第3話 柔らかい地面

 奈々子は床にうずくまり、しくしく泣いた。


「もういや。もういや。もういや」


 芳雄はイライラする。


「いい加減にしろよ。俺が何したってんだ。授業参観の時のことは安枝によく言い聞かせてやったから」

「これなんなの? ポストに入ってたんだけど」


 奈々子は芳雄に写真を突きつけた。女といる芳雄の写真。


「ちっ。なんだよこりゃ」

「毎日あなたに怒鳴られて殴られて耐えて耐えて耐えて。その見返りが不倫? 私は何のために生きてるの?」

「知らねえよ」

「安枝がパパと暮らしたいって言わなきゃ、とっくに離婚してたわよ」

「安枝が……?」

「あんたなんかと結婚するんじゃなかった。こんなクズだってはじめからわかってたら」

「亭主に向かってなんだその口のきき方は!」


 芳雄は奈々子を殴りつけた。奈々子はさらにわあっと泣く。

 部屋の隙間から、安枝が2人を見ていた。

 芳雄は安枝に気づくと、ドカドカ足音を立てて近づき、小さな肩を揺さぶった。


「安枝、どうしてあんな嘘をみんなの前で発表したんだ?」


 安枝の小さな体は、顔以外全部あざだらけ、傷だらけだった。芳雄が殴ったからだ。

 自分よりも圧倒的に弱い存在。それでも芳雄は安枝が怖かった。


「嘘じゃないよ。全部本当のことでしょ。安枝知ってるもん。何十年も前からね」


 背筋が凍る。


「嘘つきは悪いことなんだぞ」

「嘘じゃないよ。それに本当に悪いことしたのは、パパなんじゃない?」

「もとはといえば全部おまえのせいだろ!」


 芳雄は安枝を床に叩きつける。倒れた彼女を殴った。殴られながら安枝はけらけら笑う。


「パパのせいでしょ。おまえのせいだ」


 芳雄は安枝を何度も何度も殴った。


「俺のなにが悪い。俺はなにも悪くない」


 一片の罪悪感もない。

 安枝にとり憑きでもした『安枝』を、人類のために消し去らなければならないとすら思っていた。

 殴られても殴られても、安枝はけらけら笑うだけ。奈々子は泣いて嘆くだけ。

 芳雄はますますイライラし、奈々子も殴った。


 戸棚の上のわかりずらい場所に、スマホが立てかけられていた。電源が入り、動画機能がオンになっている。



 

 建設会社本社の社長室に、緊張した芳雄が入った。


「社長、なにか御用でしょうか」

「なに。君の現場での働きぶりを聞きぜひ次の専務に押したいと思ってね」

「ええ? 若年の私が?」

「年齢は関係ないよ。有能な者が上にいた方が会社にはメリットが多いからな」



 

 会社の廊下に出ると、芳雄は社員たちに囲まれた。

 若手の社員が芳雄を讃える。


「部長、やりましたね」

「部長すごいです」

「部長についていけば安泰だ」


 女性社員が、「部長、今夜お時間ありますか」


 芳雄は大笑いした。



    

 翌日。車のハンドルをきりながら、芳雄はある工事現場に向かっていた。


「この現場はいつまでたっても赤字のまんまだ。専務になる前に俺が直々にヤキ入れてなんとかしてやらねえと。所長の頭をぶん殴ってやる」



 

 作りかけの建物。骨組みだけで、壁はない。職員が黙って一箇所に集まっていた。

 車からおりた芳雄は、職員に指示する。


「どうした? おまえら早く仕事しろ。会社から金もらってる自覚はあんのか?」


 職員たちは、冷たい目で芳雄を見た。怯えている者もいる。


「俺の言うことが聞けないのか?」


 芳雄はいらだち、職員たちを押し退けた。

 眼前、梁にかかったロープに、首を吊った女がぶら下がっている。

 腰を抜かした。


「な、奈々子?」


 女の顔はよく見たら奈々子だった。


「犬飼部長、これどういうことですか? 全社メールで流れてきたんですけど」


 職員が、会社から支給されたスマホの画面を芳雄に見せた。

 動画が映っている。


『もとはといえば全部おまえのせいだろ!』


 芳雄が奈々子や幼い安枝を殴っている。スマホで隠し撮りしたようだ。


「これも」


 別の職員が別のスマホの画面を見せた。

 あざだらけの安枝の写真。

 見知らぬ女といる芳雄の写真。

 週刊誌のネット記事。数年前の女性行方不明事件の記事。

 大手建設会社の重役Iの行方不明元妻Y。

 弁護士が明かしたIの不倫。

 Yからの慰謝料請求の件。


「知らない。俺は何も知らない」


 けたたましいパトカーの音とともに、現場に人がやってきた。


「犬飼部長はいますか? 警察が数年前の犬飼安枝さんの行方不明事件について事情聴取をしたいそうです」


 芳雄は逃げ出した。


「おい、待て」


 職員たちが芳雄を追いかける。




 数年後。汚らしいホームレスの男が、夜の住宅街をうろうろしていた。

 彼は、犬飼芳雄。

 自宅があった場所の付近をうろつく。

 あのあと、犬飼家のコンクリートの中から芳雄の前妻、『安枝』の遺骸の一部が見つかった。家は取り壊された。今その場所には新しい建物が建設されている。立地がいいので、ほとぼりが冷めたあと、行政が土地を安値で買い取り、また新しい建物を作ることにしたようだ。

 芳雄はその敷地を、血走った目で凝視していた。

 前に、セーラー服を着た少女が現れた。


「パパ。私のことわかる?」

「……安枝だろ。大きくなったな」


 セーラー服の安枝は、にこにこした。


「おまえがやったんだろ。奈々子のことも、動画も写真も週刊誌も。俺を嵌めるためにわざと奈々子に俺と暮らしたいと訴えたんだろう」


 芳雄に言われると、安枝は顔を歪ませ泣きじゃくった。


「ごめんなさい」

「なにがだ?」

「私、ただパパに浮気をやめてほしかっただけなの。ママを殴るのをやめてほしかっただけなの。優しいパパになってほしかっただけなの」

「安枝……」

「私、パパが大好き。パパに愛されたかった。家族で仲良く暮らしたかった。それだけだったの」

「ごめんな。安枝、こんなパパでごめんな」


 芳雄は泣き顔を作り、安枝を抱擁するかのように手を広げた。すると安枝は腕に飛び込んできた。


「とでも言うと思ったか?」


 安枝が自分の体に抱きつくと、彼女をつかんで倒し、首を絞める。

 安枝はもがいて芳雄の手を引っ掻いた。セーラー服のポケットからペンライトを取り出し、芳雄に向ける。

 目がくらみ、とっさに安枝から手を離した。

 安枝はその隙にすばやく逃げた。芳雄は安枝を追う。

 



 真っ暗な建設現場。芳雄は安枝を追ったが、見失った。

 カタンと音。


「そこか」


 音のほうへ足を向けると、別のところからも音がした。ぶぅんと、なにか空気が震える鈍い音も。

 怖くなり、壁を蹴ったり物を投げたりした。

 四方八方からけらけらけらけら笑い声がした。

 『安枝』の笑い声。

 『安枝』の亡霊でもいるのか。


「やめろ。やめてくれ」


 芳雄は息を切らせ、周囲に物を投げた。投げられた物がなにかに当たり、カタンと音がする。


「あ」

 向こう側で女の声。それから誰かがどさっと転んだ音と一緒に、ペンライトが光った。

 光でまわりの様子が見えた。

 小さな石を握りしめたセーラー服の安枝が、向こう側でへたりこんでいる。

 カタンという音は安枝が小石を投げた音。

 空気が震える音は、天井から垂れるロープにくくりつけられた大きなシートが、揺らされた音。

 けらけら笑いは録音機。

 芳雄はにやりとして、安枝のほうに足を向ける。

 とぷんと、足に柔らかい地面の感覚がした。

 アルカリのにおい。

 固まりきってないコンクリートに、芳雄は足を踏み入れてしまった。

 向こう側、ペンライトをつけた安枝が、黙って芳雄を見ている。

 冷たい目。心底軽蔑したような目。どこかで見たことのある目そのもの。

 コンクリートに沈み落ちていく芳雄は、その目を見てようやく悟った。

 安枝は『安枝』だったのだ。

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阿修羅の子 Meg @MegMiki34

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