第5話 般若山

 いつもの様に灰色の教室へ入って行くと、既に教室の隅に無表情なあいつの姿があった。朝練でもないのにこんな時間に居るのは明神くらいなものなので橋本 直人は気兼ねなく声をかけた。

「明神、おはよ。なあなあ、これ見てくれよ!」

 直人は昨日貰ったチラシを見せびらかしながら彼に近付いたが、彼は身動き一つしないで参考書を読んでいる。挨拶も返事もないのはいつものことだった。

「一週間前から女子高生が行方不明なんだってさ。お前なら見つけられるだろ?」

 直人の言葉に彼は溜息を吐いた。直人は明神が不思議な能力を持っていることを知っていた。行方不明の猫だって直ぐ見つけて飼い主の所へ連れて行ってくれるし、無くした財布だって直ぐ見つけてくれる。だからそれらと変わりなく、もれなく見つけてくれるだろうという期待があった。

「その行方不明者を見つけるメリットは?」

 新聞に載ったり、テレビの取材を受けたり、探していた家族から感謝されたり……だろうか?

「は? メリットも何も、人の命がかかってるんだぞ?」

 明神はそれを聞いて煩わしそうに頭をかいた。

「それは警察の仕事だろう。俺をなんでも屋みたいに頼るのはやめろ」

「え、似たようなもんじゃん」

 直人は隣の席の椅子をひいて腰掛けた。何が違うんだと言いたかった。何より、行方不明の女の子を見つければ一躍ヒーローではないか。

「なぁ、いいじゃん。どうせお前に任せたらお茶の子再々……」

「死んでる」

 明神はそう言うとチラシに載った写真の少女を指差した。

「もう手遅れだ」

 彼の虚ろな瞳が少し怖かった。



 一車輌しかないディーゼル車を見送ってから駅を出た。日は高いが、少し肌寒さを感じる。そんな時期に高校の制服に見を包んだ少女が昨日と変わらず声を上げながらチラシを配っていた。直人はそんな少女の姿を遠目に見ながら何と声をかければ良いのか分からなたかった。

 多分、明神の言ったことは本当だろう。なら、彼女のしていることは無駄だ。友達を必死に探している彼女の手助けが出来ればと思ったのだが、何も出来ない自分が不甲斐ない。ただせめて、真実を伝えてチラシを配るのはもう無駄だから止めるように教えてやるべきなんしゃないだろうか?

「あの……」

 おずおずと近付くと、こちらを振り向いた少女と目が合った。黒縁眼鏡をかけた華奢な女の子が驚いた様に直人を見ている。

「僕も一緒に探したいので、この人が居なくなった時の状況とか詳しく聞かせてもらえませんか?」

 直人の申し出に一瞬躊躇った少女だったが、咳を切ったように涙を流すとその場に座り込んだ。

「ーー皐月とは幼馴染だったの」

 駅前のベンチに腰掛けた山中 恵はぽつぽつと話し始めた。

「割とオカルトな事が好きで、肝試しに行く約束してて、その肝試しに行く場所を探してたんだと思うの。一週間前にぱったり連絡取れなくなって……」

 急に現れた少年に、捜している少女はもう亡くなっていますよ。なんて言われても信じないだろうと考え、取り敢えず状況を確認してみる。もしかしたら明神の言っていることは外れているかもしれないし……まあ、そんなことは今までなかったのだが。

「警察も消防も動いてくれたけど見つからなくて……私も思いついたとこは探したんだけど、こうやってビラを配ることくらいしかできなくて……」

 恵の話に直人は頷いた。

「肝試しってくらいだからどっかのお墓とかじゃないの?」

 墓地なら確かに沢山あるが、この近くを虱潰しに捜していけば見つかりそうな気はする。けれども恵は首を横に振った。

「お堂に行こうって言ってた。地図から消されたとこだって」

「…………」

 正直、そういった類の話はこの里周辺には割と多くあった。だから一歩山に入ると風化した塚とか地蔵とかがある。地図から消されたお堂など、探すとなれば骨が折れるだろうが……

「図書館」

「え?」

 思わず声が漏れた。

「今の地図では消されてるかもしれないけど、昔の地図になら載ってるかもしれないよ」

 恵の目に明らかに光が差していた。

「なんて言うお堂か聞いてない?」

「わかんないけど、昔村で流行った疫病を治める為に建てられたって言ってた気がする」

 なんとも、よくありがちな由緒だなぁと冷や汗が流れた。そんなので見つかるだろうか? 自信は無いが、恵を連れてバスに乗り、図書館へ向かう道すがら明神の事を考えた。

 あいつに聞いた方が早いんじゃないだろうか?



 家に帰るとすっかり夜になってしまっていた。怒られるだろうかと思いつつもそっと玄関を開ける。

「ただいまぁ〜」

 声をかけるといつもの母の声が居間から聞こえてきた。

「お帰り。明神くんが来てたわよ」

「え?」

「余計なことに首突っ込んでないで勉強しろだって」

 母親に告げ口されたこともそうだが、同級生にそんなことを言われたら腹も立つ。

「はあ!? あいつ……」

「死んだって言えば諦めるかと思ったんじゃないの?」

 母の言葉に直人は目を丸くした。

「もしかしたら駆け落ちとかじゃないの? だとしたら探すのなんて野暮よ」

「母さんも知ってるだろ? あいつがそういう嘘つけないの」

「生きていると信じている友達に残酷な真実を突きつけてやる必要もないだろうって」

 母がいたずらっ子みたいな笑顔を向ける。

「で? 何を調べてるの?」

 興味深いキラキラとした目を向けてくる母に少し躊躇った。

「行方不明になった子、地図に載ってないお堂に行ったみたいなんだ」

 直人がそう言った途端、母の顔色が変わった。

「……なるほどね」

「何か知ってるの?」

「私もよくは知らないけど、子供の頃に同級生が何人か行方不明になった事件があったわ。その時も、地図から消されたお堂の噂があった」

「どんな噂?」

 直人の言葉に母は考え込んでいるようだった。

「よくある話よ。地図から消されたお堂にたどり着いた人は神隠しに逢うとか、そんな感じだったと思う」

 母の話だけではそのお堂が何処にあるのかまでは解りそうにない。

「危ないから、関わるなってことじゃないかしら?」

「お堂の噂?」

「でなきゃ家まで来て私に説教なんかするわけないでしょ? 自分の息子のことくらいちゃんと首輪つけとけ。だなんて」

 あいつがそんなことを言ったのかと少し意外だった。

「けど、仮に本当にそんな危険なお堂が存在するとしたら、やっぱりこれからも犠牲者が出てくるんだろうし……ほっとけない」

 正直、正義感よりも好奇心の方が勝っていた。

「まあ、そう言うだろうとは思ってたけど」

 母はそう言うと自分の部屋に入って直ぐに出てきた。母が差し出した掌には小さなお守りがあった。それには見覚えがある。

「首輪って、多分それのことなのよね」

 白いお守りは首にかけられるように長い紐が付いている。随分昔に明神から貰ったものだった。

「危なくなったら直ぐに引き返すのよ」

「わかってるよ」

 明神の家は神社だと思う。行ったことはないが、里の色んなことを知っている。一部では里を治めていた鬼の末裔だなんて噂があるくらいだ。他にもあいつには色んな噂があるのだけれど……

「明神ってさ、なんであんななのかな?」

「え?」

 唐突に言葉にすると母が首を傾げた。

「だってあいつすごい能力持ってるじゃん。探しものは相談すれば大抵出てくるし、色んなこと知ってるし、今回のことだって、あいつ絶対何か知ってるはずだし」

 何も知らないで、行方不明の子が既に死んでいるだなんて言うわけがないから。

「もしかして、明神くんがその子を殺したんじゃないかって思ってる?」

 その可能性を考えなかった訳ではなかった。けれども、確かめる必要があると思った。本人に直接聞いたら答えてくれるかもしれない。でも、直接聞く勇気がない。

「明神くんはそんな子じゃないわよ」

 いつものことだった。母は手放しで明神のことを信じてる。母は明神が小さい頃から知ってるし、何より母からすれば親戚の子だ。だから庇いたくなるのもわかる。

「わかってる」

 そう信じたかった。



 学校終わりに商店街にある本屋に寄ってみた。学校の図書館ではそれらしい地図が見つからなかったのでここならわりと古い本も揃っているし……と思ったのだ。少し高さのある階段を三段降りると直ぐに本屋の玄関口だ。玄関を開けるとドアにつけられたベルが甲高い音を鳴らす。それと同時に奥からおじいさんの声がした。

「いらっしゃい」

 小さな丸眼鏡をかけた初老がニッコリと笑って言った。

「あの……昔の地図ってありますか? 神社とかお堂とか書いてあるやつ」

「学校の宿題かね?」

 そう聞き返しながら本棚の上の方へ視線を流した。

「まあ……」

 直人はそう言いながらおじいさんの視線を追った。おじいさんが梯子を持ってきて上の棚から三冊程本を取り出す。

「郷土史の一番後ろに戦前の地図があったかと思うが、あとは明治と江戸頃の分かのぅ、それより前となるとワシの記憶にはないが……」

 おじいさんはそう言いながら平台の上に広げてくれた。地図の大きさも倍率もバラバラで一目では何処に何があるか分からない。

「何かわかりそうかね?」

「ん〜……」

 直人は地図を見ながら首を傾げた。

「今の地図には載ってないお堂とかってありますか?」

「……どうじゃろな? お堂の名前は?」

「それが、分からなくて……」

「じゃあ、探しようが無いのう」

 その通りだろう。探しようがないのだ。すっかりお手上げだ。

「そのお堂に行くと神隠しに遭うとか……」

 直人がそう言うとおじいさんは驚いたように目を丸くしたが、急に笑い出した。

「そうかね。そんなのを信じておるのかね。いやはや……そうじゃのう……」

 バカにしたように笑われ、直人は少し眉根を寄せた。何かおかしなことを言っただろうかと自問自答してみる。

「例えばじゃが、そのお堂が本当にあったとして、そのお堂にたどり着いた人たちは行方不明になってしまうんじゃろ? じゃあ、誰がその噂を流したのかと考えた事があるかね?」

「え? それは……」

 そう言われてみれば、おかしな感じがする。行方不明になった人が戻って来たなんて話もない。と言うことは……

「作り話じゃよ」

「けど、本当に行方不明者が出てて、その子がいなくなる前、地図から消されたお堂を探してたって……」

「その子がそのお堂にたどり着いたとはかぎらんじゃろ」

 それを言われるとそうではある。

「これも例えばじゃが、お堂を建てた後、そのお堂を管理する人が居なくなってしまった。取り壊したくても所有者が見つからない。勝手に取り壊すわけにもいかず、そのまま放置していたら老朽化がすすんで今にも崩れそうだ。こんな所に人が近付いて建物の下敷きになったら大変だなぁ。じゃあ、取り敢えず地図上だけ消しとくか。とまあこんな感じに放置されたお堂に尾鰭がついてそういった噂話にでもなったんじゃなかろうか?」

 確かに、おじいさんの話には説得力がある。

「まあ、放置された神社には妖怪が住み着くとか言うからそう言った噂好きな人が作った話じゃろう」

「疫病を治める為に建てたお堂が放置されたらまた疫病が流行ったりとかするのかな?」

 直人の質問におじいさんはにっこりと笑いかけた。

「そんなことはないよ。昔みたいにな、衛生管理が行き届いてない頃は病が流行すると鬼だの妖しだのとそういったたぐいのもののせいにしていたが、この時代にそれはないじゃろう。そもそも、この里は疫病なんぞ流行ったことがないしの」

 おじいさんの言葉にはっとした。確かに、直人はここで生まれ育ったが、そう言った話を今まで聞いたことが無かった。

「あの十三の霊峰が外敵から里を守ったとか、人の行き来が出来なかったが為に疫病が入ってこなかったとか色々な説があるが、この里の人達は里を治めていた鬼への信仰が厚くて鬼のおかげだとか言うとるがの。じゃから変な噂に惑わされることはないのじゃよ」

 にこにこと笑いながら言うおじいさんに直人は反論を止めた。何を言っても論破されそうな気がしたのだ。

「そうですよね。すみません、変なこと聞いて……あと、調べてもらってありがとうございました」

「いいよ。いつでもおいで」

 直人はおじいさんに会釈するとそのまま店を飛び出した。ドアに付いたベルの音が響く。足早に階段を駆け上がると道路に出てそのまま走り出した。

 そうか、自分は全く違うところを探していたんだ。

 直人は図書館へ行くと郷土史を何冊か取り出した。自分が住んでいる里のではなく、里の外周、行方不明になった女子高生が住んでいたのは山を挟んだ南側だった。だからその辺りを中心に当たれば何か出てくるかもしれない。

「あった」

 思わず声が出た。大昔に疫病が流行った記述があった。殆どの村人が疫病で亡くなり、残った村人がお堂を建てたが結局村人は全滅。村人の慰霊も込めてお堂を存続する話が持ち上がるも、お堂の管理に当たった近くの住職が相次いで行方不明になり、地図から抹消。その正確な位置を知る者は居ないが、般若堂と呼ばれていた。

「般若堂」

 地図を広げてみた。自分の住んでいる里と、高く連なる十三の霊峰、その南側に少し小ぶりな山があることを直人は知っていた。

「ここだ」

 その山には般若山と名前が付けられていた。



 直人は土曜日の学校が休みの日に般若山へ行くことにした。汽車とバスを乗り換え、山の入口に立つと沢山の墓石が山肌に騒然と並んでいる。疫病で亡くなった頃の村人の墓もあるのだろうかと思ったが、殆どが綺麗な墓石なので土地開発で偶々墓地になったのだろうと思う。なんとなく墓地を通るのが嫌で他に入り口は無いかと周りを見渡した。山に入って行く小道を見つけ、獣道を登っていく。山を登りながら右手に高い山々が見えた。いつも北側から眺めているので、南側から眺めるのは少し新鮮だなぁと思った。あの山に、昔の人は鬼が住んでいると信じていた。否、今でも一部の人は信じている。

 杉林を抜け、小楢山や椚をいくつも見た。静かな山だなぁと思っていたが、静かすぎる事に気付いた。

「……虫がいない」

 足元の枯れ葉を見ても、檜や松の幹を見ても蟻一匹見当たらなかった。そういえば鳥の声もしない。そう思うと一気に背筋が凍る。獣道もそのうち見失い、取り敢えず見晴らしのいい山頂を目指すも、背丈の高い叢に行く手を阻まれた。急斜面で足を滑らせた時、咄嗟に手近の葦を掴んだが全く体を支えられず、勢い良くそのまま下まで落ちた。背中や頭に強い衝撃を受けて、そこで意識が途絶えた。



 心地よい気怠さの中で意識が戻って来た。ゆらゆらと体が揺れる。何かの背中にうつ伏せで寝かされている様だ。顔に獣の毛が当たって少しくすぐったいが、嫌な気はしなかった。そのままうとうとして、眠気に負けないようにするが寝入ってしまう。次に目を覚ますと病院の待ち合い椅子に寝かされていた。

「気づいたか」

 明神の声に驚いた瞬間、右足と後頭部に痛みが走った。頭を押さえながらゆっくりと体を起こすと、何が起こったのかを思い出そうと頭の中が錯綜する。

「明神が助けてくれたの? ありがとう」

 周りを見渡してもあの獣の様ななにかは見当たらない。

「いや、落ちてたから運んだだけだ」

「本当に素直じゃないな」

 まあこういう恩着せがましくないところが彼の良いところではあるのだけれど……

「……あのさ」

「山はそんな軽装備で入るものじゃない」

 自分の声を遮られて少しムカついたが、彼の言う事は正解だろう。毎年遭難者が出て捜索用のヘリもたまに飛んでいる。

「行方不明になった人間全部俺が殺してるって言えば満足か?」

「そんなこと……」

「うちで管理してる山で遭難したならそう思う人間が一部いる事も知っている。ただ、その外の事までは面倒見きれん。勝手に思い込んだり噂を流すのは良いが、自分の命を態々危険に晒すのは感心しない」

 怒ってると思うのだが、如何せん表情が変わらないので本当はどう思っているのか分からない。

「けど……本当に般若堂ってのがあるんだとしたらさ、これからも行方不明者が出る訳で……」

「地元の人間ならちゃんと危険な事は知ってるから近付かない。興味本位で近付いて何かあればそれは自業自得だ。そんな奴らの面倒まで見きれない」

「けど、俺のことは助けてくれたじゃん」

 一瞬だけあいつが睨む様にこっちを見た。

「そうだな、俺が間違ってた。見殺しにしておけば済んだのに」

 明神がそう吐き捨てて行ってしまうと、入れ違いで母が来た。事情は明神から聞いたらしく、保険証と診察券を持ってきてくれたらしい。背中に軽い打撲と、頭にたんこぶ。右足は骨にヒビが入っていたらしく、ギブスをつけられ、全治二週間の烙印を押された。

「あ〜あ、明神くんから電話がかかった時には何事かと思ったわよ」

 待合室で母は会計の順番が回ってくるのを待ちながら溜息を吐いた。

「ごめん」

「今度は何で手綱握っておかないんだと怒られました」

「俺はペットかよ」

 と、言いつつも、あいつなりの気遣いなのだろうと思う。

「まあ、これくらいで済ませてもらって良かったわね。明神くんにお礼言わなきゃ」

 モヤモヤとさっき明神が吐き捨てて行った言葉が頭の中を迂回した。

「あいつ、俺を助けたことを後悔してたみたいだった」

「どうせまた直人が余計なこと言ったんでしょう?」

 そうだっただろうかと頭を悩ませる。

「あの子の事だから本気でそんなこと思ってないわよ。ただ、何か思い出しちゃったんじゃないかしら?」

「何か?」

「まあ、例えばだけど、自殺しようとしてる人がいたら直人なら止めに行くでしょう?」

「そりゃぁ……」

「でも止められた人からすればそれは無責任な行動だって思う人もいるのよ。必ずしも善意が感謝されるわけじゃない。あの子は特に複雑な事情を抱えてるから、尚更思うところがあったんじゃないの」

 母はそう言うとふと直人の足を見た。左足は普通の運動靴を履いている。

「まあ、正直ジャージに運動靴で山に入るなんて自殺行為よね。そこは私も気づかなくてごめん」

「母さんが悪いわけじゃないよ、俺が勝手に山に入って転んだだけで……」

 確かに、よく考えてみればたまたま明神が助けに来てくれたから良かったものを、彼が居なかったら今頃どうなっていただろうか? 山の中で右足を引きずって彷徨い、水も食べ物もなく、誰も探しに来てくれなかったら……そう思うと何だか自分が情けなかった。明神に愛想を尽かされても仕方がないことを自分はしたのかもしれない。

「ま、その足じゃどうせそのお堂の捜索は無理なんだし、家で大人しく勉強してなさい」

「うわぁ〜それ嫌だなぁ」

「命があっただけ感謝しなさい」

 母に軽く頭を叩かれ、何ともいたたまれない気持ちだった。正直勉強は苦手だ。学年順位は真ん中から少し下の方を行ったり来たりしている。怪我をしたのが右手だったなら鉛筆を持てないとか言い訳出来たのに……などと思った。



 日曜日、母はパートがあるので家で大人しくしていろと言われたのだが、杖を付けば歩けるし、それ程痛みがあるわけでは無かった。だからどうしても勉強から逃げる口実……というかお堂の事が気になって家を出る。今日はちゃんとリュックに水筒とお菓子を入れ、山の入口に降り立った。夕方までに帰ればバレないだろうと思いつつ、まあ万が一何かあった時の為に書き置きはしておいた。

「よし、行くか」

 明神にバレたらまた怒られるかもしれない。呆れられていたから何も言わないかもしれない。でも、じっとしているのはどうも性に合わなかった。だから考える前に行動してしまう。

「えっと、昨日は東側から南に向かって歩いたから今日はその逆で……」

 墓地を抜け、そのまま山を登りながら北側を歩いていく。南側と違って日が当たらないので昼間でも薄暗い。杖をつきながら山を登っていくとどんどん道が細くなって道が無くなった。

 引き返そうかと思ったが、もう少し行くと開けた場所があるように見える。木々の間から溢れる光を頼りに足場をよく確認しながら叢を掻き分けた。直ぐ開けた場所に出られるだろうと思っていたら割と時間がかかった。時計を見ると昼を過ぎている。

「やばっ」

 片足にギブスをはめているとはいえ、こんなに時間がかかってしまったのかと思った。もう少しで山頂にたどり着くんじゃないだろうかとも思うが、無理はしないと母親とも約束したし、引き返す事にする。けれどもさっきこんなところを通っただろうかと頭を悩ませつつ下山するが一向に森から出られない。

「迷った……」

 日が暮れ始め、段々焦りが出た。早く下山しなければと歩いていた筈なのに、急に森を抜け、目の前にお堂が現れた。お堂の周りだけ草木が避けたように開けている。寂れた様子のないお堂に息を飲んだ。

 ここが……?

 否、もしかしたら山伝いに別の山に入ってしまったのかもしれない。だから、ここが例のお堂かどうかは分からないだろう。もし、本当に般若堂だったとしたなら、何年も誰にも管理されていないはずだ。それにしてはどう見ても綺麗すぎる。

「……」

 恐る恐るお堂に近づく。誰か居れば里に出る方法を教えて貰えるかもしれない。階段を登り、格子戸に手をかけた。



 すっかり帰りが遅くなってしまったと思いながら橋本 春香は玄関を開けた。両手に抱えた荷物を玄関に置き、手探りに電気のスイッチを探す。電気がつくとほっと息をついた。

「直人〜電気くらいつけといてよ」

 またゲームしてて外が暗くなった事にも気付いてないんでしょう。と続けて言おうとしたが、物音がしない事に違和感があった。いつもなら直ぐに二階から直人の声が聞こえてくるはずだ。そしてよく見ると直人の運動靴がない。

「……まさかあの子……」

 居間を覗くとテーブルの上にメモが一枚置かれている。夕方までには帰ると書いてあるが、外はもう真っ暗だ。春香は慌てて外に出るとそのまま鍵もかけないで車を出した。

 まさか、あの足で山に入るとは思って居なかった。昔から危なっかしい子ではあったが、周りに恵まれたおかげで大した怪我はしたことが無かった。そんな息子が、骨にヒビが入っていると聞いた時、悪い予感はしていた。けれども、この程度で済ませてもらったのだと安堵した自分が情けない。もっときつく叱って、今日はパートを休んででもあの子を監視しておくんだった。明神くんにも何度も注意されたのに……春香は自分の息子がもう帰って来ないのではないだろうかと不安だった。

「明神くん!」

 バイト帰りの彼を見つけて車から降りると大きく息を吸った。

「直人がいないの。多分あのお堂を探しに……」

「俺は忠告した。それを聞かなかったのは直人だ」

 彼の冷たい眼差しが何処か憂いていた。

「ごめんなさい。だから、お堂の場所を教えてくれない? 私が迎えに行くから」

「あんたさ……」

「自分の息子のことくらい、ちゃんと見てなかった私が悪いの。だからお願い。場所を教えて」

 彼の言葉を遮って頭を下げた。

「俺からは教えられない」

 彼の言葉に顔を上げた。春香の身を案じてそう言ったのだろう。けれどもだからといって、こっちも引き下がる訳にはいかない。なんたって息子の命がかかっているのだから。

「明神くん……」

「連れて帰ってくるから家で待ってろ」

「……ありがと……」

「やっぱり足を切り落としとくんだった」

 彼の言葉に俯いた。何も言えない私を置いて彼が何処かへ走っていく。医者から言われた言葉が脳裏を過ぎった。

「足の筋肉や靭帯には損傷が見られないのにどうして骨にだけこうヒビが入ったのか全く分からない」

 それを聞いた時、ああ、あの子がわざとやったんだと思った。



 格子戸の隙間から中を覗くが真っ暗だった。人は居ないように思う。そっと格子戸を開けると黴臭い空気が鼻についた。重くて生暖かい風が体に纏わりつくようだった。

「……?」

 建物が軋む音がして振り返ると目の前に長い髪の毛が垂れ下がっていて驚いた。思わずニ、三歩下がってお堂の中に入ると勝手に格子戸が閉まって尻もちをつく。

「何っ?!」

 天井から無数の髪の毛が伸びて来て腕や足に巻き付いた。必死に取ろうとするが次から次へと巻き付いて埋もれていく。その髪の間から細く枯れた枝が一本伸びて直人の足を掴んだ。

「……」

 うめき声の様でもあったし、隙間風の音にも似ていた。頬が痩け、目が大きく見開いた老人の顔が直人の顔を覗き込む。目を背けようとしたが体が動かなかった。

 勢い良く格子戸が開いて突風が部屋の中の髪の毛を巻き上げた。痩せた老人も、体に巻き付いた髪の毛も消えていく。

「で? お前が駅でチラシを配ってたって言ったのはそこに居る眼鏡か?」

 入口に立った明神が部屋の隅へ視線を投げて言った。直人もその方向へ目を向けると見覚えのある眼鏡をかけた華奢な少女が怯えた表情で蹲っている。そこに何故、山中 恵がいるのかと直人は不思議だった。

「え? 何で?」

「お前は新聞読まないし、行方不明者の名簿とか調べたりしないんだろうなぁ」

 頭の中が混乱した。確かにあの日、チラシを配っていた。他の人達は関わるのが嫌なのか、チラシ一枚手に取ることすらしなかった。話を聞きに行った日も、ちゃんと自分は会話した。一緒にバスに乗って図書館にも行った。

「え?」

「取り敢えずさっさと外に出ろ」

「待って!」

 今まで黙っていた恵が声を上げた。

「私も連れて行って!」

 明神が溜息を吐く。

「あんたなぁ……」

「俺からも頼む」

 直人が詰め寄ると硝子が割れる様な音が響いた。咄嗟に襟首掴まれてお堂の外へ放り出される。閉じた格子戸の隙間から生暖かい液体が吹き出して直人の顔を濡らした。

「え……?」

 暗かったが、臭いで直ぐ血だと分かった。格子戸を開けようとするが開かない。

「明神!」

 不安と恐怖で何も出来ない自分が不甲斐ない。なんとかして扉を開けられないだろうかと押してみるが開かない。

「明神! 返事しろよ!」

「煩い」

 格子戸が開いて恵と明神がお堂から出て来た。閉めた扉に札を貼り付けている。ひとりでに扉がガタガタと揺れていたが、明神の呪文が終わると治まった。

「……帰るぞ」

 明神が踵を返すと直人は杖をついて立ち上がった。恵はまだ青い顔をしている。

「あんたもさっさと帰れ」

「帰れって言ったってこんな山奥じゃ……里まで一緒に降りれば良いだろ?」

 明神は振り返ると溜息をついた。何もない空中から総竹扇を取り出すと開いた。

「悪しき思い出は置いていけ。愛しき日々だけ召し上がれ。知って冒せる罪も知らずして冒せる罪も水に流そう。在りし日に焦がれるならば風下へ、自らの身の上を悟るなら風上へ。好きな所へ還れ」

 明神が扇子を軽く仰ぐと恵の姿が光に包まれて蛍になった。その小さな光が右往左往しながら空へ飛んでいく。直人は自分の目の前で起こった事が信じられなくて何度も自分の目を擦った。

「え? え??」

 振り返らずに歩いて行く明神の背中を追った。ついていくのがやっとだった。

「待てよ。明神も怪我してるんだろ? 大丈夫なのか?」

 返事はない。やっと山を降りきってアスファルトの道路に降り立つとそのまま道に沿って歩いて行く。真っ直ぐな道路なのにフラフラしている明神の肩をやっと掴んだ。

「兎に角一度止まれよ。しんどいなら休め……」

 手を振払われて、べっとりと掌に血がついた。それでも明神は足を止めない。

「……ごめん」

 やっと彼の足が止まった。

「これに懲りたらもうあれには近付くな」

「何なんだよあれ? 何であんなの放っておくんだよ?」

 直人の質問で再び明神は歩き始めた。

「うちの一族の先祖が残していった呪いで、相性が悪くて放っておくことしか出来ない」

「なんだよそれ……」

「古すぎて術の工程が分からない。かけた本人はとっくに死んでる。どういった経緯であの場所に呪いをかけたのか解らない。あとは俺の力不足」

 そういったことに詳しくはないが、明神がそう言うのならそうなのだろう。

「山中さんは……?」

「お前が最初に会った時にはとっくに死んでいた。たまたまお前と波長が合ったんだろう。生きている人間を連れてくれば魂を開放してやるとでも言われてお前をおびき出したんだろ。ちゃんと成仏させたから心配しなくていい」

「良かった。ありがとな」

 自分には出来ないことを何でも熟してしまう明神が頼もしい。けれどもそんな能力があるなら、お堂のことを知っていたなら、恵や他の人達も死なずに済んだのではないだろうかと考えてしまう。

「なあ、なんとか出来ないのかな?」

「先代も先々代も手に終えなかったから俺の代まで持ち越されているんだ。そんなものを俺一人でどうにか出来たらとっくにしている」

 そう言われれば、そうなのだろう。

「お父さんに相談とか出来ないのかよ?」

 振り返った明神の目が、酷く冷たかった。

「俺を捨てて行って十年、会いにも来ない男に何を期待するんだ?」

 地雷を踏んでしまった。

「だから、それは何かきっと理由があって……」

「ああ。俺が母親を殺したから、自分も殺されるのが怖くなって出て行ったんだ」

 明神の言葉に直人は顔を歪めた。

「自分の手に余る力を恐れて逃げたんだ。そんな奴に今更俺が会いに行った所で煙たがられるの目に見えてるだろ」

 そう言って歩き出すと、直人も明神の背中を追った。

「そんなの、本人に聞かなきゃ分からないじゃないか」

 ポツリと呟いたが、聞こえなかったらしい。彼は反論しなかった。本当の所は知らないが、明神の母親が死んだのは、彼が三歳の頃だったと聞いている。春香曰く、三歳の子供に何が出来るのだと詰め寄った事もあったが、彼は自分を責め続けているのだ。自分の母親が死んだ事を……

 いつの間にか直人の家の前に辿り着いていた。何処をどう歩いたのか覚えていないが、灯りの点いた玄関が直人の眼の前にあった。

「明神、上がって行けよ。怪我の手当とか……」

 言い終わる前に彼は既に居なくなっていた。狐にでもつままれた気分だったが、直人は家の中へ入って行く。泣きはらした顔の春香が直人の身体を抱き締めていた。



 四脚門の前に辿り着くと明神は膝をついた。止血をしようと脇腹を押さえるが生暖かい血が止めどなく溢れる。歯を食い縛って扇を広げると、指先が小刻みに震えた。

「左慶……」

 やっと声を絞り出して扇を振ると、青い袴を履いた十歳程の子供が姿を現した。心配そうに近付くと、明神の身体を支える。

「無茶しないで下さいよ。今、傷口を塞ぎますから……右慶は?」

「般若堂の封印が上手く出来なかったから見張りに置いてきた」

 明神の言葉に左慶は顔を真っ青にした。

「元々相性が悪いのはご存知でしょう? 何故そんな所に……」

 左慶が傷口に手を翳すと、直ぐに血が止まった。明神は門の脇に腰掛けると溜息を吐いた。

「……気まぐれ」

「その気まぐれで命を落としたら元も子もないでしょう!」

 左慶が今にも泣き出しそうな声を上げたが、明神の顔はいつもと変わらなかった。

「すまない」

「家で寝ていて下さい」

「封印のし直しをしておかないと右慶が身動き取れないから行ってくる」

 明神が徐ろに立ち上がると、左慶は唇を噛み締めた。

「取り敢えず痛み止めを作っておいてくれ」

「そんなにあの人間が大事なら噛み殺して来ます」

 左慶が呟くと明神は溜息を吐いた。

「そういうわけではない。放っておいたらまた犠牲者が出ると言った直人の意見もあながち間違っていないと思って俺が勝手に……」

「じゃあもう二度と喋れない様に喉を潰して来ます」

 左慶の言葉に明神は嘆息した。

「……解った。屋敷で休むから薬を用意してくれ」

 根負けしてそう言うと、左慶は安心した様に笑った。明神が門を潜ると扉を閉めた。

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