第4話 こっくりさん

 木の葉の擦れ合う音と、八色鳥の鳴き声がする。時は正午を少し過ぎていた。草木が生い茂る山中で、白衣の老人が山を登って来る姿があった。リュックや水筒は持っていないので登山客では無いのだろう。疲れたのか森の中で老人は立ち止まると祈る様に呟いた。

「かけまくも……」

 老人の呟きに応える様に眼の前に少年は現れた。この山には不思議な能力を持つ一族が住んでいる事を老人は知っていたが、この少年に見覚えは無かった。まだ中学生程の少年に、老人は優しい眼差しを向けた。

「どうも、お父さんはどうしたね?」

「さあ……」

「頼みたい事があって来たのじゃが……ご不在かな?」

 老人の話が終らぬ間に、つまらなそうな顔をした少年が老人の横を通って獣道の先を行く。

「貴臣殿は……」

 老人の言葉に少年が振り返った。

「祖父の名だと思う」

 それを聞いて老人はにこりと笑った。

「そうか、お孫さんか。貴臣殿は……」

「とっくに亡くなってる」

「そうであったか……」

 老人が残念そうに肩を落とすと、少年は息を吐いた。

「実は、折り入って頼みがあっての、とある娘の憑き物を落としてほしいのじゃが……」

「断る」

 即答され、老人は狼狽えた。

「以前、貴臣殿は快く引き受けてくれたのじゃが……」

「俺は祖父じゃない。あんたもさっさと成仏しろ」

 言われて老人は驚いた様に目を見開いた。

「気付いておられたか」

「ここ迄来れるのはあんたみたいな死んだ人間くらいだからな。迷惑だから帰れ」

 老人は口をへの字に曲げて眉根を寄せたが、少年の表情は写真でも貼り付けた様に変わらない。老人は少年に向かって深々と頭を下げた。

「お頼み申す」

 少年は呆れた様に溜息を吐いた。

「大の大人が、子供に頭を下げるなんて恥ずかしいと思わないのか」

「山高きが故に貴からず。人を見た目で判断するものではない。そう貴臣殿から教わったのじゃ」

 老人の言葉に少年は瞳を宙に投げた。何もない空中に右手を翳すと、何処からとも無く扇子が現れて少年はそれを広げる。総竹扇の表面には虎斑竹特有の模様が浮き出ていた。少年が扇を振ると、突風が吹いて老人は固く目を閉じた。

 風が止んで老人が目を開けると、何も無かった森の中に東屋が現れた。藤棚の庇には紫色の藤が氷柱の様に幾つも垂れ下がり、微かに甘い香りを漂わせている。朱色の布がかけられた長椅子を少年は臙脂色の扇で指し示した。

「話だけなら聞こう」

 老人は促されるままに椅子に腰掛けた。

 老人が腰掛けた左隣を叩くと、少年は軽く頭を下げてそこへ座った。

 何処からともなく、白い狩衣姿の幼子がお盆に二つお茶の入った湯呑を持って来た。灰色の髪に琥珀色の瞳をした可愛らしい三才くらいの幼子だった。

「彦、持って来たぞ」

 見た目には似つかわしくない言葉遣いでお盆ごと少年にお茶を差し出した。少年が湯呑を二つ取ると、幼子はくるりと踵を返し、また何処ともなく姿を消してしまった。少年が湯呑を差し出すと、老人は戸惑いつつもそれを手にとった。焙じ茶の芳ばしい香りが鼻腔に広がる。

「彦と言うのかね?」

「そう呼んでもらって差し支えない」

 少年がお茶を飲むと、老人は湯呑の柄を眺めた。白地に藍色の大振りな唐草模様が描かれた砥部焼を見てお茶を飲む。

「……勿体ない。久しぶりじゃ」

 老人の頬を一滴の涙が流れた。少年を見やると、少年との間に海苔を巻いた三角おむすびが二つと、蔓籠に盛られた蜜柑が置いてあった。

「何も食べて無いんだろう?」

「いやはや、面目無い。そこまで気付いておられたか」

 老人はそう言うと涙を拭った。

「以前は家の者が仏壇にご飯とお茶を供えてくれていたのじゃが、一族に悪いのが出ての、金に目が眩んで遺産争族の折に他の者達を追い出して家も土地も独り占めにしてしまったのだよ。おかげで今は、四十になっても嫁の貰い手もない娘がカナリヤと一緒に住んでおるが、畑も庭の手入れもしないからもう荒屋と変わらなくなっておる。仏壇も戸を閉めたまま、もう誰も会いには来ないし、勿論、食べ物なぞ供えてはくれん」

 一息に話して溜息を吐いた。

「誠に、情けないことじゃ」

 老人の話を少年は黙って聞いていた。

「それで?」

「儂の子孫に木下 彩夏という娘が居る。その娘に最近、憑き物の類が憑いたらしくての、母親が甲斐甲斐しく拝み屋に連れて行くのだよ。それがなんとも哀れでのう。そちに、その憑き物を祓ってもらいたいのじゃ」

 少年はそっと眼を伏せた。

「俺には関係のない事だな」

「いかにも。けれども誰からも忘れ去られた儂をこうやってもてなしてくれたのは、儂を哀れに思っての事であろう。どうか、彩夏にも慈悲をかけてはくれまいか」

「……かけまくも」

 さっき老人が唱えた言葉を今度は少年が唱えた。

「あんたの教えをちゃんと守っていれば、憑き物なんかに取り憑かれる事も無いだろう。先祖を蔑ろにした子孫にそこまで思い入れる意味が分からんな」

「そなたの言う通りじゃ。全ては儂の不徳の致すところ。信仰が無くなり、子孫を護る力も削がれた憐れな老人の頼みと思って了承していただきたい」

 少年の瞳が雲の切れ間から覗いた青い空を睨んでいた。



 まだ七歳の木下 彩夏の首に、母の両手が纏わりついていた。

 学校でコックリさんが流行ったらしい。娘も漏れなく友達に誘われてコックリさんをやったのだが、それ以来夜になると金縛りにあう様になった。娘が言うには夜中に目が覚めるのだが身体が動かず、お経の様な声が何処からとも無く聞こえて来るそうだ。

 最初こそそんな馬鹿なと話半分だったのだが、夜中に目が覚めて娘の様子を伺うと、眼を見開いて痙攣を起こしていた。硬直した身体が小刻みに震え、瞬きもしない娘の姿に恐怖を覚えた母は、直ぐに救急車を呼んだ。けれどもどんな検査を受けても異常はなく、朝には普通に戻っていた。そんな事が何度も続くと、流石におかしいと思って近所の拝み屋に連れて行った。

 今迄は胡散臭いと思っていたが、娘がこうなると藁にもすがる思いでそこを訪ねた。

「憑き物が憑いている」と言われ、母は正体を知って安堵し、同時に恐怖した。拝み屋に頼んで憑き物を落として貰おうとするが、この憑き物、なかなかしぶとくて彩夏から離れない。金縛りが落ち着く事は無く、拝み屋へ通う日が続く。親の信心が足りないからだと言われ、拝み屋に勧められるままに神棚を買い、朝夕の礼拝も欠かさず行う様になった。家の事をする暇を惜しんで一心に拝み続けたが、娘が治る事は無かった。

 家の中は散らかり、食事も市販の惣菜やコンビニ弁当が増えると、夫は家に寄り付かなくなった。何日かに一度は帰って来るが、家の様子を伺って何も言わずに出て行く。そんな日が続いた。

 母はじっと彩夏を見つめた。首周りが撚れ、シャツは皺だらけになっている。母は乱れた髪を掻き分け、溜息を吐いた。

 自分は一生懸命、娘の為に頑張っているのだ。それが報われるのが明日なのか十年後なのか分からない。地獄の底に居る気分だった。

「お母さん、ごめんね」

 娘が母に呟いた。

「私がコックリさんなんかしたから、こんな事になったんだよね。コックリさんのせいなんだよね」

 娘の声が、呪文の様に聞こえた。

「そうね。悪い憑き物には出て行ってもらわないとね」

 母の瞳は虚ろだった。娘の首に伸びた母の手に力が入ると、玄関の呼び鈴が音を鳴らした。彩夏が玄関へ走って行く。急に眠気に襲われ、景色が歪んで眼の前が砂嵐で見えなくなった。



 彩夏の母は目を覚ました。遠くで「これは? 次はどうするの?」と、娘の声がする。いつの間に寝てしまったのだろうかと起きると、そっと襖を開けた。

 台所で、踏み台に乗って何かをしている彩夏の後ろ姿がある。明るい色の皺のない綺麗なワンピースと、白い靴下が目を引いた。味噌汁の匂いがして、母は眠気眼を擦った。娘の隣に、中学生くらいの男の子が立っている。娘が振り返ると、嬉しそうに声を上げた。

「お母さん、起きた?」

 彩夏が駆けて来ると、母は彩夏を抱きしめて少年を見た。白いシャツに黒いズボンを履いている。切れ長の、目元の涼し気な少年だった。

「えと……」

「彩夏がね、お兄ちゃんとご飯作ったの。一緒に食べよう」

 彩夏にお兄ちゃんと言われ、息子が居ただろうかと首を捻った。けれども何故か、以前から見知っている様な気がする。少年がお椀に味噌汁を注ぐと、彩夏は少年に駆け寄ってお椀を持った。綺麗に片付けられたテーブルの上にご飯と味噌汁と鯖の塩焼き、湯呑に淹れられたお茶、漬物が並ぶ。その景色が、なんだか酷く久しぶりな気がした。

「いただきます」

 彩夏の声に、母も手を合わせて呟いた。

 味噌汁を一口飲むと、胃の中にじんわりと沁みる。母はつい言葉を漏らした。

「美味しい」

「そうでしょ? 彩夏が作ったのよ! お兄ちゃんに教えて貰ったのよ」

 母はそれを聞いて少年に目を向けた。

「ありがとう」

「小学生になったら飯の作り方の一つも教えてやらないとな」

 少年の言葉に母は申し訳無さそうに頷いた。彩夏が味噌汁を飲み干そうとすると、少年が声をかけた。

「ばっかり食べじゃなくて、一口ずつ交互に食べる三角食べをしなさい。行儀が悪い」

「はーい」

 彩夏が眉根を寄せつつも返事をする。ご飯の食べ方など教えた事はない。楽しそうに食べていればそれで良いと思っていた。

 食べ終わると、彩夏は再び手を合わせた。

「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」

 少年の聞き慣れない言葉に彩夏が笑った。今度は母がご馳走様と言うと、彩夏が兄の真似をして「お粗末様でした」と言う。

 片付けはしておくから散歩にでも行って来いと言われ、母は彩夏と手を繋いで外に出た。公園へ行くと、木漏れ日が心地良い。彩夏が嬉しそうに滑り台やブランコに乗るのを眺めながらベンチに腰掛けた。

 何だか本当に久しぶりの様な気がした。春の陽気が、ぽかぽかと冷え切った体を暖めてくれる。家を出る時に息子が持たせてくれた水筒にはハーブティーが淹れられていた。それを一口飲むと、全身に沁みる気がした。

「何だか不思議ね」

 長い間、悪い夢でも見ていた様な気がする。ずっと家に籠もり、外出するのはめっきり拝み屋に行く時と、コンビニへ行く時きりになっていた。公園へ散歩など、一体いつぶりだろう。

 彩夏が他の友達と一緒にかけっこをしている。子供の笑い声が空に吸い込まれて、やがて日が傾き始めると、母は彩夏と一緒に家路についた。

 家に帰ると、息子がお風呂の準備をしていた。黴だらけだった天井も綺麗に掃除されている。少し熱い湯船に浸かり、ふと窓から見える四角い空が暗くなるのが怖かった。

 不安と一緒に、息子が作ってくれた食事を口にする。部屋からゴミが無くなり、綺麗に整理された部屋を眺めていると、申し訳ない気持ちになった。

「ごめんなさいね」

 母が唐突に言うと、息子は変わらぬ表情でこちらを一瞥した。

「何かしてもらったらありがとうだろう。それに、何でもかんでも一人でしようと考えるから、手が回らなくて全部中途半端になる。疲れたなら休憩しろ。自分の体と相談して休憩するのも親の勤めの一つだ。母親が倒れたら、彩夏にも良くない」

 息子の言葉にぐうの音も出なかった。

 食事を終えると息子と彩夏が神棚に向かう。榊の枝が新しいものに替えられ、酒と米が少し供えられていた。神棚の上の天井に、空と書かれた紙が貼られている。

「掛けまくも……畏み畏み申す」

 神棚の前で手を合わせた息子の言葉に母は首を傾げた。彩夏も、兄に習って言葉を真似る。

「なあに? それ」

「祓詞の最初の言葉だ。かけまくも、だけでも良いから覚えておくといい」

「覚えておくと良い事あるの?」

「神様が話を聴きに来る」

 彩夏が目を輝かせて鼻を鳴らした。

「神様?」

「神様が来ると悪い事が最小限に抑えられる」

「悪い事は無くならないの?」

 彩夏の言葉に兄は不思議そうに瞬きをした。

「人の成長の為には大なり小なり苦難はつきものだ。それを全て取り払うなんて事は神はしない。だから、思う事も憚る事だけれども、打ち拉がれそうな時には救って下さい。という意味なんだ」

 息子の言葉に彩夏が納得する。彩夏は再び手を合わせて唱えた。

「かけまくも」

 母も彩夏の隣に座ると同じ様に手を合わせた。



 彩夏が眠りにつくと、母は居間を覗いた。息子がホットミルクを作ってテーブルに置いてくれる。母は椅子に座ると手を合わせた。

「いただきます」

 一口飲むと、母は息子を見た。

「美味しい」

「ちゃんとバランス良く野菜や魚を食べて、軽い運動して、お風呂で体温めたら夜寝れるから。寝る前は考え事はしないようにした方がいい」

 息子の言葉に母は笑みを浮かべた。

「あのね、彩夏の事なんだけど……」

 息子に話してみようと思ったが、息子は溜息を吐いた。

「他に相談相手はいないの?」

 息子の問いに驚いて目を丸くした。

「近所に同い年くらいの子供を持つ親は居ない? 親や親戚でもいい。それが無ければ子育て相談みたいな窓口だってあるだろう? それでも、俺に聞いてほしい?」

 そう聞かれて急に息子から突き放された気分になった。

「……ごめんなさい」

「育児に対して不安になるのは当たり前だが、子供の前では出来るだけ毅然とした態度で接するべきだ。子供は友達じゃない。親の気持ちに子供を振り回すな」

 不意に、彩夏が金縛りにあい始めた頃の事を思い出した。そういえば、あれも同じ頃だった。

 母の落ち込む姿に、息子は再び溜息を吐いた。

「俺に話す事で頭の中を整理すると言うのなら聞いてやる」

 母は安心して深呼吸した。

「懇談会で、学校の先生から彩夏が、周りの子に比べて落ち着きが無いと言われたの。発達障害の専門家に連れて行く様に勧められたんだけど、夫はまだ小さいんだからこんなもんだろうって、病院へ連れて行く事に反対で……その事で夫と喧嘩する事があったんだけど、丁度その頃から、彩夏が夜中に金縛りになるようになったの」

 母が一思いに話すと、息子は少し考える素振りをした。

「子供なんて一律でこれが普通なんてものは無いから、個性と言えばいいものを……心配であれば一度病院に連れて行くといい。鼻で笑われるのがオチだろうがな。凸凹した部分は誰にだってある。近所の精神科が嫌なら少し離れた病院探せばいくらでも見つかるさ。周りの言う事にいちいち振り回されるな。あんたの娘なんだから、あんたが一番娘の事は分かっているはずだろ」

「でも、いろんな子供を見てきた先生がそう言うって事は……」

「先生ってそんなに偉いの?」

 息子の言葉に母は俯いた。

「でも、学校の先生は四大出てて……中卒の私なんかより……」

「他人の子供を自分の物差しで推し測って、それをはみ出たら問題児扱いする様な人間が教育者だなんておかしいと思わないの?」

 息子の言葉に母は狼狽えた。

「他人の物と自分の物の区別がつかない? 授業中に机に上って騒いだり、学校を嫌がって行かない?」

 息子の問いに母は首を横に振った。息子が呆れた様に瞳を宙に投げた。

「世の中にはそう言う周りのサポートが必要な子が居るのは確かだ。だからと言って社会から隔離するのは間違っているし、周りの理解が行き届いていないから、変な勘違いが生まれる。親なら自分の子供を信じてやれ。親が決めかねて悩むくらいなら、本人に話して本人に決めさせるのも一つの手だろう。大丈夫。ちゃんと彩夏は他人の話を聞いて理解する事が出来る。子供の決めた事なら親は全力でサポートしてやればいい。家族ってそういうものじゃないか?」

 心の重荷が降りた気分だった。今迄ずっと、一人で悩んでいた事が馬鹿らしくなる。

「まあ、そうやって親になって行くんだろうけど、一つの考え方に固執するのは感心しない。ものの見方を変える癖をつける事だな」

「拝み屋さんが、彩夏の落ち着きがないのも憑き物の狸のせいだって……」

 母の言葉に息子は呆れた様に溜息を吐いた。

「何かのせいにする事で自分の心が救われるのであれば、それも一つの生きる手段として選択するのは構わない。ただ、ありもしない幻想に取り憑かれて自分や子供の人生を蔑ろにするのは話が違う。信仰は生活の中で自分を生かす為のものであって、信仰の為に人生を棒に振るものではない」

 息子の言葉が、まるで目上の誰かに叱られている様に聞こえた。



 母親が寝静まると、白装束の老人は部屋の中を覗いた。彩夏と彩夏の母親が並んで静かに寝ている。老人が居間へ視線を向けると、少年と目が合った。

「いやはや、ここ迄して頂いて本当に有り難い。部屋が散らかっていると悪い気が充満しての、家の中に入れなかったのじゃ。神棚も、ちゃんと札まで揃えて頂いて幸甚の至りです」

 老人の言葉に少年は視線を泳がせた。

「いつだったか、受験ノイローゼに陥った息子にムジナが憑いたと信じて窒息死させた母親が居た」

「誠に、悲しい事じゃ」

 老人の眼差しは悲しげだった。

「そうなる前に、母親を思い止まらせてくれて本当に有り難い」

「人の言葉に傷ついたなら人の言葉に支えて貰えばいい」

 老人は何度も頷いてみせた。

「けれども、拝み屋が金をせしめる為に嘘をついたとはっきり言うてやれば済むじゃろうに……」

「悪い人間に騙されたと、人生勉強の一つと考えて貰えるならそれも良いだろう。怖いのは人の弱みに漬け込んで私腹を肥やした事に対して怒りを顕にする事だ。あの情緒不安定な状態では、報復に行きかねないから言うのを憚っただけだ。憎しみをぶつけるのは必ずしも人である必要は無いだろう。それこそ、狸に持って行って貰えばいい」

「どうするのか、儂には見当もつかないのだが……」

 老人は白い髭を撫でながら悩ましそうに呟いた。徐に少年が臙脂色の扇子を出すと、扇を広げて床を掃く様に仰いだ。すると足元に狩衣姿の幼子が現れる。大福を食いかけていた狛は、少年の姿を見るなり慌てて口に大福を押し込んだ。

「お前な……」

「い、一個しか食べておらんのじゃ!」

 もごもごと、口の中で味を楽しみながら抗議する。

「ひとつ?」

 少年の言葉に狛は冷や汗を流した。瞳を明後日の方向に向け、左右の手の指を開きながら数えている。

「六……否、八個くらい……」

「一箱全部食べたのな?」

「まあ、そうとも言うかもしれん。いや、でもの、あの霧の森大福なるものはそれ程罪深い食べ物なのじゃ。決して俺様が悪いわけでは……」

 少年が狛の頭を扇子で叩くと、見る間に狸の姿に変わった。狛は驚いて頭に生えた耳や、突き出た鼻を触る。

「にゃにゅ!」

 狛が驚いてその場をぐるぐる歩き回った。体中に茶色い体毛が生え、丸い立派な尻尾が生えている。

「少しその姿で反省しろ」

「大福の一箱や二箱で……」

「二箱も食べたのか」

 咄嗟に狸は前足で自分の口を押さえたがもう遅い。狸が恨めしそうに睨むが、少年の表情は終始涼し気なものだった。その二人の掛け合いを見ていた老人が肩を震わせ、必死に声を堪えて笑っている。

「まあ、狸はこんなところで差し支えないだろう。あんたがこの狸を祓って」

 少年の申し出に老人が狼狽えた。

「儂にはそんな事……」

「フリだけでいい。あの母親は眼で見て憑き物が出て行ったのだと分かれば、もう拝み屋なんかに行かない。神棚の前で祝詞を上げるだけでいい。あとはこっちがフォローする」

「けれども、儂はこの通り死んでおってのぅ……」

 老人が言い終わらぬうちに少年は老人に向かって扇を振った。風が当たると、老人の白装束が紫色に変わる。金糸で七宝柄をあしらった狩衣になり、履いていた袴が青緑の指貫に変わった。

「やや……?」

「世の中の大半が、自分よりも目下の者は自分よりも知識も経験も劣っているものとみなしている。俺も洩れなく人からそう見られるから、あんたにやって貰えると助かる」

「誠に、不思議な力だの。儂に自分の子孫を護る一助をさせてくれるというのか……有り難い」

 老人は手を合わせて深々と頭を下げた。



 彩夏の母はカーテンの隙間から零れる日差しで目を覚ました。久しぶりに、一度も夜中に目を醒ます事なく眠れた。隣で寝ている彩夏も、静かに寝息をたてている。起き上がって久しぶりに台所に立った。空になっていた筈の調味料が補充されている。綺麗に磨かれたシンクやコンロを眺めながら、片手鍋を取った。朝食を作っていると彩夏が来て手伝ってくれる。慣れた手付きで味噌汁を作る彩夏に笑みが零れた。

「誰かに教えて貰ったの?」

「ん〜……分かんない」

 家庭科の授業とかで習ったのだろうと母はそれ以上考えなかった。テーブルに三人分の朝食を用意してから、夫が帰って居ない事に気付く。両手を合わせると、彩夏と一緒に声を合わせた。

「いただきます」

 彩夏が味噌汁を飲み干そうとして、思い留まった。

「三角食べ、三角食べ……」

 呟きながら一口ずつ交互におかずとご飯に箸を伸ばす。母はその様子に少し笑った。こんなにも、自分の娘が成長している事に今迄気付かなかった。

 片付けを終え、彩夏と一緒に神棚へ手を合わせた。

「かけまくも……」

 声を合わせてそう呟いた時、玄関の呼び鈴が鳴った。彩夏が玄関へ向かって駆けて行く。母も玄関へ向かうと、スーツ姿の夫が立っていた。

「あなた……」

 今日は何日だっただろうかと首を傾げた。仕事が休みなのだろう。こんな時間に帰って来る事など滅多に無かった。

「こんにちは」

 夫の隣に神社の宮司の様な格好をした白髭の老人が立っていた。紫色の着物に身を包んだ老人は、人の良さそうな笑みを浮かべている。

「実はこのご家庭に憑き物の気配がしましてな。もし、お困り事がある様なら力になりたいとご主人にお話したのじゃよ」

 老人の話に驚きつつも、三人は老人を迎え入れた。夫は不安そうな顔をしていたが、彩夏も母も、老人に不信感は感じていない。

「では……」

 老人が神棚の前に腰掛けて手を合わせた。妻と娘も、老人の後ろに並んで手を合わせている。夫もそれに習って妻の隣に座り込んだ。憑き物だの、祟だのと信じてはいないが、この現状をなんとかしたい思いはあった。どうすれば良いのか分からず、実家に戻ってそこから会社に通っていた。今朝、この見知らぬ老人に「狸が憑いている」と脅された時、どうしようもない不安と憤りを感じた。

「かけまくも……」

 老人が呟くと、不意に風が吹いた。茶色い毛が目の前を掠める。父と母は目を丸く皿の様にしながら、彩夏の頭にしがみついて欠伸をしている狸を凝視した。

「え?」

 彩夏が驚いて見上げると、自分の頭に温かいふわふわした毛が乗っていた。ぴょんと跳ねて彩夏の目の前に立つと、その大きさは座っている彩夏と同じくらいだった。

 にやりと笑い、態とらしく狸が声を上げる。父は自分が今、目にしているものが信じられなくて硬直し、母は彩夏をしっかりと抱き寄せた。その間もずっと老人は祝詞を唱えている。

 狸の鳴き真似をしながら、三人の目の前を行ったり来たりして狸は親子の顔を眺めていた。祝詞が進むに連れ、狸が急に自分の首を押さえて苦しみ始めた。大きな音を立てて床に転げ、後ろ足と尻尾をばたばたさせる。

「く、苦しい……」

 ごろごろと床を転げ、狸の額から脂汗が流れる。迫真の演技に、三人は狸から目が離せなかった。誰も何もしていないのに、独りでにのた打ち回るその様が夢とは思えなかった。

 狸が舌を出して苦しんでいると、彩夏が立ち上がった。

「やめて!」

 急に何を言い出したんだと両親は驚いて彩夏を見た。老人も、祝詞を止めて振り返る。狸も驚いた様に目を丸めていた。

「彩夏……」

「可愛そうだよ」

 母が座らせようとすると、彩夏が呟いた。

「この狸のせいで、酷い目に遭ったんだろ?」

 父も窘めようとするが、彩夏は口をへの字に曲げて眉間に皺を寄せていた。

「それは……私がコックリさんをしたのがいけなくて……」

 彩夏が申し訳無さそうに言うと、老人は微笑んだ。

「娘さんもこう言っておる事じゃし、どうじゃろう? ここは一つこの狸を逃してやっては?」

 老人の申し出に父と母は顔を見合わせた。この狸のせいで彩夏が金縛りにあい、怖い思いをした。この狸のせいで家の中は荒れ、家族がバラバラになりかけた。それなのに、どうもこの可愛らしい見た目の狸を憎む事が両親にも出来なかった。

「彩夏はそれで良いの?」

「うん」

 彩夏はそう言うと狸の頭を撫でた。ふわふわした毛が、掌を擽る。

「やれやれ、家の中が散らかっていて居心地が良かったのに、こんなに片付けられてはおちおち昼寝も出来んのじゃ。全く、もう俺様を呼ぶで無いぞ女の童」

 ぽんとその場で飛び跳ねて、窓から外へ出て行った。狸の丸い尻尾が見えなくなると、彩夏は父と母の顔を交互に見やった。二人共呆気に囚われた顔をして、じっと狸が出て行った窓を凝視している。彩夏はそれが面白くて笑ってしまった。彩夏の笑い声に気付いて両親が顔を見合わせると、二人も吹き出すように笑う。三人が笑う様子に、老人も微笑んでいた。

「それでは、お暇しようかのぅ……」

 老人が立ち上がると、両親は頭を下げた。

「ありがとうございました」

 母が言うと、彩夏も習って頭を下げる。老人は再び微笑んだ。お礼をと父が財布を出すが、老人は首を横に振り、彩夏を指し示した。

「良く出来た娘さんじゃの。お母さん、上手に育てておるのぅ。お父さん、子育ては皆でしたら良いのじゃよ」

 老人の言葉に母は涙を流していた。父が母の背中を擦り、彩夏は老人を玄関まで送って行った。

「おじいちゃん」

 ふと、そう呼ばれて老人は驚いていた。けれども彩夏が、老人の事を曽祖父だと気付いて言った言葉では無いことは老人も承知していた。それでも、子孫にそう呼ばれて嬉しくてにこりと笑みを浮かべた。

「お嬢ちゃん、ご両親を大切にの」

 軽く頭を撫でると老人は家を出た。振り返れば彩夏が嬉しそうに手を振ってくれていた。



 老人は東屋の椅子に腰掛けてお茶を啜っていた。幾つも垂れ下がっている藤の花を愛でながら思い出した様にふふっと笑う。老人の足元には首を項垂れて恨めしそうにこっちを睨む狸の姿があった。

「もう用は済んだのじゃから、元に戻してくれたって良いじゃろう……」

 老人の隣に座っている少年は狸の姿を眺めながら溜息を吐いた。老人はにこにこしながら、少年との間に置かれた緑色の大福に手を伸ばしている。

「成程。確かに罪深い味かもしれんのぅ」

「そうじゃろ? だからの、俺様が悪いわけではないのじゃ」

「反省してないな?」

 少年が狸を睨むと、狸は耳を下げて平伏した。

「反省なんぞ、し終わっておるのじゃ」

「減らず口を……」

 二人の掛け合いに老人が声を殺して笑っている。

「いやはや、本当に世話になった」

 老人がそう切り出すと、少年は扇子を出して開いた。老人を仰ぐと、老人の姿が白装束に戻る。狸がその風のお零れに肖ろうとしていたが、敢え無く風が当たらなかったらしい。しょんぼりと俯いていた。

 雲の切れ間から光芒が差して、騒いでいた狸の頭に当たった。狸が驚いて身を翻すと、老人は微笑んで立ち上がる。

「重ね重ね、感謝します」

 老人は深々と頭を下げて光の中に入った。空からの光と共に、老人の姿が空に上って行く。少年と狸はそれを見届けると森の奥へ姿を消した。

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