慶が視線を落とすと、明神は金木犀に手を翳した。金木犀の枝葉が集まり、女の子の姿に変わると、右慶は目を見張って明神を見つめた。

「名は、清にするか」

 明神がそう言うと、黄袴に千早姿の女の子はにこりと笑った。右慶が不満そうな顔をしている。

「何で……」

「クレハが怪我をして休んでいる間、庭の手入れを頼む」

「了承しました」

 清がにこやかに返事をするが、右慶は眉間に皺を寄せた。

「は? クレハ? あいつもまだここに居るのか?」

 右慶が聞くと、急に頬に拳が飛んできた。驚いて飛び退くと、清が腕を伸ばして微笑んでいる。掠った頬から血が出ると、右慶は冷や汗を流した。

「口の効き方に注意して頂けないでしょうか?」

「清、暴力は良くない」

「絶対に謝りません」

「なかなか頑固な娘だな」

 造り方を間違えただろうかとも思ったが、金木犀の枝に止まっていた人間の魂を入れたので、前世での性格がそのまま反映されてしまったのだろう。

「右慶、先輩として清の指導係を頼みたい」

 明神の言葉に右慶は目を丸くした。

「絶対に嫌です」

 にこにこしているのに、清の言葉には棘があった。

「は! こっちだって願い下げだ」

 売り言葉に買い言葉で返すと、明神は溜息を吐いた。

「清、俺の命令に従えないのか」

「いくら主人の命令でも嫌です。そもそもあれは主人の式神ではないでしょう? 他所の主人の手先に従うなど絶対に嫌です」

 成程……と、二人は納得して視線を交わした。

「右慶、俺の下に……」

「絶対嫌だね」

 右慶が断って屋敷を出て行くのを見送ると、明神は溜息を吐いた。縁側に腰掛けると実語教の本を開いて音読する。清はそれを聞くと、反省した様に俯いていた。一緒に庭の草引きと屋敷の掃除をしながら一つ一つ丁寧に教えていく。清は直ぐに仕事を覚えてくれた。火と刃物が苦手なので台所には立たせなかった。身形は幼いがよく働くいい娘だった。どうしてさっさと人間に転生しないのだろうかとさえ思った。

「清、お前人間に生まれ変わらないか?」

「嫌です」

 即答され、困惑した。にこにこしているのに腹の中に闇を飼っているようだった。

「人間なんて野蛮です。もう二度と転生とか無理です」

「何があったか知らないが、そう言われると俺も立場がない」

「主人は勿論別です」

 清はそう言うと微笑した。

「殺されたのですよ。人間に。家に火を放たれて、両親を殺されて、斧で脳天割られました。もうトラウマです」

 相変わらずにこにこと笑いながら恐ろしい事を言う清が不憫だった。

「……すまない」

「主人が謝る必要はありませんよ。私が人との縁に恵まれなかったと言うだけの事です。私よりも酷い死に方をした人など幾らでも居るでしょう。あの金木犀の枝に捕まりさえしなければ怨霊になっていました」

 終始微笑ましく話す清が少し怖かった。

「それに……」

 そう言いかけて清は言葉を止めた。不意に苗木だった頃に水やりをしてくれたのが右慶だった事を思い出すと、そっと目を伏せた。

「……すみません、主人。やはり右慶に謝りに行ってきてもいいでしょうか?」

 清の申し出に明神は頷いた。

「行っておいで」

 清は会釈すると庭へ出て行った。



 右慶は楓の木の前に佇むと腕を組んだ。

「クレハ」

 右慶に応える様に枝葉が揺れる。右慶はその様子から、姿が保てない程に弱っているのだと察した。

「あの子供は何だ?」

 葉が擦れ合って音を鳴らす。右慶はその音を聞いて目を丸くした。

「は? まあそれなら俺の封印を解いたことも説明はつくけど……」

 右慶が不満そうに呟くと、清が近付いて来た事に気付いて言葉を止める。清が右慶の側まで来て立ち止まるが、何も言えずに俯いた。

「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

 右慶がまた殴られる事を警戒して少し後退った。それでもなかなか言葉を発せず、千早を握りしめている姿に右慶は溜息を吐いた。

「言わなきゃわかんないだろ。さっき産まれたばかりの新参者の癖に態度でかいんだよ。女ならもっとしおらしくしてろ」

 再び清の拳が右慶の頬に見事に当たると、右慶は頬に手を当てた。

「いってーな!」

「大っ嫌い!」

 清がそう言って踵を返すと、右慶は訳が分からなくて首を傾げた。楓の葉が、誂う様に音を鳴らす。

「違ぇよ。さっき例の子供が造った式神だ。技術はすごいと思うが、力のコントロールが下手過ぎて敵わん。あんなのがこの屋敷の次の跡取りとなると骨が折れるぞ」

 右慶がぼやくと、木の葉が応えた。

「は?」

 聞き返すと、楓の葉が再び揺れる。

「……そりゃあ、出来なくは無いが……」

 枝葉が撓ると、右慶は溜息を吐いた。

「解ったよ」

 右慶はそう呟くと門を開けて外へ出て行った。



「謝れませんでした」

 清がそう呟いて戻って来ると、明神は作りかけていた梅結びを早々に仕上げた。形を整えて清に近付くと、掌にのせる。金と白の五本取りの水引に清は目を輝かせた。

「可愛い」

「清が素直になれるお守り」

 明神の言葉に清は微笑した。

「また殴ってしまいました」

「……俺から言うのはどうかと思うが、封印されていたとはいえ、長い間一緒にいたんだから、仲良くしなさい」

 明神の言葉に清はこくりと頷いた。

「彦!」

 庭から右慶の声がして明神と清は縁側に出た。右慶が両手いっぱいに竹を持っている。それらを庭に並べると、右慶はそれを指し示した。

「相性を調べるから全部触れ」

「クレハに何か言われたんだろうが、唐突だな」

「言葉遣い」

 清に言われ、右慶は眉間に皺を寄せた。

「残念でした。俺はこいつに下ってないから敬語を使う必要ねーんだよ! しかも年下! 年下に敬語遣わなくても良いんだよばーか!」

「馬鹿とはなんですか!」

 二人が言い争っている間に明神はメゴ笹に手を伸ばした。音を立てて割れると、清と右慶が言い合いを止める。亀甲竹に触れると、今度は燃えて炭になってしまった。その後も布袋竹やら玄竹やらと、右慶が集めてきた竹を触るが、どれも割れたり、弾けたりしてしまう。全ての竹に触れ終ると、どの竹も破損が激しいのを見て右慶は頭を抱えた。

「マジかよ……」

 明神もそれを眺めながら、不意に瞳を宙に投げた。

「何を見て居るのですか?」

 清が問うと、明神は視線を流した。

「俺が力のコントロールが下手だから、それを調整するのに相性の良いものを探してくれているんだ。竹は木とも草とも違い、丈夫で靱やかだから割と人を選ばないと言われている。それなのに軒並み嫌われてしまったと言うことだ」

「そんな……」

 清が言いかけると、明神は右慶に視線を投げた。

「右慶」

「待て、今考えてる」

「そこに置いてある籠に使われている竹を取って来てくれ」

 頭を抱えて悩んでいた右慶は、そう言われて明神を見た。指し示された縁側の先に、洗濯籠が置かれている。右慶はそれを目にして眉根を寄せた。

「淡竹……?」

「虎斑竹だ」

 明神に言われ、右慶は目を丸くした。早々に屋敷を出て行くと、明神と清は割れた竹を片付けた。

「私には、主人が力のコントロールが下手とは思えません」

 清が呟くと、明神は視線を投げた。

「清は俺以外の術者を見たことが無いからそう思うんだろう。クレハや右慶は長く生きているから目が肥えている。誰を基準にするかにもよるが、俺みたいに感情の起伏が激しくてその都度暴走したのでは周りに迷惑だろう」

 明神の説明に清は項垂れた。

「それは、主人に造っていただいた私が、主人の意に背いたから、コントロールが下手だと思われたのかもしれません」

「そういう訳では無いだろう。そもそも式神は術者の手伝いをする為の使い捨てにするのが常なのに、上手に作りすぎてしまっていることの方が問題視したのだと思う。

 例えば戦闘の場合、式神は術者が使う呪力の一割程度にしておかないと複数の式神が扱えない。一体に過剰に呪力を使うと、自分の身を守る力が必然的に減少してしまう。持久戦に持ち込まれたらそれこそ命取りになるから、普通は呪符や呪具を使ってコントロールするんだ。けれどもそれらの本来の使い方は力の増幅であって、抑制ではないから、俺には扱えない」

 分からなかったのか、清の頭に?が浮いている。

「普通は霊力の少ない人間が力の増幅を目的として呪符を開発したんだが、俺の場合は自分の中の呪力が大きすぎて抑えが効かない。だからこれ以上増幅させることは出来ない。器が小さいのに大量の水が注がれているのと一緒で、持て余してしまっているんだ」

 清は理解したのか、頭の?が消えている。

「ということは向かうところ敵なしと言うことですね!」

 清がそう言うと、明神は目を伏せた。

「そういう単純な話しではない。強大な力はコントロール出来なければ自分も周りも危険に晒す事になる。水は生きるものの喉を潤すが、過剰にあれば土地家屋を押し流してしまうだろう? それと同じで、適度に、適切に扱う必要がある」

 明神が説明していると、右慶が大きな竹を一本担ぎ上げて戻って来た。右慶が笹を取って差し出すと、明神はそれを取った。笹の色が褐色に変わったが、燃えたり千切れたりしない。右慶が一節切って渡すと、竹筒の中で空気の渦が出来て旋風になった。

「ほう……」

 右慶が感心した様に呟いた。旋風が空に溶けて消えていく。

「それで扇を作って貰えるか?」

「まあ、構わないが……ただ、これは……」

「器から溢れた分の呪力の受け皿にはなっていないと言いたいんだろう? 力の加減さえ調節してくれればそれで充分だ。多くは望まない」

「今は若いからそれで良いかもしれないが、人間なんだから病気になったりすることはあるだろう。体力が落ちた時に自分の呪力で自分の体を破壊する羽目になるぞ」

 右慶がそう言うと、清が心配そうな顔をした。

「その為に健康管理はしっかりしておく」

「そういうことじゃなくて……」

「清を造ったから今は落ち着いている」

「呪力が過剰になる度に式神を造るつもりか?」

「かと言って、造った式神に呪力を過剰に注ぎ続ければ俺の手に余ってしまうだろう」

 それは式神としての意識が破壊されるということを右慶は理解して清に視線を投げた。清は右慶に睨まれたと思って明神の後ろに隠れると、右慶は溜息を吐いた。

「面倒臭い体質してるな。本当に……」

「こればかりは俺にもどうしようもない。だから右慶の封印を解いた。お前の方がそういう方面は明るいだろう」

「その口振りが妙に癇に障るんだが、お前は本当に子供なのか?」

 右慶に問われ、明神は視線を宙に投げた。

「千年前の、鬼の再来か?」

 明神はそれを聞くと、ゆっくりと目を伏せた。

「さあ……?」

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