震える舌

嵯峨嶋 掌

申す輿岳(こしだけ)

  前方に輿こしがある。いや、険しい山である。

 ……遠くから離れて眺めれば、乗り物の輿こしが地についたまま巨大化したようにも映る。雲がかった日には、細長い一筋二筋の雲のおびがその岳に水平にかかると、あたかも、輿こしの担ぎ棒のように見える。

 かつて、その山を、輿岳こしだけ……と名付けた者は、多分に詩趣ししゅに富んだ風流人であったにちがいない。

 ……その当時から、すでに、喋る山、もの言う山であったと伝わる。やがて、物言う山……〈申す輿岳こしだけ〉と呼ばれるようになった。



         ○



「ひゃあ、まいったまいった……」

 山の麓の里のおさあおい顔でため息をついている。

 いつものことである。

 そばにいる副里長ふくりちょうも、里長りちょうの悩みは知っている。個人的な問題ではない、この里全域に関わる重大な課題が横たわっていた……。

 つまり、にぎわいを創出そうしゅつする手段が何一つないのだ。


 ……じつは先代里長の時代、一つの光明がした時期がある。名産名物が何一つないこの里に、水がいたのである。

 それはおそらく幾星霜いくせいそうというと月と風と雨のうつろいのなかで、の上、平たくなっている部分にまった雨水が、目にはみえないごつごつとした岩層の隙間をつたい、下へ下へとみ出し、さらに大地の下層へと流れ導き、浄化され、ときに、大自然の神妙しんみょうこの上ないわざに洗われきよめられ、麓の集落のはしから十里ほど先(この物語の1里=約1km)のなにも育たない砂塵にまみれた乾地の窪みから突如とつじょとしてき出した……のである。

 熱水でも温水でもなかった。

 熱くもなく、さりとて冷たくもなく、あえて形容けいようするならば、人肌ひとはだのぬくもりに近く、一口ひとくち喉奥に注ぎおさめれば、数瞬せつな、この世のものとはおもえない香りがした。

『こ、これは売れるぞ!』

 先代の里長は、高らかに宣言した。

『このようなうまい水を……他郷、他村……いや遠く都にまで売りに行き、わが里の名を高らかしめん』

 嬉々ききとして先代里長は叫んだ。

 名物名産がなに一つ無く、飢饉ききんのときも砂嵐のときも大雨のときも、里人が肩を寄り添い助け合ってなんとか生き延びてきた里である。

 水を売りに行き、里の名を広め、なろうことなら交易と人材交流へとつなげたい……という先代里長の思惑おもわくもあった。いやむしろ、切望せつぼうした。

 さっそく、瓢箪ひょうたんや竹筒に水を詰め、若者七人を選別し送り出したのだった。

 ところが。

 ……この先代里長の企図きとは、早々に破綻はたんき目にった。

 それには理由がある。

 さまざまなさとで評判をることができ、当初、都でも行列ができるほど人気をはくしたのだが、第三陣、第四陣を里から送り出した頃には、他郷でも『おれたちの村の水のほうがうまいだにぃ』と、同じように人海戦術で屋台を出し大掛かりな演出で売り出したものだから、競争に負けてしまったのだ。


『じゃ、この里の美しい女子おなごを都へ送り出そう。屋台を買う金は無いが、女たちに通りで、笑顔を振りまいて宣伝してもらうのだよ』

 先代里長が思いついた新たな作戦によって、里の若い女子おなごたちは、水の入った瓢箪を、

「おいしい水です、一口のめば、極楽ごくらく……」

と、声を張り上げ、胸元をほんの少しばかりチラリと見せながら売り続けた。都の濁った水とは大いに異なり、うまくほのかにいい香りさえ漂うので、これはこれでたちまち大評判となり、水は売れに売れたのだが、すぐさまマネをする他郷むらが現れると、売上げはガタ落ちになった。

 さらに、まずいことが起こった。

 一度、都へ足を踏み入れた女子おなごは誰一人、里には帰ってこなかったのだ。

 大通りで娘らを見初みそめた富貴ふきの者らに、都に残れば、美しい衣服と飾り、珍しい菓子やし物、贅沢ぜいたく三昧ざんまいの暮らしをさせてやる……と口説くどかれたようであった。


嗚呼ああ、わが夢、破れたり!』

 ことの顛末てんまつを知った先代里長は、無念の形相ぎょうそうたたえたまま病床についた。これが先代里長の断末魔のこころのしんからつむぎ出された叫びであった……。


 やがて里人らの互選ごせんによって、新たな里長が選ばれた。

 いまの里長が……三十三歳の頃である。

 先代里長はの麓に手厚く葬られた。

 その山は……いつしか、里人たちの間で、

〈もう少しだけ

と、呼ばれるようになった。先代の口癖くちぐせ、『もう少しだけ……がんばろう』というこの世への口惜くちおしきおもいの重さを、共通の失敗体験として末永くとどめたいという里人たちの純にして義なる心情が根底にあったろう。

 それだけではなく、形状がどこから見ても山らしくないに対する怨みつらみというものもほんの少しは含まれていたにちがいあるまい。

『……もう少しだけ、てっぺんがキリッとしておれば、本当の山らしいのに……』とは、亡き里長の口癖であったはずである。

 それはそれとして、新たな里長のもとに新たな課題が出現した。

 文字どおり、出現という表現しか適さない出来事であった。

 先代のとき、都に居着いてしまった娘たちのが突然、里に舞い戻ってきたのである。

 いや、官警に追われてきた……といったほうがより正確であったろうか。

 その若者……は、まだ十五、六の歳であった。

 里の主立おもだった者を集会所に呼んだ新任の里長は、かれらの前で若者に事情をただした。すると、訥々とつとつとして若者は喋り出した。


 ・・・・・事情? ふん、笑わせるなっ。そんなもんないぞ。おれは、五年前、かあが亡くなって孤児みなしごになったから、生きるために、都で悪事を働いただけさ。ん……? 父親? そんなもん知るか! かあがおれを身ごもったら、いきなり、ポンと、ものでも投げ捨てるようにして屋敷を追い出されたそうだ。ふん、だ、か、ら、おれは、かあを葬ってからは、富貴ふきの家ばかりを狙って、蔵に盗みにはいったり、娘子むすめごをかどわかしたりしてきたんだ……。どうしてこのかあが生まれた里に逃げてきたかって? それは……捕まる前に、かあがいつもつぶやいていた、を一目でもいいから見たかった……うまい水も飲んでみたかった……それだけだ。官警に突き出すなり、煮るなり焼くなり好きにしろやぃ……


 ざっと話を聴いた里人たちは、すぐさま、この里で生まれた娘が先代里長の計画で都で水を売らされていたことを、昨日のごとく思い出した。

 だれもかれも目頭めがしらが熱くなった。

 ひそかにこの若者を里で引き取ろうと里長が言ったとき、誰一人として反論をげる者はいなかった。

 ところが。

 十日ほどは薪割りや芝刈りを黙々と手伝っていたこの若者の姿がき消えた。里人たちが気づいたとき、里のみんなが苦労して蓄えた銭財や食糧がごっそり無くなっていた。


「よし、総出そうでであいつを捕まえ、らしめてやるぞぉぉお!」


 里長の怒声には小枝を揺るがすほどの憤りのほかに、ほんの少しだけ哀しみの音調おんちょうも含まれていた。




 翌朝には若者は後ろ手に縛られ、この里固有のおきてによって裁かれた。

 すなわち、、いや、いまはの中腹の樹林のなかで、もっとも長寿の大木にくくりつけられた。おそらく、古昔こせきから、人身御供ひとみごくうを伴う祭祀さいきの場というものが、まさしくその山のその神木しんぼくであったにちがいない。

 あたりには独特のちていた。

 腐臭でもなく屍臭ししゅうでもない。

 どこかしらあまみのもとが含まれたの風が神木のいただきから根のもとへと一気に舞い乱れ、あらたにからみがあやしきいろどりを補填ほてんするがごとく名無き小虫ががさがさと底地をさまよう。

 百年ともう少しだけ前の時代まで、年祭の一つとして続けられてきたを捧げたてまつ儀式まつりの場でもあったろうか。

 神木のくぼんだ腹から伸びた徒長とちょうえだに尻を置いた若者は、両の手は太い枝元に縛られ、両脚は股を開かされ鎖をかけられた。神聖なる場であるだけに、かりに他所よそからやって来る旅人であっても見つけることは困難であったろう。



 異変は……その深更しんこうに起こった。

 月はない。

 ……里長は夢をみていた。

 が呼んでいた。

 岳があたかも背中についた虫を追い払うがごとくにくねくねとすっている。おそるおそる近づいていく。……すると、岳が泣いていた。その声を聴いた。確かに聴いた。耳をませた。何を伝えたいのか、告げたいのか……。さらに近寄った、はずである。聴こえた。やった。聴いたぞ。『変えてくれぇ』。岳はそう言って泣いている。なに? 一体、何を変えろというのか。何を言ってるのか、申しておられるのか……。

 さらにさらに耳を近づけた。

『もう少しだけ……この名を変えてくれぇ』

 そう聴こえた。

『“もう少し岳”? そんなヘンな名はいやだ、いやだ、大嫌だいきらいだぁ』

 確かに岳はそのように言っていた、言っておられた……。

 ハッとして、そのとき、里長は目が覚めた。

 めたはずなのに、耳元で、はまだんではいなかった。

 慌てて里長は立ち上がり、寝着ねぎを脱ぎ去った。外着をはおって表に出た。目の前に炬火きょかを押し立てた里人たちが群がっていた。

「どうしたというのだ? こんな夜更よふけに?」

「里長、聴こえませんか? が、ぼそぼそひそひそ、何事かを喋っていますぞ」

「おお、夢ではなかったのか?」

「里長、しっかりなさってください。わたしらも最初は夢だと思ったのです。でも、皆の衆も同じように聴こえます。それにしても、なんという玄妙げんみょうなる不可思議な声の響きでありましょうか」

「うん、まことに」と、里長もうなった。

 ……いや誰も本当に岳が喋っているなどとは思ってはいないのだった。

 たぶん、神木に縛ったあの若者が怨みつらみを吐き出しているのであろう。ところが、そのが、その響きが、そのこだまが……聴く者の深奥しんおうに届くやいなやたちまち魂を揺さぶり、あたかも神木そのものの声のごとくに感得かんとくし、思わずその場にひれ伏さざるを得ないような荘厳そうごんにしてかつ眩惑げんわくなる思いをき立てさせられてしまう……のだった。

「ひゃあ、そうか!」

 突然、里長は叫んだ。

 叫ばずにはいられなかった。

「やはり、あの夢は、お告げだったのかぁ!」


 一体、なにごとかと里人たちは里長の豹変ひょうへんぶりをいぶかしんだ。

「いや、決まった、つかんだ、うけたまわったぞ! われらの里の今後の目標を……!」

「里長、里長、そのように昂奮こうふんなさらず、もう少しだけ落ち着いて、もう少しだけ分かりやすく、教えてくださらぬかの」

 その疑義ぎぎは当然であったろう。

 おもむろに里長は咳払いすると、この里の百年のけいを定める……と宣言した。

 すなわち、をこの里の重要なる観光資源として位置づけ、岳の名をさらに改め、しかも、世にも珍しい山として、大々的に売り出すべし……と、里長は言った。

「ええっ? 再び、岳の名を変えるのですか?」

 そこが里人にはわからない。

「そうだ。夢で、いまの名は大嫌いだ、と、かように仰せであった……」

「・・・・・・・・?」(一同)

「それに、広く津々浦々つつうらうらに広めるには、もそっと詩情あふれる名でないといかん。な、そうであろう」


 すると、里長の娘が突然、へんな声で叫びはじめた。まるで、大きな問題を即座に解決してくれるような、そんな声であった。


「申す…輿岳だけ

「ん、もう少しだけなら、言われんでも、わかっとる」

「申す……輿岳」


 里長の娘は同じことを繰り返すだけだ。

「あ、わかった、わかっぞ」


 叫んだ里人の一人は、かつて都へ水を売りに行ったことのある者で、かれは里長の娘が何を言おうとしていたのか、即座に理解した。


輿こしですよ、輿、乗り物の輿。都から戻ってくるときにみた、お山は、まことに、輿のようでした。つまりですな、喋る……申す、輿の形をした岳……申す輿岳、とは、まさに、これからの時代にふさわしき名!」


 これを聴いた里長は飛び上がって喜んだ。

「なるほど、名案だ! ただ、あのだが、もう少しだけ、神々こうごうしく響くように、あの若者が居る位置から麓までの小枝をり風通しを良くし、さらにが音曲のように長く細く高く低く流れるように若者の発声を根本から訓練し直さなくてはならん。さあ、皆の衆、これから忙しくなるぞぉ、わが里の復興のための日々がはじまるんだぁ。皆の衆、もう少しだけ頑張ってみようじゃないか!」


 そのとき里人たちは、先代の里長の魂魄こんぱくが目の前の里長のからだに宿ったかとおもい、さらなる感動の波がどどっと押し寄せてきたのだった……。




          ○


 今日もまた……四方から大勢の旅人たち、家族連れ、富貴の者らが〈もう輿岳こしだけ〉を訪れる。

 すでに都では、〈申す輿岳〉のを聴いた者には長寿と繁栄がもたらされる……ともっぱらの評判である。嘘かまことか、誰にもわからないが、そう信じられてきたという事実こそが重要なのであった。

 しかも、〈申す輿岳〉のを聴いた者たちは一様にからだを震わせて告白するのだ。

『……申す輿岳のを耳にしたとたん、ぶるぶるっと躰がね、ぞくぞくっと躰がね、しゃしゃっと躰がね、こう震えてくるのさ……揺らされているような心持ちになるんだ。ん……? いや、申す輿岳が何を喋っていなさるのか、それは、わからない。もう少しだけ、はっきりと喋ってくださりゃいいんだが……。いや……でもな、わからないからこそいいんだと、いまは思うぜ。あのを耳にするだけで、そりゃあ、これまでのちっぽけな自分を恥じてしまうというか、もっと、あくせくしないで、ゆったりやっていこう……そんな気にさせられたんだ。まるでからだの中の邪気をはらってくれるようだった……ウソじゃないさ。みんな、同じように感じて神秘的な体験だったと言ってるぜ』


 もっとも、かれらの中には、里長によって送り込まれた仕掛け人も居たはずなのだが、それにしてもこの評判の熱気というものは、一生に一度は、

〈申す輿岳もうで〉

をしないとソンするような、そういう独特の熱さ、というものが含まれていたのであった。


 しかもその一方で。

 里の者らが、屋台をいて、村から村をめぐっては〈申す輿岳もち〉〈申す輿岳煎餅せんべい〉や〈申す輿岳みず〉〈申す輿岳こよみ〉などを売り歩いている。

 水を飲んだ百人が百人ともに、うまいと感嘆する。餅や煎餅せんべいのほうは、

『ん……? もう少しだけ、うまかったら言うことないのに……』

と、残念がる人もいるにはいるのだが、それでも売り上げはいっこうに落ちない。


 ところで。

 すでに六十の坂を越えた里長は、いまなおすこぶる健康であった。遠くの里まで出かけていって、依頼されたにぎわい創出に関する講演をこなす多忙の日々なのだが、これも、〈申す輿岳〉広報戦略の一貫だと割り切っている。

 それに。

 講演先の未知の村々で、いかにも出しそうな体格のいい、しかも素直そうな若者を見つけると、里長はそっと近寄っては、

『一生、飢えないで暮らせるいい方法があるのだが、どうだね、興味はあるかね。若い乙女おとめ大勢おおぜいいて、わくわくそわそわしてきみを待ってるし……』

と、相手の耳元で意味ありげに囁くのだった。

 

                ( 了 )

 

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震える舌 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens

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