2

 悔しくて涙が出てきた。

 また泣いている。わかっている。私は強くない。

 私の細い二の腕はもう何度も涙で濡れて、その都度しわしわのシャツで拭った。

 誰に。何を。求めればいいんだ。

 将来なんてわかるわけないじゃん! 大人だってそうじゃん!

 選択しろって――なんでそんなこと言うんだ。


 泣きながら鞄を持つ。

 教室ではきっと逆風くんたちが待っている。

 私はこのまま彼らとバンド活動するんだろうか。

 彼らに、やっぱり無理だっていうんだろうか。

 結晶くんは好きじゃないのに入ったし。みちるちゃんだって無理する必要はない。勉強だって絵だって描ける。

 私に才能があるかもわからない。

 あったら先生の言葉を蹴飛ばせるの?

 音楽で成功とかできるの?

 わからないまま廊下のドアを開ける。


「あ――」

 思わず声がもれた。

 彼が――逆風くんが――背中を丸めて座っていた。

 一瞬、目が合う。

 泣いているの、ばれてる。

 気づけば鞄を放り投げた。

「ちょ、おい!」

 声がしたけど、気にしなかった。

 足が勝手に動いた。

 いまだけは話したくなかった。逆風くんを失望させるわけにはいかなかった。

 私の悩みを打ち明けたくなかった。

 視界が流れる。狭くなる。足の回転を上げる。息が上がる。

 おかしい。私、走り、疾い、はずなのに。

 廊下を曲がる。

 階段を上る。

 足音が近づいてくる。

 誰かわからない。いや、わかる。絶対、彼だ。

 逃げたかった。

 逃げ出したかった。

「待てや!」

 叫び声する。

 無理。絶対無理。

 不意に私の足が空を踏む。バランスが崩れる。

 階段の段差が視界に迫る。

 咄嗟に腕を伸ばす。角に手をつく。

 肘が曲がりクッションのように衝撃を抑える。

 危ない。

 息が続かない。

 立ち上がろうとする足が重い。

 逃げなきゃ。

 わかっているのに、体がいうことをきかない。スイッチが切れたように動かない。

 捕まる? 打ち明けるの?

 逆風くんといつまでいられるかわからない。私に才能がないかもしれない。

 でも、悩みを抱えるのは苦しい。話して楽になりたい。

 ――けど、それをいったら失望するかもしれない。

 前途多難。二律背反。涙腺崩壊。

 目を覆うと、腕をつかまれた。

 ぐいっと反転させられる。

「――また泣いているのか」

「うるじゃい……」

 うまく言葉にできなかった。泣き顔を見せたくなくて、腕で目を覆う。

「悩んでるなら話せよ」

「いい」

 濁った声のまま首を振る。

「なんで?」逆風くんの声が少しどもる。「約束したろ。部活の問題で教師に泣かされたら、それは俺の問題だ。俺が月下を誘ったんだからその責任は俺にある」

「……関係ない。私の問題だから」

「だったら俺の目を見ろよ」

 腕をつかまれる。逆風くんの乱れた前髪から両目に吸い寄せられる。

 困惑した顔。でも優しい眼の奥。

 困る。

 泣き止まなくなる。

「……だって、私、君の助けにならないかもしれない」

 呼吸が苦しい。

「初心者だし。音楽のことわからないし。才能ないかもしれない。頭もよくない。何ができるかわかんない。いつか、私が足枷になるかもしれない。走り以外に能がないもん」

「俺だって才能あるかわからねーよ」

「あるよ! 先生に聞いた!! 逆風くんの家族は音楽一家だって。本当ならそういう学校に通うはずだって」

 捕まれていた手が離れる。逆風くんの視線がそれる。

「まぁ、座れよ」

 肩を叩かれる。熱い手。

 スカートを押さえながら、泣いたまま座る。生ぬるい段差。ざらざらした床。

 腕の横で、服がこすれる音がする。逆風くんの熱が伝わる。



「月下に家のことを隠してたのは悪かった。俺は自分の家庭のことを他人に話したくなかった。有名だし面倒くさいし、変人ばかりだからな。根掘り葉掘り聞かれるとうんざりするんだ」

 それは、彼の家に訪れたときに、なんとなくわかってた。

「でも、月下を巻き込む以上、言う必要があったな。ごめん、いままで黙って」

「いい……。私の、問題、だもん……」

「――じゃあ、ここからは俺の問題」

逆風くんが膝を伸ばして、段差に背中を預ける。

「俺は父親や兄の道を行きたくなかった。比較されたくなかったんだ。それにクラシックは鉄板で不自由で――あ、俺の親父はその定石を壊して批難轟々だけどな――脱線した」

 ううん。

 かすかに首をふってみせる。

「邦楽がやりたかったんだ。こっちのほうが自由で、言葉や楽器の音が突き刺さるから。でも、日本の音楽は売れないし、CDバブルが崩壊してアイドルしか金を落とさないだろ。やる前から大変なのは覚悟している」

 不意に起き上がってこっちを見る。

「でも、やりたくなったんだ。いや、それだけじゃない。俺は音楽で世界平和を目指している。有名なバンドマンが音楽で戦争をなくすっていう夢を語ってたけどさ、そんな、ありふれて、でも到底不可能な夢を本気で叶えたいと思っている。たとえ野たれ死のうと、明日死のうと、その夢に飛び込みたい」

 逆風くんが目をきらきらしながら語った。

 戦争とか音楽とか、私に遠ざかったものばかりだけど、途方もないことはわかる。


「私はそれに見合っているかわからないよ……」

「馬鹿だな。無理に決まってるから面白いんだろ。こんな話聞いて、俺もやってやるって人間のほうがおかしい。そいつはただの能無しだ」

「いってること無茶苦茶だよ……」

 逆風くんは人懐っこい笑みを浮かべた。

「けど、これだけは言えるんだわ。

 音楽を知らない人間を音楽に引き込めなきゃ、戦争を止められはしない。音楽が好きなやつが集まったところで、そいつらが演奏して届くのは音楽好きだけだ。

音楽に興味なかった人間が、曲を作って演奏するから、無関心なやつらを引き寄せられる。俺はそれを信じてる」

「……だったら私じゃなくてもいいよね」

「馬鹿言うなよ」

 逆風くんがじっとこっちを見た。

 吸い込まれそうな瞳に、胸が熱くなる。

「将来金メダルを取れるような人間をこっち側に引きずりこんだんだ。そんなの奇跡以外ないだろ。明のことも結晶のことも、お前がいたからメンバーにできた。

 俺の夢は常識じゃ到底通じない。荒唐無稽で矛盾だらけの奇跡を何度も起きないと辿り着けない。だから、月下も俺の夢に付き合ってくれ。お前となら叶えられる気がするんだ」


 ――風が吹いた。


 熱い熱い風。涙も悲しみも吹き飛ばすような風が、胸の奥から噴き出してきた。

 あぁ、そうだ。

 不安だとか後悔とか、そんなのいらないんだ。

 必要なのは、自分を貫くこと。信じ切ること。それを邪魔するものは全部力業で突破すればいいんだ。

 肩が震える。頬が緩む。楽しさと嬉しさがこみあげて、泣き笑いする。

「ありがとう」

 もう迷いなんてなかった。後悔なんてするもんか。

 私は逆風を追い抜くって決めた。その自分を曲げちゃダメなんだ。

 彼のために、彼を超える。

 何度も深呼吸して覚悟を決める。

 何度も胸が上下して、固唾を飲んで、堅い床を指先でなぞる。その先にある、大切な人の手を、ぎゅっと掴む。


「お願いがあるの」

「な、なんだよ」

 ちょっと顔が赤い逆風くん。

 もしかしたら、きっと私も同じ色をしているかもしれない。

「曲の続きを一緒に作りたい。顧問になる最果先生を見返したい」

「顧問って、やっぱり決まってた――いや、そんなのはいいか」

 逆風くんはにぃっといたずらを見つけた子どもみたいに笑う。

反撃開始ストライクバックだ。度肝を抜かしてやろうぜ」

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