秘策

 お馴染みのジャージに着替える。

 履きならしたバッシュにつま先を入れる。

 アスファルトの上で準備運動をする。

 スマホの連絡ツールの文字を三度みたび見返す。

【準備をするから少し遅れる。 勝負は5時から】

 前の画面にスクロールする。

【きょうでピリオドだ。覚悟しておくんだな】

 キモイくらいにやける。

 負ける気がしない。

 もう絶対に無敵。あいつの最大の敵になってやろうと何度も決意する。

 いまなら三年生男子でも勝てる気がする。インターハイだって優勝間違いなしだ。

 走るのが嬉しくて仕方がなかった。ほんの少し、長距離部に戻ってもいいかもなんて甘い誘惑に駆られた。

 でも、絶対にしない。

 あいつの信頼を裏切るわけにはいかない。

 徹頭徹尾、私は私を貫くんだ。


 念入りに準備運動をして背を丸めてストレッチをしていると、制服姿の逆風くんがやって来た。

 おかしい。

 制服で来るのもそうだけど、背中にギターケースを担いでいる。

 何より、もう勝ったかのように笑っていた。キモイやつだ。

「準備ってそれ? もしかしてギター背負って走るの?」

 バカな発想だけど、彼ならやりかねない。逆風くんは奇跡を呼ぼうとする人間だ。何かの拍子で私の心変わりを狙っているのか。

 逆風くんは嬉しそうに指を鳴らした。

「今回は秘策を用意した」

 そういうと地べたに座ってギターを出す。

 以前見た、オレンジの光沢あふれる丸形ではない。

 瓢箪の形に、弦の奥に丸い穴が開いているやつ。尻尾にはコードを通す穴はない。

「これはアコースティックギターだ。作曲するときに使っているやつだ」

 言いながらギターを構える。

 まるで宝物のように手になじませ、弦を愛おしく撫でる。

 こっちをまるで見ていない。なんかもやもやする。

「昨晩、走っているときのお前を思い出した。足音のリズム。呼吸のテンポ。肺に吸い込む酸素の量。腕を振る幅――」

「ストーカーか!キモイわ!」

「いいから聞け、そしたらあるメロディが生まれた。おかげで俺は徹夜で一睡もできなかった」

 そんなのは知らない。でも授業中に寝ていたのはわかる。昼休みはやけに不気味だったけど。


「俺の準備は、お前に一曲聴かせることだ。ここから先はお前の運命を変えるルートだ。覚悟しろ」

「冗談!」

 やってみろ、という具合に逆風くんを見下ろす。

 彼は軽くボディを鳴らした。

 指先が弦を弾く。

 思わず息をのんだ。

 胸の琴線に触れる、白金みたいなきれいな音色だった。

 左の指が軽やかに弦の上を抑え、右の指の爪先が躍るように弾む。

 一音一音がくっきり形作っているのに、次の音色が階段を駆け上るように次々と浮かんでくる。高く、ときに低い弦の振動が心臓の鼓動に共鳴する。

 五本の指で一音ずつ鳴らしていた演奏が、長い余韻を残した後に、フォークソングみたいに一斉にかき鳴らした。

 逆風くんが目を閉じて声を上げた。

 透明感のあるきれいな声だ。

 さきのイントロが耳に残りながら――でもアップテンポで心をつかむメロディが頭を塗り替えていく。

『走り始めた 暁の歌 その鼓動が 加速する』

 高音が緩やかに流れ、ときに急落するその声が耳から離れない。

『最果てが呼んでいる』

 不意に逆風くんの指が止まる。喉から出た透明感のある声も閉塞する。

 なんで!?

 キュン、と弦を鳴らした後、逆風くんは笑った。


「それじゃあ勝負だ」

「嘘……」

 思わず漏れた。これも作戦なのか。

 なんなんだ!? 

 たしかにいい歌だけど、これでバンドに入ろうなんて思わないよ!!

 逆風くんは済ました顔でギターをしまい、脇に寄せた。

 私はもんもんするばかりだ。

 彼は何かをしかけた。それはわかる。

 でも私の決意は変わらないし、体だって万全。

 何かの催眠術? まさか、私の決意はそんな簡単なもので奪えやしない。

 わかることは、心臓が高鳴っていること。

 でも、その鼓動は、むしろ最高の状態に引き上げている。

 もしかして、私じゃなくて彼のコンディションを高めているの?

 まさか!?

 そんなので速くなったら一流選手なんていない!!

 ドキドキする中、逆風くんが隣についた。

「準備はいいか?」

「いつでもどうぞ」

「じゃあ、合図をいくぞ。3……2……1……。スタート!」

 いつもどおり逆風くんが飛び出した。


 全力疾走だ。

 背中がどんどん離れていく。

 お決まりの作戦。半周でペースが落ち、3周で抜き返す。

 奇跡なんて起きない。

 私はいつもどおり、むしろほんの少しだけ、腕を振って呼吸を深くする。

 アスファルトを刻むバッシュの音。

 吐き出す息が足音と重なる。

 流れる視界に、澄んだ風の音。


 なのに、世界の中心からギターの音が生まれ始めた。


「!?」

 戸惑いをよそに、音が私の世界を侵食する。

 軽やかで深いイントロが脳裏によぎり――それと同時に私の呼吸と重なり――次の音が流れて来る。記憶にない、音のような何かが、花火みたいに浮かんで消える。

 よくわからないけど。たしかにわかる。

 私の走るリズムと、ギターの奏でる音が一つになっている。

 聲が聴こえる……。

 

 彼の歌。

 透き通る声音。心地よいメロディ。刻まれる胸。


 なんだっけ。どんな歌詞だ?

『その鼓動が 加速する』

 音の世界にいる逆風くんが返事をする。その歌がずっと頭から離れない。

 あぁ、もう何なのだ、彼は!

 思わずにやける。いい歌だ。もっと聴きたい。この心地のまま走り続けたい。

『最果てが呼んでいる』

 次のフレーズが脳裏をよぎる。気持ちいい歌。素敵な歌。天才の歌。

 メロディが弾けて消える。息と足音が加速する。

 リフレインするボイス。お馴染みのコース。乱れていくペース。

 なんだなんだなんだ。

 わけのわからない感情が浮かぶ。

 もっと聴きたい。続きを聴きたい。教えてよ。イントロ《はじまり》もアウトロ《おわり》も。君の才能を知りたいんだよ。


 加速加速加速加速!!!!!!!

 呼吸が苦しいが知ったものか!!

 彼の背中が近づいていく。足取りは乱れる。心臓が痛い。

 手が届く! その背中のシャツを思い切り掴む!!

 彼の足が止まり、私の足も止まる。

 汗顔の逆風くんが不思議そうな顔でこっちを振り向く。

 私は満面の笑みを浮かべる。

「もういい! なんだっていい!! 教えてよさっきの続きをさ!!」

 にやっと笑い返される。

 ちくしょう、でも嬉しい!

「知りたいか?」

 息をぜぇぜぇ吐きながら訊いてくる。

「知りたい! もう何でもいい、降参! 称賛! 君の勝ち。だから――」

「まだ決まってない。続きはお前が作るんだ」

「~~~~~~~~~~~~~~」

 声にならない声を上げた。

 なんなんだ、なんなんだこいつは!!!!

 もう頭が馬鹿になってる。頭にきてバッシュを脱いで思い切り投げつける。

 身体からもろに食らった逆風くんが笑っている。

「後悔ないんだな?」

 息を整える。決心する。瞳を捉える。喉を動かす。

「音楽のこと、教えてよ。1から1000まで。絶対に君を追い抜いて見せるから!!」

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