社長に逆らって孫会社へ左遷されたことがある俺は、今では部下から不死鳥と言われている。

ただ巻き芳賀

短編 社長に逆らって孫会社へ左遷されたことがある俺は、今では部下から不死鳥と言われている。

「ほら、ウチの事業部門長は伝説のあの人なんだぜ」

「なんだか優しそうで、他の事業部門長よりふわっとした感じですね」


「バ、バカお前! あの人はな、……ヤバいんだぞ」

「へえ、とてもそんな風に見えないですけど」


 早過ぎないように始業開始五分前に出社して窓際の自席に座った俺は、こちらを見ながらひそひそと話す部下の声に気付いていた。


「社内であの人が何て呼ばれているか知らんのか?」

「いや私、先週まで地方勤務でしたから。で、何て呼ばれてるんです?」


「不死鳥だ」


「え! それじゃあの人が伝説のフェニックス!?」


 朝からやめてくれ!

 皆に丸聞こえじゃないか、恥ずかしい……。


◇◇◇


 若くして部長に昇進した俺は、横暴な社長が出した乱暴な指示を考え直してもらおうと、社長の説得を続けていた。

 多田社長は自分肝いりの新規事業に、特別手厚く賞与を分配せよと言い出したのだ。


「多田社長! 資料を作って参りました。これが今までの賞与分配になります。今まで新規事業を支え続けたのは既存事業です。どうか、その辺の事情を勘案していただけないでしょうか」


 五年前より検討を始め、三年前より開始した社長肝いりの新規事業が今年ようやく軌道にのったのは、会社にとって望ましいことだ。

 だが、それまでの五年間は、既存事業が人的にも資金的にも多大なリソースを割いて新規事業を支えてきた。


 しかしだ、社長肝いりの新規事業が成長を始めた途端、既存事業への賞与配分を極端に減らし、新規事業への賞与配分を特別手厚くするのはいかがなものか。


 支え続けた既存事業には、今まで特別な賞与の分配など一度たりともなかったのにだ。


 会社の方針で成果主義へ移行するにしても、これまでの会社判断を考慮すべきで、そうでなくては新規事業を支え続けた既存事業の社員たちがあまりに不憫ではないか。


 私の再三の訴えに、最初は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた社長だが、何か思いついたようで急に表情を戻すとさらに軽く笑った。


「荒川君の意見は分かった。検討して結果を伝える」


 話せば分かってくれる、そのとき俺はそう思った。


 だが、親会社から来た社長が成果に固執していて、自分の任期で何らかの功績を残そうと躍起になっているのを俺は甘く見ていたのだ。


 そして本社の部長だった俺は、三ランク降格の現場作業長としてグループ孫会社へ左遷された。



 出世競争とは無縁になって、落ち着いた日々もそろそろ三カ月を過ぎようとしていた。


 俺は作業長という立場だが作業班には加わらず、作業をする部下の勤務実績や勤怠の管理をこなして今日の業務を終える。


「荒川作業長、聞いてくださいよ」

「何だい?」


 終業の合図が鳴って作業場から離れた部下の和田君が、俺の元へ来て小声で不満を言った。


「あいつら俺たちが下請けだからって、何でもかんでも無理無茶を押し付けすぎですよ」

「俺も気付いている。悔しいけど、多少は我慢するしかないな」


「荒川作業長が言ってくれれば!」

「言うことは容易いが、要望を伝えて以前のように下請け代金を叩かれれば、会社の収益が減って我々の給料も危うくなる。今は堪えて欲しい」


 相談を持ち掛けてきた三十代の和田君が悔しそうに口元を歪める。

 同じフロアで働くグループ子会社の社員、つまり俺の出向元である会社の現場従業員が、下請けで入っている我々に対して仕事を押し付けるわ、感じ悪く罵ってくるわで酷い態度をとるのだ。


 出向してきた当時、孫会社の厳しい状況を知って声が出なかった。


 流通系巨大企業「ラクショウ・ホールディングス」のグループ企業に属し、グループ孫会社である我々の会社は、製品内部へ組み込む電子部品の製造がメイン事業なのだが、途上国の安価な製品が台頭してきて、受注量が大幅に下がっている。


 そこで手の空いた人材を活用するため、グループ子会社の既存事業である機器修理のリペア事業について、我々が下請けとして入って一部の仕事を請け負っているのだ。


 グループ子会社は大規模なリペア工場を持っているのだが、不足した人材の穴埋めをするために一部の企業の製品だけ、我々が修理の請負契約をしている。

 そのため同じフロアには、発注元であるグループ子会社の従業員と下請けであるグループ孫会社の我々が、同居して働いている状況なのだ。


 そうすると、勘違いする奴らが出てくる。

 グループ孫会社で下請けの我々は従業員ともども立場が低く、グループ子会社で発注元の従業員は立場が高いと考える輩が現れるのだ。


 一般企業でもそうだが、下請け企業の人や派遣社員へ偉そうに接するのはバカのすることである。

 そういう輩が、自分たちが貴族であるかのように偉そうに振る舞い、職場の雰囲気を悪くするのである。


 和田君の悔しそうな顔を見た俺は、確かに彼らは無理無茶を言い過ぎだと感じていたので、発注元の従業員に声を掛ける。


「あの、君たち。あんまり一部の人間に仕事を押し付けないでもらえないか」

「はあ? あんたら下請けだろ。発注元の俺らの言うことを聞いて当たり前じゃないか」


「いやそれは対企業間の話しだ。このフロアでは皆同じ立場で違う仕事をしている。そちらの仕事を一方的にこちらへ負担させるのはおかしい」

「ああ、あんたが飛ばされて現場の作業長にまで成り下がった荒川って奴か。下手にインテリで理屈ばっかり達者だからそんな目に合うんだよ」


「確かに飛ばされて現場の作業長になったが、それとこれとは話が関係ない。自分たちの仕事まで押し付けずに、きちんと皆で責任を果たすべきだろう」

「はいはい正論をどうも。じゃあ、下請けのあんたらが態度悪くて、一緒に仕事をやりにくいと工場長に言っとくから」


 こ、これはマズい。

 誰だって少しは自分の部下を贔屓目に見る。

 契約で決めた下請け代金を減額するなら明確な下請法違反だが、ここの工場長は契約以上の仕事を上手いさじ加減で微妙に増やすと聞く。

 こいつにあることないこと言われれば、工場長の判断次第で今より仕事を増やされ兼ねないし、それに逆らえば最悪下請け仕事がなくなる。


「え、あ、ちょっと待ってくれ」

「ああ? なんだって、おっさん」


「さ、さっきの話しは忘れて欲しい」

「吐いた唾は呑めないんだよ。簡単に忘れられるか! まあ謝罪があるなら聞くがな」


 別に俺のプライドなんて、既に何の価値もない。

 謝罪で皆の雇用を守れるならいくらでもしてやる。


「すいませんでした」

「何簡単に謝ってんだ、いい歳して情けない。そんなんだから、逆らっていい相手かどうかも分からずに飛ばされんだよ」


 偉そうな態度をとった二十台の男は、俺の肩をポンポンと叩くと作業ルームから退室した。

 離れていた和田君が近寄って来る。


「なんだよ。ちっとも効果ないじゃん。それどころか謝罪までさせられてるし」

「相手が不当で理不尽でも、それで下請け仕事がなくなったら困るから」


「荒川作業長が発注元の本社から来たって聞いて状況がよくなるかと思ったけど、あんな若い奴にまでペコペコしちゃうし。あいつらに言ってくれたのは嬉しかったけどさ」

「……」


 俺は返す言葉もなく黙っていたが、和田君はそれ以上俺と会話する気もないのか、さっさと作業ルームを退室した。


 後に残った俺は、発注元の二十台従業員が言った「そんなんだから、逆らっていい相手かどうかも分からずに飛ばされんだよ」という言葉に「確かにそうだよな」と無念を口に出すと、静かに涙をこぼした。



「作業長はさ、なんで飛ばされた訳?」


 現場で作業をする矢部さん、通称やっさんが目元をニヤニヤさせて俺に話し掛けてきた。

 小柄で人柄がいい彼は、見てないとすぐサボるが憎めない男だ。

 質問は直球だが彼に悪気なんてない。

 人当たりのいいやっさんが、現状から妥当な推測をして親し気に話を振っただけだ。


「社長に逆らっちゃってね」

「そりゃよくないよ。社長はマズかったね」


 それは重々思い知った。

 出向してきてこの三カ月、後悔しない日はない。


 若くして部長になった俺は、バリバリ仕事をして合理的な判断の元に成果を出せば、それで評価されるんだと思い上がっていた。

 だが実際は上に行くほど、成果以上に円滑な人間関係が必要だった。


 それが分かっていたハズなのに、よりにもよって俺は会社のトップである最高権力者に異を唱えて楯突いたのだ。

 社長だってあそこまで上り詰める高い実力がある訳で、俺の言い分を理解できないはずがない。

 当然に理解した上で、最高権力者として我が儘を言ったのだ。

 そこまで上り詰めた者が言える自分に都合のいい我が儘、それに対して俺は正論を述べて判断を変えさせようとしたのだ。


 その結果がこのザマである。


 俺はやっさんに自虐的な苦笑いをしてみせると、彼は俺の後悔の念を感じ取ったようで、優しく二回頷いてから修理作業に戻った。


 俺が今までいた出向元の会社は、流通系巨大企業「ラクショウ・ホールディングス」のグループ企業に属し、グループ子会社という位置付けだ。

 それでも世間的には大企業に分類される恵まれた環境である。


 そして俺は今、そのグループ子会社からみてさらに子会社、つまりグループの親会社からすれば孫会社にあたるこの電子機器の部品会社へ出向している。


 普通の出向は人員整理が目的で、出向先に重要なポストが用意されてそれなりの地位で過ごせるが、俺の場合は社長に楯突いて出向させられたんだから、何をどう頑張ろうとよい待遇を得られる訳がない。

 一体誰が、報復として社長に出向させられた俺の待遇をよくしようとするものか。


 出向期間が終わればこのグループ孫会社の給料になるのだが、今の役職は現場作業長なので年収は半分程度になる。

 だが、だからといって足掻いても最高権力者の決定を覆せる訳もないので、開き直ってぼちぼち過ごすことに決めたのだ。


「荒川作業長、ちょっと来てくれるか」


 急に場内放送で石川工場長に呼ばれた。

 事務所へ行くと、いきなりしっ責を受ける。


「おい、ウチで対応する大手家電メーカーの修理にクレームが出たぞ。君が管理するリペア班だ」

「どういったクレームですか?」


「異常動作と外装の損傷だ。大ごとだぞ荒川君!」

「え、あの、クレーム資料を見せてもらえますか?」


 すると工場長は簡単にまとめられた資料を見せた。

 社内への回覧用として簡単に作成されたもので、クレームのあらまししか書かれておらず、どんな異常動作が出たのか、外装がどのように損傷したのか、具体的なことは記載されていない。


「それを見て責任の取り方を考えてくれ」

「ではまず、具体的な再発防止策を検討しますので、詳細資料を欲しいのですが」


 そう告げたところ、石川工場長は口を歪め鬱陶しそうに舌打ちした後、じろりと睨んできた。


「荒川、あんたはそんなことを考えんでいい。日付やメーカーを見たらあんたの管理案件だと分かるだろ。社長に使えないと烙印を押された奴に現場の対策なんて無理だ。それよりも、この件についてどうやって責任をとるか考えたらどうだ?」

「石川。それはつまり、俺に責任をとって辞めろと言っているのか!?」


 確かに俺とこの石川とは同じ会社にいたときから馬が合わなかった。

 だがまさか、こいつと上司部下の関係で働くことになろうとは。

 俺が社長の怒りを買ってグループ孫会社へ出向になるや、こいつは完全に俺を見下して徹底的にしいたげてくるようになったのだ。

 まるでそうすることについて、社長からお墨付きを得たかのように。


「辞めろなんて言っていない。だがこんな問題を起こして、今まで通り下請け仕事を頼めるかは怪しい。そしてこの状況はあんたの責任ということだ」

「俺の責任……なのか」


「荒川、俺は今まで自分の実力で勝負してきたから、あんたのようなやり方には反吐がでる。あんたが失敗するのは、仲良しこよしで他人をその気にさせて仕事をさせるからだ。反省するんだな」

「でも、その仕事を俺より得意な奴がいるなら、力を借りた方がいい結果が出るだろ。その代わりに、そいつの別の仕事を俺がすればいい」


「それが仕事を舐めていると言うんだ。別にお前の考えなんか聞いていない。この件は本社に報告する。あんたは、これからの身の振り方を考えろ」


「うぐ……確認して、検討……します」


 俺はありきたりな返答をするのがやっとで、社内回覧用のクレーム報告書を握り締めると静かに退室した。


 今度は流石にヤバいかもしれない。

 社長に逆らってもいきなり解雇にはならなかったが、出向先でミスを犯せばこれ幸いとばかりに粛清されるかもしれない。

 何せ社長が俺を嫌っているのは、会社の誰もが知るところだ。

 社長を喜ばせようと俺の失態に目を光らせ、社長の意向を忖度して行き過ぎた人事に加担する奴は多いだろう。

 ……なるほど、本社の部長から転げ落ちた俺の末路は、こんなものなのか……。


 人生に諦めがついたこともあり、妙に心の落ち着いた俺は、それでも自分の責任でこのグループ孫会社の下請け仕事が無くなることは申し訳なく思った。

 だが、クレームの詳細資料をもらえないことが引っかかる。

 もし、下請け仕事をする俺たちの責任ではないことを証明できれば、この電子機器の修理請負を継続できるかもしれない。


 そこで俺はすぐ調査に取り掛かった。

 クレーム発生は一週間前とつい最近のタイミングだが、事務所にはやたらと資料が少ない。

 なぜかその頃の日次報告書が無いのだ。

 保管を義務付けられているので捨てるはずはないのだが、書庫を確認してもそんな最近の資料は保管されていなかった。


「荒川作業長、余計なことをしていないで、作業中の修理班の管理をしなさい」

「……はい」


 目ざとく見つけた石川が工場長らしく俺を諭すが、どうしてか日次報告書を探されるのは都合が悪いようだ。

 日次報告書を見られて困る理由があるのか。

 気になって石川の目を盗んで探したが、やはり資料は見つからない。

 仕方なく作業詰め所に戻って修理の進捗状況を見ながら、どうにかならないものかと思案に暮れる。


 ウチが下請けで入っている修理班は、まだ業務が電子化がされていない。

 分業で、解体や損傷個所の特定、修理、再組立てなどをしているが、同じ製品でも故障個所が違ったり、製造時期で解体方法が違ったりでほとんどの作業を人間の手に頼らざるを得ず、新品の製造ラインと比べると機械化がほとんど進んでいない。


 作業記録は都度手書きでとっており、工場事務所で長期保管する資料は、現場で記入したものをまとめ直している。


「どうしたんですか? 荒川作業長」


 作業を終えた亜由美さんが、考え込む俺を不思議そうに眺めている。


「ああ、もうそんな時間か。今日も一日お疲れ様」

「何を悩んでいるんです?」


 一日の作業が終われば皆、さっさと作業ルームを退室して更衣室へ行き着替えをする。

 なのに彼女はわざわざ作業詰め所へ来て、俺の様子を気遣っている。

 作業詰め所の窓から俺の悩む姿が見えたのか、亜由美さんを心配させたようだ。


 亜由美さんは二児の母だが子供が小学校を卒業して手が掛からなくなり、フルタイムで働こうとウチの会社に応募してきた人だ。

 パートで細切れに働くよりも、しっかり働ける方が性に合っているそうだ。


「いや、資料を探していてね。現場で書いた修理記録の紙が残っていないかと思ってね」

「ああ、それならこの棚の横の段ボールですよ」


 彼女は四つも積み重なった段ボールを指さした。


「こんなにあるのか!」

「なんでこんな物が必要なんです? 数値なら日報にまとめて事務所へ上げているじゃないですか」


 俺は少し迷ったが、彼女に洗いざらい説明した。

 最悪、この下請け仕事が無くなるかもしれない。

 ぎりぎりまで秘密にするよりも、当事者である彼女には少しでも早く情報を共有した方がいいと考えたからだ。


「つまり、事務所へ上げた日次報告書がなぜか見当たらないのですか?」

「そうだ」


「なのに、工場長は私たちグループ孫会社の下請けがミスをしたと断定しているのですか?」

「そうだ」


 俺が返事をするや、彼女は大急ぎで作業詰め所を飛び出ていった。

 少しして私服に着替えた部下たちが、わらわらと作業詰め所へ入って来る。


 先頭で俺の顔を覗き込むのは、キャップを被り大きめのTシャツを着た和田君だ。


「なあ、荒川作業長! クレームが俺らのミスにされそうなのはホントか!?」

「まだ、決まった訳じゃない」


「いや、そんな異常動作のミスがある訳ねーよ。だって何人もでやってるんだぜ。あるとしたらそういう特殊指示だったとしか……」

「いや、俺らのミスもあり得るから、まずは当時の記録紙を調べようと……」


 後ろから両肩を掴まれたので振り返ると、やっさんが眉を八の字にして俺の肩を揺する。


「作業長ー、そりゃ困るよー。俺ぁ再就職なんて厳しいんだ。食いっぱぐれちまうよ」

「だから、まずは調べようと……」


 そこからは大騒ぎになった。

 後ろにいた他の皆も騒ぎながら段ボールを運び出し、皆で手分けして中にある記録紙の確認を始めたのだ。


「皆、すまないな」


 一日の作業を終えて疲れているはずなのに、申し訳ないと詫びると、皆から口々に「一人で調べて見落としがあったら困る」だとか「仕事が無くなったら困るから自分のためだ」とか言われた。


 結局、対象となる日付の記録紙は、最近入った黒縁眼鏡の女性が見付けてくれたのだが、その際「原紙に何かあったら困るのでデータも保管しましょう」と言って、スマホで写真を撮って俺のアドレスへメールしてくれた。



「あなた、お帰りなさい」

「ああ、いつもすまないな」


 資料探しで遅くなったのに、妻の恵子けいこが晩飯を食べずに待っていてくれた。

 孫会社へ出向になり、本社から工場勤務になって落ち込む俺を恵子が気遣ってくれる。

 仕事ばかりで家庭を顧みなかったのにそれでも優しく接してくれるのは、きっとそれほど酷い人相をしているからに違いない。


「心配だろう? こんな状況じゃ……」

「全然。大体あなたの悪い所よ。何でもかんでも守ろう守ろうと背負い込み過ぎ。家族はね、支え合うものなのよ。だから、少しは寄り掛かって」


 日々の彼女の言葉に随分救われている。

 ありがとう、恵子。


 ダイニングテーブルで妻と会話して、少し心が落ち着いたところで電話が鳴った。


「ああ、師匠。お久しぶりです」

「久しぶりに釣りでもどうかね」


 電話の相手は、俺が趣味の釣りでお世話になっている師匠だ。

 明後日の日曜日に釣りへ行こうと誘われた。


 今日は皆の助けを借りて、何とか該当する日付の作業記録紙を見付けたが、もう遅いので中身の精査とまとめは明日の土曜に自宅ですると伝えて、皆に解散してもらった。


 作業記録を確認してまとめるのは土曜日だけで十分、だから日曜日は空いていて都合はつく。


 たが、この件が解決するまでは気分が落ち込んで、何かをする気が湧いてこない。

 とはいえ、家に引き籠っても問題が解決する訳じゃないのは分かっている。

 今日は久しぶりに師匠が電話をくれた。

 左遷されてから色々あって、折角誘ってくれてもずっと断ってたな。

 心配掛けても悪いし……。


「行けるなら行って来たら?」


 気分転換が必要だと恵子が背中を押してくれる。


 俺は師匠の誘いに「都合がつけば行きます」と曖昧に返事をした。


 篠宮師匠。


 社会人になり、何か趣味を持とうと思った俺は、テレビで見た釣り番組を参考に海へ行ったが、都会育ちで釣りの要領も何も分からず、魚なんて全く釣れなかった。


 これで釣れなかったら別の趣味にしよう。

 そう思って釣り船に乗り込んだが、その時隣に座っていたのが師匠だった。


「兄ちゃんは初めてかい?」


 全く釣れない俺を見かねたのか、師匠が助けてくれたのだ。

 あれから、もうかれこれ二十年以上の付き合いだ。

 当時、師匠は四十後半だったが、今じゃもうすぐ七十のおじいちゃんだ。

 これから先、師匠と一緒に何回釣りに行けるか分からない……。


 結局、土曜日に頑張って記録紙から資料をまとめ上げ、日曜日は師匠と同じ釣り船に乗った。


「おい、荒川君。今日はどうしたんだね?」

「あ、いや、何でもないです」


「何だか心ここにあらずだ。いつもは私より一匹でも多く釣ろうとするのに、君らしくないな」

「……」


「それとも、やっと年長者を気遣って遠慮するようになったか」

「え、ええ、まあ……」


「……お主、何があった?」


 師匠に心配を掛けまいとはするが、昨日まとめた調査報告は衝撃の内容で、会社に一体どう伝えたらいいか悩んでいた。

 故障内容が明らかに変でイレギュラーな案件が多く、特定メーカーの修理班を狙い撃ちしようとする意図が見えたからだ。

 これを単に私たちグループ孫会社である下請けの失態として片付けようとする石川工場長は、浅はかとしか言いようがない。


 グループ子会社のリペア事業にダメージを与えるため、ワザと今回のミスを誘発させるなんてことがあり得るのか。


 いくら師匠でも部外者なので、事件のあらましを伝えることは出来ない。

 だが、簡単ないきさつくらいなら秘密漏洩による背任にはならないだろう。


 そう判断した俺は、社員の生活を守ろうと社長に逆らって飛ばされたことや、出向先の孫会社で働くも、出向元でグループ子会社の従業員から酷い扱いを受けて部下すら守れない状況、さらには現場のミス全てを自分たち下請けに被せられ、下請け契約すらもうすぐ切られそうなことを告げた。


 すると師匠は、俺が落ち込んで大好きな釣りも手に付かない状態によほど驚いたのか、顔から笑みを消すと目つきを鋭くした。


「確かお主の会社は電気製品の修理をしていたな。今度、その修理工場へ見学に行ってもいいかね?」

「どうぞ。見学内容に制限はありますが、自社製品の修理現場なら解放されていますので」


 俺がいつまで働けるか分からないが、いる間なら直接工場を案内したいと伝えると、師匠は「それは楽しみだ」と何かをたくらむ子供のように笑った。



「この前は悪かったね、愚痴を聞いてもらって」

「まあ、古い付き合いだからな。それに愚痴を聞くぐらいなら、社長に逆らったことにはならないだろ」


 俺は週明けの月曜に自分の出向元であるグループ子会社の同期、山口に電話で礼を言った。


「いつまでやれるか分からんが、もう少しだけ頑張ってみるから」

「下請けいじめの件、あの後すぐにコーポレート相談室へ匿名で報告しといたから。それと、前の部署の奴らがお前のことを心配していたぞ」


「いろいろ、すまないな。ところでさ、お前と飲んだ翌日かな、仕事ができるちょっと変わった女性が求人に応募してきたんだが、お前の差し金か?」

「知らないな。仕事ができるんならいいじゃないか。助かるだろ?」


「いや、それがちょっと出来過ぎるというか。この会社にはもったいないというか」

「本人が望んで入社したんだから気にするな。それで? その女性は美人なのか?」


「まあ、見た目は個性的というか……」


 作業詰め所の窓から修理班の様子を見ると、作業をする噂の彼女が見えた。


 背が高いようだが、もの凄い猫背で作業をしている。

 その上、ぶかぶかの大き過ぎる作業服を着ていてとても変なのだ。

 あれはワザと自分から大きいサイズを選んで着ているらしい。

 別に太っているように見えないが、そんなにスタイルに自信がないのか?

 いや、それより何より強烈なのが、あの黒縁眼鏡だ。

 まるで昭和のオヤジが掛けるような、四角くてフレームの太い黒縁の眼鏡。

 若い女性なのになんであんな個性的な眼鏡を選ぶのか。

 それに折角の長い黒髪も、ただ無造作に束ねただけで出社してくる。

 いつも顔を隠すほどの大きなマスクをしているし、もしかしたら彼女はオシャレに興味がないのかもしれない。


 俺は山口にもう一度礼を言ってから電話を切った。


「簡単に負けるなよ!」


 彼の激励を思い出して、もうひと頑張りしなければと気合を入れる。

 発見した問題を公にする丁度いいタイミングを見付けたので、それに向けて資料の完成度を高める必要があるからだ。



 俺をグループ孫会社へ左遷して三ランク降格の作業長にした張本人、グループ子会社の多田社長が今日この工場へ来所する。

 年一回の自社工場訪問ということらしい。


 石川工場長は朝から入念に準備して、社長の受け入れ態勢を万全にしていた。

 そしてなぜか作業長である俺も、多田社長の指示で一緒に行動するように言われる。


 俺からすれば願ってもないことだ。

 最悪、急に社長の目の前へ飛び出て、直談判するしかないと思っていたところだった。

 でも最初から社長のそばに居られるなら、最善のタイミングを見計らって事情を伝えることができる。


 多田社長の到着時間になり、出迎えるために工場長と事務所の入り口で待っていると、ほどなくして黒塗りの車が目の前に止まった。

 二人して車の前に並んで出迎えたのだが……。

 黒塗りのセダンから出てきたのは社長ではなく、よく見知った顔だった。


「師匠!? まさかこのタイミングで?」

「おう荒川君、工場見学をさせてもらうぞ」


「あ、いや、今日は予定があってご一緒できないんですが……」

「気にするな。自分で勝手に見て回るから平気だ」


 師匠の恰好は工場見学なのにいつもの釣りのときと同じだ。

 ベージュのパンツに白いポロシャツ、色付きの偏光グラスを掛けていて、短いつばが全周に付いたクロシュ帽子を被り、お馴染みの杖を突いている。

 トレードマークの白いあご髭もそのままだ。


 ただ車はいつもの白いワンボックスではなく、黒塗りの最高級ハイブリッド車でしかも運転手付きだった。

 師匠とは釣り以外で会ったことがないのだが、もしかしたらお金持ちなのかもしれない。


 できれば師匠の工場見学は俺が案内したかったが、今は社長の相手をせねばならない。

 隣の工場長も急な来訪者に怪訝な表情をしているが、ただ黙ってこのやり取りを見ていた。

 社長の来所対応でピリピリしてはいたが、近隣住民との関係構築のために設けられた見学施設は常時解放されていて、追い返す訳にもいかないからだ。


 出迎えで硬くなっていた俺と石川工場長は、師匠の登場でなんだか急に気が抜けて緊張がほぐれたため、おかげでそつなく社長を出迎えることができたのだった。


「ああ、荒川君。元気にしていたか?」


 指示通りに出迎えた俺の顔を見ると、多田社長は満足そうにニヤリと笑った。

 先に現場の状況を見たいと社長が言うので、修理作業を休止させて清掃中の作業ルームへ連れていく。


 作業ルームへ入ったところで、工場長の猛アピールが始まった。


「安全はもちろんですが、この通り5S活動である整理・整頓・清掃・清潔・しつけにも力を入れています!」

「石川君。俺はそんなことに興味がない。それよりも今日は何故修理をしていない? もっと生産性を上げて欲しいんだよ!」


 社長のしっ責に工場長が驚く。

 工場操業の基本である「安全と清掃」にまるで興味を示さないからだ。


「この工場が担う電気製品の修理、リペア事業はあくまで既存事業だ。既存事業は会社の将来を支える新規事業の礎に過ぎない。特にここの修理工場は、ただ新規事業を支えるためだけに存在すると言ってもいい」


 石川なりに日々頑張って操業の指揮を執っているのに、社長のあまりの言葉に奴の顔も引きつったが、得意の愛想笑いでサラッと受け流していた。


 ところがだ。

 多田社長はこの修理現場が俺の管理だと聞くと、急にニヤニヤしだしたのだ。


「荒川君。先日のクレーム報告は私のほうにも上がっているぞ。君は出向先でも問題を起こしたようだな?」

「い、いやこれには事情がありまして……」


 説明を始めようとしたところで、工場長が大急ぎで遮った。


「社長! クレームの実態を確認しましたが、本当に酷いものでした。明らかに荒川作業長のミスです」

「やはりそうか。これでは付き合いの長かった家電メーカーの修理業務が減るではないか!」


 何だか二人の受け答えがおかしい。

 言っていることは嚙み合っているが、二人とも抑揚が変と言うか、棒読みのように聞こえる。


「いかがいたしましょうか」

「そうだな、得意先の信用を失った訳だから、荒川君には進退を覚悟してもらうか」


 清掃をしている作業者たちは一言も発さず、ほとんどの者が掃除の手を止めて、ことの成り行きを見守っていた。


「こちらです」


 異様な空気が流れるこの場に、あの黒縁眼鏡の女性が白い顎髭を生やした老人を連れてきた。

 なんと見学で来ていた師匠がこの部屋に入ってきたではないか。

 俺は呆気に取られた。


 一緒にいる黒縁眼鏡の女性が、何故かいつもとは別人のように感じたのだ。

 それは彼女がいつもの猫背ではなく、背筋を伸ばしていたので立ち姿が綺麗だったからなのかも知れないし、作業服ではなく黒いスーツ姿だったからなのかも知れない。


「お爺さんダメだよ、勝手に入っちゃ!」


 後を追ってきた事務員が止めるが、黒縁眼鏡の女性が名詞を見せてから耳打ちして何か説明している。

 するとなぜか事務員は驚きの表情と共に、一礼して後ろに下がってしまった。


 入り口付近で起こった一連のこのやり取りに多田社長や工場長たちも気付いたが、些細なことと思ったのか特に気にも留めなかった。


 俺は大勢が集まるこの状況が、社長へ事情を説明する最大のチャンスと直感した。

 この状況なら、如何に社長といえど俺の話を無視することはできない。


「社長。今回のクレームは、我々下請け修理班であるグループ孫会社の失態ではありません! 別の班でクレーム内容と同じ処理をするように特殊指示が出ています」

「荒川君。君なら反論してくると思っていたが、証拠もないのに責任を逃れようとするな」


「証拠ならあります!」


 自信満々に証拠はないと決めつけていた多田社長に、まとめ上げた資料の束を差し出した。

 驚いた表情で資料に目を通した社長がプルプルと震えている。


 俺のこの発言に、清掃で周りにいた作業者たちがざわついた。


「やっぱり俺たちじゃないんだ」

「ありえないと思ったわ」

「ふう、これで失業しないですんだ」

「あのメモ紙が役に立つ日が来るなんてな」


「ちょっと、それってあたしたちがさせられた特殊指示じゃないのよ」

「違うメーカーだからおかしいと思ったんだ」

「ちっ、悪事の片棒担がせるなんて勘弁しろよ!」


 作業者たちから非難の目を向けられた社長と工場長は、完全アウェイのこの状況に驚いていたが、我に返った多田社長が横にいる石川工場長を睨みつけた。


「い、し、か、わ! どういうことだッ!!」

「え、あれ? なんでだ!? 日次報告書は俺の方で抑えていたはずなのに……」


「それでもこの工場がお騒がせしたのは間違いありません。これからもクレーム撲滅のために頑張りますので、下請け仕事を継続させてもらえないでしょうか」


 疑いを晴らせてホッとした俺は、安心して社長に頭を下げる。

 俺を粛正するために社長が動くのは違和感があったが、真相はどうあれミスの嫌疑が晴れたので職場は守れたと思ったのだが……。


 バシンッッ!!


 顔を真っ赤にした鬼の形相の多田社長が、俺の作った報告書の束を力一杯床に叩きつけた。


「荒川ぁあッッ!!!! 貴様はどこまで俺の邪魔をすれば気が済むか!! 先を見据えた俺の絵図をダメにしやがってッ!」


 怒りで興奮した社長は、ふうふうと荒い息をしながらも徐々に落ち着きを取り戻すと、今度は能面のように感情のない顔になった。


「もう体裁なんぞ気にするか。いいか荒川、よく聞け。お前らは今まで懇意にしてくれた家電メーカーの案件で失態を犯した。だからグループ孫会社の責任として、この工場の下請け業務から外すだけでなく、下請け部門そのものを廃止させる」

「え、ちょっと、なんで??」


「部門が廃止となって、結果、従業員が解雇されるのは、家電メーカーの案件で失態を犯した荒川の責任だ。皆、分かったな?」


 冷たい表情の多田社長が、静かに聞き入る作業員たちに向かって言い放った。


 そんな……。

 俺は立っていられなくてひざをついた。

 いくら真実を訴えても意味などなかった。

 理由は不明だが、今回のクレームは社長の差し金だったからだ。

 そもそも俺は社長に逆らう気なんてなかった。

 だが、結果的に社長に逆らうことになってしまい、そのせいで本来守れたはずの下請け部門まで廃止になってしまった。

 俺は床にひざを突いたまま、自分の無力さがあまりに悔しくて涙が頬を伝った。

 

 それを嬉しそうに眺めた多田社長は「はっはっは」と乾いた笑いをすると、満足したのかこの場を立ち去ろうと扉へ向かう。


「君、ちょっと待つんだ」


 それをなんと、黙って見ていた師匠が呼び止めたではないか。


「なんですかご老人。なぜ部外者がこの場にいるのか不明だが、口を挟まないでもらいたい」

「お主は荒川君が働く会社の社長ではないはずだ。なのに、なんでその事業活動に口を挟むのかな」


「我が社はこいつの出向先の株式を百%保有する。代表取締役である私が、下の会社の経営に口を出して何が悪い」

「ふむ。百%株式を保有されていれば従うべきと?」


「当然だ」

「それはまだ取締役会で承認された会社の方針でもないのにか?」


「社長の俺が指示を出せばそうなるんだよ。爺さんなら社会の仕組みくらい分かりそうなものだがな」

「ならばだ。親会社で代表取締役副社長の私ならば、お主の会社に口出ししても構わんな?」


「じいさん、一体何を言って……」


 し、師匠?

 え、い、今なんて言ったの?

 親会社の代表取締役副社長と言った?

 ど、どういうことだ?


「多田!! お前は、まだ分からんのか!」

「!? なんだじじい! 偉そうに俺を呼び捨てにしやがって! だいたいお前は一体何者だ!?」


 師匠は帽子と色付き眼鏡を取ると、黒縁眼鏡の女性にジャケットを着せてもらう。


「もう私の顔を忘れたか。やはりお主に社長を任せるのは、断固として反対すべきだったのう」

「えと、何処かで見たような……」


「人の心を蔑ろにするその性格、事業企画部長のときから相変わらずのようだな、多田!」

「うあっ! し……しししし篠宮副社長……」


 えぇええええ!!!!

 親会社の篠宮副社長ってラクショウ・ホールディングスの!?

 どどど、どういうこと??

 え? し、師匠が副社長!?

 師匠は、いつも色付き眼鏡をなぜか外さなかったし、年寄り臭い帽子を被って釣り用のチョッキを着ていたが、ま、まさか、まさか、うそだろ!?

 そういえば、回覧で見た親会社の役員に同じ名字の人がいるとは思っていたが……。

 まさか親会社の副社長と同一人物だなんて……信じられん……。


「お主の事業企画は一流だが会社経営はまた別もの。社長には時として非情な決断も求められるが、それは決して社員をぞんざいに扱うということではないぞ」

「い、いや、これは工場内で発生したクレームの後始末。荒川が犯したミスの責任を……」


 突然の正体判明に取り乱した多田社長は、それでも類まれなる危機回避能力とこれまでの経験値から、なんとか切り抜けようと全力で取り繕い出すが……。


「荒川君。日曜日に船の上で言っていた話を、もう少し詳しく聞かせてくれんかの」

「え? あ、ああ、分かりました、師匠」


 いきなり副社長だと言われても、二十年以上俺の中では釣りの師匠だったので急に認識は変わらない。

 いつもの調子で返事をすると、多田社長と石川工場長が目を丸くした。


「えーと、荒川君? 君は篠宮副社長を知っているのかね??」

「ええ社長。プライベートで昔からよく一緒に遊んでいます」


「……む、昔から?」

「もう、二十年以上前からの付き合いです」


「もうそんなになるか、荒川君との付き合いは。多いときは毎週末一緒に遊んだのう」

「最近は私が仕事で色々あって、あまり行けてなかったですね」


「ほう、色々ねぇ。私の誘いが断られるのは、そういう事情があったのか」


 師匠はそう言うと目を細めて多田社長を見やった。


「え、あ……、か、彼には将来会社を支える立場になってもらうため、い、一度現場の実態を把握してもらおうと……」

「なるほどのう。それで三ランクも降格させて、グループ孫会社の現場作業長をさせている訳か。なるほどのう」


 俺は何でも知ってるぞと言わんばかりの表情をした師匠は、まるで多田社長の言い訳を面白がるかのように小さく数回頷いて返事した。


「師匠、では資料で説明しますね」


 俺が社長の前に散らばった資料を拾おうとすると、背筋を伸ばした黒縁眼鏡の女性がつかつかと近寄ってきた。

 彼女はゆっくりと黒縁眼鏡を外すと、しゃなりとしゃがんでから、社長が床に投げつけた資料を横向きに拾い上げ始める。

 しなやかな仕草で資料を拾う様子があまりに美しく、少し見入ってしまった。

 眼鏡とマスクを外した彼女は、今まで分からなかったが目鼻立ちがはっきりとしていて、シンプルなポイントメイクの物凄い美人なのだ。

 これまで修理班で一緒に働いていた同じ女性とは全く思えない、息をのむほどの黒髪の美女だった。


「こちらが荒川さんがまとめてくださった資料です」


 資料を拾い終えた黒髪の美女が、細く綺麗な指で紙束を整えて副社長に渡したので、俺はすぐに師匠へ説明を始める。


「クレームのあった当日は我々下請けの修理班と、隣接エリアで作業する発注元の修理班とが、同じメーカーの同じ商品を扱っていました」

「この商品の修理はいつも多いのか?」


「いいえ。いつもは我々下請けの修理班で十分対応できます。その日に限り発注元の修理班も作業しています」

「だが、チェックの際の動作内容が違うぞ?」


「発注元の修理班は、本来とは違う異常動作をするように、特殊な指示がされたようです」

「そんな場合があるのか?」


「普通ならありえません。クレームの詳細情報は石川工場長から開示を拒まれたので分かりませんが、そのワザと施した異常動作がクレーム内容に合致します」


「石川とやら、クレーム内容の開示は何故拒んだ?」

「は、はい。多田社長の指示です」


「それでは、何故ワザと異常動作をするように特殊指示を出した?」

「はい。それも多田社長の指示です」


「多田。お主は一体何を企んでおるんだ?」

「え、あ、う……」


 返答に詰まった多田社長がもごもごと口ごもると、黒髪の美女がさらに別の資料を師匠に手渡した。


「クレーム騒ぎになった家電メーカーについて調査したところ、この家電メーカーとライバル関係にある外資系メーカーが、最近、当グループ子会社へ接触したことを確認しました」

「外資系だと?」


「はい。今回のクレーム騒ぎが大きくなれば、外資系メーカーへ有利に働くでしょう。一方、当グループ子会社で好調な新規事業分野は、本来その外資系メーカーの独壇場で参入が困難だったはずです」

「多田、まさかお前、新規事業を育てるために、既存事業で世話になり続けたお得意様との関係を悪化させようとしたのか⁉」


 それはつまり、自分の任期中で成果を出すことに固執した多田社長が、外資系メーカーと取引して新規事業の参入を認めさせるかわりに、今まで既存事業で多額の収益をあげさせてくれた家電メーカーへダメージを与えて縁切りすると約束した、ということか!


 家電メーカーに対してはあくまで過失だと偽って、賠償して済ます気だったな?


 これが事実なら会社が把握した以上、公表して対応することになるが、一連の企みが多田社長の故意により会社に多額の損害を与える訳だから、彼には特別背任罪で刑事罰まであり得る。


 もちろん会社へのダメージが計り知れないので、何とかそうならないように家電メーカーへ謝り倒して、許しを請うことになるだろう。

 つまり、内々で多田社長を家電メーカーへ謝罪させるなどして、穏便に治めるべく奴を奔走させることになるだろう。


 急に顔の青くなった多田社長がブンブンと凄い勢いで首を横に振った。


「め、滅相もございません。おい女っ! 証拠もないのに何を根拠に……」

「追加資料に記載していますが、もしご入用でしたら、外資系メーカーとのメールと密会された写真データもお渡ししましょうか?」


 それを聞いた多田社長は、ガクンと聞こえたと錯覚するほど綺麗にひざから崩れ落ちた。


「聞け多田。私は優しいから、お主の様に自分の一存で対処を決めたりはせん。来月の取締役会で私から発議して沙汰を決めるから、それまでの間はどんな指示が出るか楽しみにして過ごすがいいぞ」

「そ、そんな……。篠宮副社長から発議されたら、もうその内容で決まりではないですか……」


 多田社長は先程の俺の様にひざを床に突いたまま、がっくりとうなだれた。


 その様子を見た黒髪の美女が副社長の方を向いて、フフと上品に笑っている。


「副社長は人が悪いです。断罪されることを覚悟させて、そこからひと月も過ごさせるなんて」

「おいおい、私は断罪するなんて言っておらんぞ。まったくお主の方が人が悪いわい」


 彼女の上品な笑いを受けて、今度は師匠が口を大きく開けてかっかっかと愉快そうに笑った。


「し、師匠は親会社ラクショウ・ホールディングスの副社長だったんですね……」


 あっけに取られてしばらく言葉を失っていた俺は、ようやくのことで声を絞り出した。

 俺をとことん追い込んできた多田社長を、圧倒的な力で一方的に追い込む師匠の本当の姿にすっかり驚いてしまった。

 そんな俺をみた師匠は口角を上げると、釣りのときと同じでいたずら小僧のような目になった。


「ほら、遊びに仕事を持ち込んだら急につまらなくなるだろ? お主だって私の立場を知ったら態度が変わると思ってな」

「そ、そりゃ、まあ、正体が親会社の副社長と分かったら意識するなという方が無理というか……」


「荒川君とは釣りという遊びで、真剣に勝負を楽しみたかったんだよ」


 少し寂しそうに言った師匠は、表情を引き締めると今度は経営者の口調で話し始めた。


「私はな、人材派遣という業種に将来性を見出しておる。ただの人材派遣業ではなく、専門性のあるプロ集団としての人材派遣だ。お主には元のグループ子会社へ執行役員として戻ってもらい、様々な分野の専門家を集めた新規の人材派遣事業に着手してもらいたい」

「え、え!? わ、私が人材派遣の新規事業ですか!?」


「ああ、頼むぞ。特に人材派遣業で大事と考えるのは、働く社員たちの頑張る気持ちだ。設備投資も流通革命もない人材派遣業では、社員のヤル気失くして生産性の向上などありえない。なあ? 多田よ」

「うぅ、……はい」


「荒川君、お主には共に働く社員たちへの思いやりがある。それを武器にしろ。いいな?」

「は、はい。でも、今回の件は自分では何も解決できていません。本当に私でいいのですか?」


「これは私の持論なんだが、人の上に立つのに一番大切なのは、味方を増やせる能力だと考えている。お主には、私だけでなく元の会社や出向先の会社にも仲間がいるのだろう?」

「ええ、ありがたいことに」


 俺の返事を聞いた師匠は、黒髪の美女をチラリと見てからゆっくり頷いた。

 どうやら、彼女が師匠に様子を伝えていたらしい。

 彼女が最近入社してきた理由がようやく分かって、妙にスッキリした。

 きっと、多田社長の横暴をあばき、人材派遣業の下地となる孫会社の下請け業務を守ると共に、新たな人材派遣事業に合う手頃な責任者を探していたんだ。


「荒川君、人は一人じゃ大したことはできやしない。大きなことを成すには大勢の力を結集することが肝要だ」

「篠宮副社長のようにですか?」


「いや、私などむしろ苦手だ。人の懐に入り込んで味方を増やせないから、逆に高圧的に接して従わせているだけだ。だがな、肩ひじ張らずに仲間を増やせる、それを可能にできる荒川君は、人の上に立ち大事を成し遂げる天賦の才を持っていると思う」

「まさか、私がそんな……」


「大体この私を味方にしたのだぞ。人脈というのはな、実力がなければ築けはしないんだ。そして今回の結果は、皆の協力を取り付けられた荒川君自身の実力だ。そのことに自分自身が気付くとよい」

「私など、ただ助けられているばかりです」


「まあ、謙遜もいいが、自分の長所を自覚して武器にすることを忘れるでないぞ」

「はい!」


 師匠はかっかっかと高笑いをすると、多田社長の方を向いた。


「さて多田よ。会社からお主への沙汰は来月出るとして、荒川君に何か言うことがあるだろ?」

「い、言うことですか……」


「彼は部長として会社の取締役へ賞与の進言をしただけだ。お前にとっては聞きたくない意見だったかもしれんが、会社のための進言なのに三ランク降格して左遷とは酷い。人格を無視した職権乱用だ」

「……」


「荒川君が自分を取り戻し、私の頼んだ任務を遂行するには区切りが必要ではないか? そして何より二十年来の友人として、私は彼に謝って欲しいと思っている」

「しゃ、謝罪ですか⁉ この私が、彼に⁉」


 社長が現場作業長に謝罪する。

 とんでもない展開に、この場に居合わせた皆が決して見逃すまいと注視した。


 だが、多田社長はどうしてもプライドが許さないのか、沈黙したままで固まっている。

 師匠の方も引くつもりがないのか、じっと多田社長を見据えている。

 むしろ俺がこの状況に耐えられなくなってしまい、口を挟んだ。


「師匠、もういいですよ。確かにこの数か月は人生で一番ツラかったですが、もう平気ですから」

「荒川君はこう言っているが、お前の度を越えたパワハラ行為が、落度のない私の友人を苦しめたことは変わらない。そしてトップである社長が自らの誤りを認められない限り、ハラスメントのない健全な会社にはなれないだろう。今ここで、謝罪するかどうかで社長としての進退が決まるな」


「そ、そんな……」


 多田社長は床にひざを突いたまま震えていた。

 彼にもパワハラだった自覚があるのだと思う。

 なぜなら、社長がこの謝罪を簡単に拒絶できず葛藤しているから。

 それは、単に師匠が感情により謝罪を求めているのではなく、明確に謝る理由があると自分でも分かっているからだ。


「ぐ、ぐぎぎ……」


 彼は声にもならない呻き声をあげた後、遂に口にしたのだった。


「す、……すまなかった」


 師匠が俺の方を見るので頷いて答えると、彼は白いあご髭を触りながら機嫌よさそうに笑った。


「さあ、多田はこれから家電メーカーへの謝罪で忙しくなるぞ。来月の取締役会までには無難に治めたいから、早速向こうで打ち合わせだ。石川工場長もついてきなさい」


 そう言って、師匠が杖を突きながら作業ルームを出て行く。

 その後をうなだれた多田社長と石川工場長が、とぼとぼとついて出て行った。


 黒髪の美女は彼らについて行かずに俺の前へ来ると、綺麗な姿勢でお辞儀をした後に笑顔で挨拶した。


「荒川さん、今までありがとうございました。私は元の職場へ戻ります」


 こちらも思わず微笑んで挨拶を返す。


「こちらこそ、ありがとうございました。お元気で」


 作業ルームを出て行く彼女を目で追いながら、副社長と冗談を交わせる親密さから専属秘書なのだろうと思い至り、妙な納得感があった。

 特別な立場で能力を発揮できる彼女なら、修理班であれだけ仕事ができてむしろ当然だと思えたからだ。


「よかったなぁ。これで元の会社に戻れるねぇ。こりゃ作業長の奢りで宴会だな」


 やっさんが楽しそうに手を叩いてニカッと笑った。

 抜けた歯の隙間のせいで笑顔が一層陽気に見える。


「部署が無くなると思ってドキドキしましたけど、荒川作業長のお話がちゃんと伝わってよかったですね」


 亜由美さんが目を大きく開いてニコニコの笑顔で一緒に喜んでくれた。

 下請け仕事が守れたことで、彼女の生活が守れて本当によかった。


「まさか、自分だけ元の会社で楽しくやる気じゃないでしょ? その新規事業、俺たちも一枚噛ませてくれるんすよね?」


 和田君はニヤニヤとたくらむ様な笑みを浮かべているが、そんな彼の気分が高揚しているのは見ているだけで伝わってくる。


 我々に偉そうに接した発注元の従業員たちは、少し離れた場所で気まずそうにこちらを見ていた。

 和田君たちからすれば簡単に許せる相手ではないだろうが、彼らもある意味被害者といえる。

 ならばいっそのこと味方にして一緒に頑張りたいと考えた俺は、作業フロアの全員へ向けて声を掛けた。


「皆、ありがとう! これから忙しくなるが頼りにしているからな!」


 これを境に俺の毎日は悲観に暮れて過ごしたのが嘘のように様変わりして、驚くほど多忙な日々へと突入していくのだった。


◇◇◇


「君たち二人、すぐにここへ来て欲しい」


 俺は、始業のチャイムがなると同時に、さっきからこちらを見てヒソヒソ話していた二人組を呼ぶ。


「事業部門長に呼ばれた! や、やべ、どうしよう」

「やっぱ、返り咲くほどの人は噂通り厳しいのか」


 無駄話をしっ責されるかと怯えた二人が縮こまって俺の前に並んだ。


「君たちの武器は何だ?」


「え、何ですか!? 武器? 武器って??」

「武器、ですか? え、えと……、急に言われても何と答えたらいいか……」


「ああ、二人だけに聞くのはフェアじゃないな。おーい、皆! 今から俺に皆の得意なことを教えてくれ。自分の持ち味だと思うことを人材派遣の専門開拓で武器にするんだ。自分の畑で戦うならきっといい勝負ができるぞ」


 突飛なことを言い出した俺に対して、皆が戸惑う表情を見せる。

 するとさっきの二人組が口を開いた。


「わ、私は事業部門長のことが気になります!」

「不死鳥と言われる荒川事業部門長は、一体何が武器なんでしょうか?」


 なるほどな。

 まずは俺の答えを聞いて、それを参考に無難な答えをしようと企んだか。

 だがな、そうはいかんぞ。


 俺は師匠の顔を思い出すと、軽い笑みを浮かべてから二人の問いに答えた。


「俺の武器はな……、君たち仲間だよ」


 それを聞いた部下たちは、それはないよと言わんばかりに困った表情を浮かべた。


 了

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社長に逆らって孫会社へ左遷されたことがある俺は、今では部下から不死鳥と言われている。 ただ巻き芳賀 @2067610

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