隣の神様はWeb小説家

一初ゆずこ

隣の神様はWeb小説家

 午前七時半の満員電車に、神様が降臨した。

 ストレートの黒髪を隙間風になびかせた神様は、俺の自宅の最寄り駅から三駅先の駅で乗車する。今日は白いワンピースに桜色の春物コートを合わせていて、歳は俺と同じ二十代半ばだろう。出勤時の顔ぶれは決まっているので、俺は彼女の顔を覚えていた。

 電車がトンネルに入り、車両に差し込む朝日が遮断された。正面の暗い車窓には、ロングシートの隅でスマホを操作する彼女と、隣で必死に平静を装うスーツ姿の俺が映っている。社会人三年目を迎えた四月に、こんな衝撃の事実を知るなんて思いもしない。

 ――間違いなかった。俺の隣にいるのは、Web小説家の水無月杏理みなづきあんりだ。

 隣に座った彼女のスマホを、横から覗くつもりはなかった。だが、視界の端に過った画面が、俺もよく利用している小説投稿サイトの『執筆』画面だったから、つい視線が引き寄せられてしまったのだ。

 彼女は文字を打っていて、横書きで綴られていく文章には、見覚えのある登場人物の名前があって――俺が連載を毎日追いかけている小説『青をさがさないで』の最新話だと悟るや否や、俺は首を痛めるほどの全速力で、ぐるんと顔ごと目を逸らした。

 ――世間、狭すぎる! そう叫びたくなる衝動は、理性を総動員して押しとどめた。隣で静かにスマホを操作する彼女、もとい神様は、今まさに神懸かみがかった面白さの小説の続きを書いているのだ。

 原稿が未完成の状態で、スマホに表示されたとうとい文字を読んではならない。隙のない推敲すいこうが施された完璧な次話が、小説投稿サイトに投稿されるときまで待ってみせる。それこそが読み専――自らは小説を投稿せずに、他人の創作物を読む専門の人間、すなわち俺――の矜持きょうじだ。

 トンネルがカーブに差し掛かり、車体が何度か微かに揺れた。それでも岩のように動かない俺の隣で、神様はスマホで執筆を続けていた。やがてトンネルを抜けて日差しが戻り、いつもの駅で彼女が先に電車を降りても、俺の心臓は太鼓のように打ちっぱなしだった。


     *


 帰宅した俺は、どぎまぎしながら自室でパソコンを起動した。

 水無月杏理みなづきあんりの連載小説は、毎日二十一時頃に更新される。この瞬間をスマホではなくパソコンの大画面で迎えるのが、俺のささやかな日課であり楽しみだ。

 果たして――今日も、更新されていた。いつもはわくわくしながら閲覧するのに、今日はやけにドキドキした。しかし、そんな個人的な緊張なんてどこかへ吹き飛んでしまうくらいに、水無月杏理の小説は、今日も最高に面白かった。スリリングな青春サスペンスの世界に引き込まれた俺は、感嘆の息を吐いて天を仰いだ。

 ――神様は、実在したのだ。更新されたばかりの小説には、俺が今朝うっかり見てしまった文字列と一致する言葉が散りばめられていた。

 水無月杏理は、Webで活動しているアマチュア作家だ。知名度はさほど高くないが、感情の機微を丁寧に捉えた文章は果実のように瑞々しく、界隈では商業デビューも近いのではないかと噂されている。俺にとっては神様に等しい存在だ。

 水無月杏理が生み出した物語たちは、いつだって俺を励ましてくれた。友人と喧嘩をした高校時代も、就職活動が難航した大学時代も、仕事で派手なミスをして心が擦り剝けたときだって、一日の終わりには神様の小説が待っているという生き甲斐が、俺を何度でも立ち上がらせてくれたのだ。そんな活力と高揚感を与えてくれた神様が、俺のすぐ隣にいたなんて、まるで夢を見ているようだった。

 この最新話の続きは、明日も通勤の電車で紡がれるのだろうか。遠足前夜の子どものような気持ちでベッドに入った俺は、奇跡の巡り合わせがもたらした興奮で目がえてしまい、羊を三百匹以上も数えることになった。


     *


 その翌日も、翌々日も、神様は電車で小説を書いていた。

 彼女が水無月杏理みなづきあんりだと判明してから気づいたが、神様は爪が綺麗だった。コートと同じ桜色のネイルは、車窓から見える桜並木を一気に身近にしてくれて、この春色が俺に彼女の正体を教えたのかもしれないと思うと、少しだけこそばゆい気持ちになった。

 車両内が混雑してから電車に乗る神様が、ロングシートに座れることは滅多になく、今日は左手で吊革つりかわを握り、右手でスマホに文字を打っていた。神様から離れたロングシートに座った俺は、極力そちらを見ないように努めつつ、陰ながら執筆を応援した。

 ――絶対に、俺は彼女に声を掛けない。そう固く決めていた。神様とお近づきになりたいなんて、そんな恐れ多いことは望んでいない。それに、神様の『青を捜さないで』というタイムリープを要素を含んだミステリー小説は、何者かの意思によって過去の世界へ飛ばされた主人公が、これから犯人の素性に迫っていくところなのだ。

 ――俺が彼女の正体を知ったことが、本人にバレてしまったら。凛と青く澄み渡った物語を、戸惑いのにび色に濁らせてしまうかもしれない。神様が、明日も明後日もその先も、健やかに物語を紡いでいけるなら、それが俺にとっての幸せだ。

 Web小説家の神様と、彼女にとっては名もなき一人の読み専。現在の関係を、俺は必ず守り通してみせる。こちらが一方的に彼女の秘密を知っている状況は後ろめたいが、毎晩の更新がいっそう楽しみになった俺は、幸せな日々を送っていた。


     *


 そんな毎日にひびが入ったのは、車窓から見える桜が散り始めた頃だった。

 いつものように吊革を左手で握った神様は、これまたいつものように右手でスマホを持っていた。

 だが、神様は文字を打たなかった。しばらくぼんやりとスマホを眺めてから、溜息をそっと零して、スマホを桜色のコートのポケットに仕舞っている。一連の様子をロングシートから見守ってしまった俺は、大急ぎで視線を外した。

 ――神様が、電車で執筆をしなかったのは初めてだ。

 筆が乗らなかったのだろうか。電車を降りていく神様の顔色がなんとなく優れなかったこともあり、この出来事は俺に小さな動揺を与えていた。

 それでも、帰宅してパソコンを確認すると、本日分の小説は更新されていた。『青を捜さないで』の展開も、いよいよ佳境かきょうを迎えている。主人公を過去の世界へ引き戻した能力の持ち主は、なんと幼馴染のヒロインだったのだ。巧みに張り巡らされた伏線に驚嘆した俺は、手に汗握る展開から目が離せなくなっていた。

 今日のことは、きっと気の所為だ。さらなる次話へと託された物語の余韻に浸ることで、俺は今朝の胸騒ぎをなかったことにしようとした。


     *


 その次の日も、神様は小説を書かなかった。

 今日はロングシートに空きが出たので、神様は俺の斜向かいに座っていたが、スマホを一度は握ったものの、結局は桜色のコートのポケットに戻していた。ロングスカートの膝に視線を落として、沈鬱な面持ちで時を過ごしている。

 これは、ただごとではない気がした。次第にハラハラしてきた俺のことなんてお構いなしに、電車は神様が降りる駅にたどり着くと、大勢のサラリーマンと共に通勤の波に押し流されていく神様をホームに残して、俺が降りる終着駅を機械的に目指して走り出す。俺と彼女の間に横たわる距離が、どうしようもなく開いていく。

 改札に向かう神様の背中が、最後に一瞬だけ見えた。覚束ない足取りが、不安を日増しに掻き立てる。見ないように気をつけても視界に入ってしまう姿からは、いつしか明るさが失われていた。そんなふうに感じて初めて、小説を書いているときの神様が、とても楽しそうだったことに俺は気づいた。

 車窓から吹き込む春風が、神様が去った車両に桜の花びらを連れてくる。神様がどんな顔で小説をつづっていたか、花の香りが記憶を鮮やかに蘇らせた。

 睫毛を伏せてスマホの画面と向き合う神様に、表情らしいものは見当たらない。けれど、ほんの少しだけ誇らしげに、口角を慎ましく上げていた。神様は、本当に、小説を書くことが好きなのだ。毎日追いかけている物語と同じくらいに尊いものを見た気がして、俺は神様の眩しさを直視できずに、目を逸らしてばかりだった。

 ただの読み専だったはずなのに、いつの間にかこんなにも、心が弾む理由が変わっている。初めて神様の小説を読んだときに感じたドキドキが、秘密を知ってしまった罪悪感と結びつき、そして今は一人の人間として、彼女が気になって仕方がなかった。


     *


 俺と彼女にとっての転機は、その翌日に訪れた。

 彼女は偶然にも、ロングシートの端に座った俺のすぐ隣に立っていた。彼女の左手は吊革を握っていて、右手は今日もスマホを持っていない。小説を電車で書かなくなってから、もう何日目になるだろう。それでも毎日の更新を続ける彼女は、どこかで無理をしているのではないだろうか。

 電車がトンネルに入り、車両に差し込む朝日が遮断された。日差しが再び車両に戻ってくるときは、彼女が降りる駅に着くときだ。陽光が消えたこの時間が、永遠になればいいのになんて、センチメンタルな願いを俺が抱いたときだった。

 カーブに差し掛かった車体が揺れて――彼女が大きくふらついたのは。

 桜色のネイルが、風に行き先を決めつけられる花びらのように、ゆっくりと吊革を離れていく。驚きで目を瞠った彼女の頬を、長い黒髪の一房が掠めていった。その姿は『青を捜さないで』で命懸けのタイムリープを決行したヒロインが、主人公の前から消えていく姿にどこか似ていて、気づけば俺の身体は動いていた。

 膝にのせていた通勤鞄を放り出して立ち上がり、遠ざかっていく彼女の手を掴んで、この世界に繋ぎ止める。名もなき読み専であり続けることを放棄した俺は、ついに自分で決めたルールを破っていた。

「あの!」

 声のボリュームのつまみが壊れたような、気合の入った大声が出てしまった。彼女はおろか、周辺の乗客たちも驚いている。ボッと火照った俺の顔は、会社の昼休みに激辛のカレーライスを平らげたときと同じくらいに真っ赤だろう。「えっと、その」と口籠もった俺は、もう後に引けないのだと腹をくくり、彼女に言った。

「ここ、代わります。座ってください」

「えっ……? でも、私、次の駅で降りますから……」

「いいから、その……少し、休んだほうがいいと思います」

 彼女は、言葉をつかえさせた。薄化粧を施した童顔を、トンネルの終わりから差し込む陽光が照らし出す。電車は速度を徐々に落とし、ホームへ緩やかに滑り込んだ。

 乗客たちが続々と電車を降りていっても、彼女は彼らに続かなかった。俺が空けたロングシートに腰を下ろして、動き出した電車に行き先を任せている。

 吊革を握った俺は、安堵が顔に出ていたと思う。見下ろした彼女も、なんだかホッとした顔をしていた。どこかへ消えてしまおうとしていたのに、それでいて誰かに引き留められる瞬間を、ずっと待っていたような表情に見えた。


     *


 終点の駅に着くと、俺たちは駅前の広場に場所を移した。

 身体の具合が悪そうな彼女を休ませたいという名目があれど、神様のように敬っている水無月杏理を、本来の目的地とは異なる場所に連れ出すなんて、以前の俺が知れば卒倒しそうなほどに大それたことをしてしまった。神様をかどわかした罪で天罰が下るかもしれないと半ば本気で思ったが、それでも彼女をあのまま行かせたくないという譲れない考えも持っていて、心臓の音がひたすらにテンポを速めていた。

 葉桜の木陰を選んでベンチに座ると、駅の自動販売機で買った紅茶のペットボトルを彼女に手渡した。彼女は恐縮していたが、すんなりと受け取ってくれた。

「ごめんなさい。何から何まで……あの、お時間は大丈夫ですか?」

「はい、まだ大丈夫です。あっ、申し遅れました。俺、こういう者です」

 とにかく怪しい者ではないということを証明したくて、会社から支給された名刺を差し出した俺は、挙動が不審だったと思う。鈴を転がすような彼女の声が、俺に向けられている現実が、今でも信じられなかった。この状況で名刺を渡されるほうが怖いのではないかと遅れて気づき、穴があったら入りたい衝動に駆られていると、彼女はくすりと柔らかく笑ってから、俺の名刺を受け取った。そして、ぱっちりとした目を瞬いた。

青位清晴あおいきよはる、さん?」

「はい。青色の主張が強い名前ですよね。初対面の方にはびっくりされます」

「ええ。驚きました。よく晴れた空のようなお名前だったから」

 彼女は長い髪を耳に掛けると、青い木陰でふわりと笑った。

「青色って、清々しい色ですよね。私、好きです」

「あ……ありがとうございます」

 好きですという台詞が、脳内でエコーする。俺自身のことを言われたわけではないのに、頬が明らかな熱を帯びた。彼女は真面目な顔になると、俺に頭を下げてきた。

「こちらこそ、ありがとうございました。だいぶ気分が良くなりました」

 彼女の気丈きじょう台詞せりふを、額面通りに受け取ればいいのかもしれない。俺も彼女も、大人なのだ。けれど、小説を楽しそうに書いていた彼女の顔を忘れられなかったから、お節介な台詞を返してしまった。

「本当に……大丈夫ですか?」

 彼女は少しの間だけ口をつぐむと、俺と話をする決心をしたのだろう。「実は」と切り出した声音には、今日の青空のような清々しさがあった。

「私、会社でのお仕事の他にも、真剣に打ち込んでいることがあるんです」

 どきりと心臓が飛び跳ねたが、彼女が控えめに微笑して「内容は、打ち明けたら笑われちゃうかもしれないから、あんまり言わないようにしています」と続けたから、胸がギュッと痛んだ。あんなにも心が躍る物語を書く人を、面白おかしく笑う人がいる。そんな残酷さが、我がことのように苦しかった。

「この春から、会社の人間関係が変わったことで、毎日を乗り切ることに必死になって、少し疲れてしまって……今はまだ、元気だった頃に用意していた蓄えがあるから、好きなことを毎日続けられます。でも、今の生活をこのまま変えられなかったら、私が真剣に取り組んでいることを、いずれ続けられなくなるかもしれません」

「それは困ります!」

 思わず、即答してしまった。彼女は、目を丸くしている。我に返って慌てた俺は、今度こそ覚悟を決めて、訥々と語った。

「えっと……俺、実はすごく大好きな小説があって」

 彼女が、瞠目どうもくした。葉桜から降る日差しの欠片が、琥珀こはく色の瞳を照らし出す。俺が全てを語る前に、彼女は全てを悟っただろう。漠然と、そんな予感があった。

「その物語の中で、主人公はヒロインの能力で、過去の世界にタイムリープをするんですけど、どうしてヒロインがそんなことをしたのか、いま読んでいるシーンで理由がわかったんです。――このままだと主人公が、事件に巻き込まれて命を落とすから、危険な未来を回避するために、ヒロインは何度も過去に戻って、世界をやり直していたんです。でも、ヒロインはただ未来から逃げているわけではありません。主人公と二人で幸せに生きる未来を、二人の力で選び取りたかったんです」

 俺は、彼女の目を見つめた。彼女が今まで俺に与えてくれた尊いものを、俺からも彼女に渡したかった。

「あなたが真剣に取り組まれていることも、めぐり巡って誰かを勇気づけて、幸せにしているんじゃないか……って。その小説を読んで支えられた俺は、思いました」

 木漏れ日の雫が、彼女の目元を輝かせる。綺麗な光を指で拭って「はい」と返事をした彼女は、互いの秘密には気づかないふりをしてくれた。そして、小説を執筆していたときと同じ笑顔で、俺の言葉にこたえてくれた。

「仕事のことは、これから考えてみます。今まで真剣に打ち込んできたことは、私にとってすごく大切で、大好きなことだから。続けていける道を、選んでいきます」

 このときの俺は、目の前の彼女が神様だということを、一瞬だけ忘れていたと思う。何かを吹っ切ったような彼女の笑みに、心を奪われてしまっていた。

 ――連載小説『青を捜さないで』が完結したのは、それから三日後のことだった。

 主人公とヒロインが二人で選び取った未来は、胸がすくような青色が心にひろがるような、清々しいハッピーエンドだった。


     *


 午前七時半の満員電車に、神様はもう乗っていない。

 彼女と言葉を交わした日から、一週間が過ぎた。あれから俺は、彼女の姿を見ていない。別れ際の話しぶりから、仕事を辞めたのかもしれない。もしそうなら、彼女と電車で出会うことは二度とないだろう。

 寂しかったが、彼女は俺にとって神様だ。お近づきになりたいなんて、そんな恐れ多いことは元より望んでいない。それに小説投稿サイトでは、水無月杏理みなづきあんりの新連載が昨夜も更新されていた。彼女がWeb小説家をやめない限り、作者と読者という関係が、彼女と俺を繋いでいる。感傷に浸っている間に、電車は終点の駅に到着した。

 駅舎を出ると、五月の日差しが燦々さんさんと全身に降り注いだ。広場を囲む桜の木々で、若葉の新緑が萌えている。スーツに暑苦しさを感じる季節が、すぐそこまで迫っている。爽やかな青空の下を歩いた俺は、ふと驚いて立ち止まった。

 広場のベンチの一つに、水色のワンピースに白いカーディガン姿の女性が座っている。ストレートの黒髪が、薫風くんぷうにそよいだ。――彼女だ。彼女も俺に気づいて立ち上がり、以前よりも溌溂はつらつとした表情で歩いてくる。

「青位さん、おはようございます。驚かせてしまってすみません」

「おはようございます。お加減はいかがですか? 仕事も、あれからどうですか?」

 気が動転した俺は、矢継ぎ早に質問をしてしまった。はっと気づいて狼狽うろたえると、彼女は先日のように小さく笑って、「おかげさまで」と答えてくれた。

「会社は、今日までお休みを頂いていました。明日からは、異動で別の部署に行く予定です」

「そうだったんですね」

 道理で、電車で見かけなかったわけだ。先日の一件で俺が避けられている可能性も考えていたので、安堵で肩の力が一気に抜けた。彼女の笑みにはうれいがあったが、声音は毅然きぜんとしていて明るかった。

「会社の問題が解決したわけではありませんが、私自身が健やかに毎日を過ごすために、必要な選択だったんだなって、今なら分かります。変えられないと思っていたものを変えられて、なんだかホッとしました」

「……よかったです。本当に」

 彼女が自分のために未来を選べたことも、それを俺に報告してくれたことも。出会えただけでも奇跡だったのに、こうして再会できたことも。俺の言葉を聞いた彼女は、少しだけ寂しそうな顔をした。

「ただ、これから勤務先が変わるので、いつもの電車には乗らなくなります」

「あ……そうなりますよね」

「今日は、改めてお礼をお伝えしたくて、ここで待っていたんです。先日頂いたお名刺に載っていた電話番号は、お勤め先のものでしたから、連絡してもご迷惑になると思って。だから……」

 彼女はバッグを開けると、いつも執筆に使っていたスマホを取り出した。頬を桜色に染めて俺に微笑みかける表情は、小説のワンシーンのように美しかった。

「連絡先を、教えていただけませんか?」

 ――くらっと意識が揺れたのは、五月の陽気に目がくらんだからではないはずだ。ただの読み専だったはずなのに、まだまだこんなにも心が弾む理由が変わっていく。

 これから何度、俺は彼女にときめく理由を塗り替えられていくのだろう。俺も自分のスマホを取り出すと、虹色に煌めく陽光を浴びた彼女が、眩しそうに目を細めて、とっておきの秘密を打ち明けるように囁いた。

「こちらの自己紹介が、まだでしたよね。私の名前は――」

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