第16話 透明人間にはわからない

 いい加減に人間であろうとしてしまう自分を否定せずにいると、何か口にすることさえ億劫になってしまった。そんな人間未満の何者でも無い何かの元に、なぜか彼女はやってくる。


「泊めてよ」


 以前に見せたのとは違う、はっきりとした意思。行き過ぎれば横柄ともとれるその態度は俺に有無を言わせない。


「……ああ」


 彼女は返事を聞くとすぐにマフラーをほどき、ダッフルコートの肩に乗っていた雪を軽く手で払う。

 気付けば季節は十二月を迎え、それなりに冷え込む日が続いている。

 だが、今日のように雪の降る日はこの辺りでは珍しい。そのせいか、冬の夕方だというのにまだ外が明るく見える。


「日暮さん、お風呂借りるよー」


 俺の返事も待たず、風呂の戸を開ける音が聞こえてくる。

 こんな状況にあっても、俺を何者かとして扱う彼女の事はどうにかしなければならない。

 他に物音は無く、部屋にある音は風呂場のタイルが水をはじく音のみだ。以前ならその音に何か思うこともあっただろうが、今は何も無い。

 少しして、シャワーの音も止み、再び風呂の戸がガラガラと音を立てる。それから、聞き覚えの無い音が耳に入り、また自分への嫌悪が加速する。

 ドライヤーが無いこと、それを彼女が必要としていることに、なぜ気付けない? おそらく何も言わずに持参しているのだろう。なぜ気を使わせてしまう?

 考えれば考えるほどに、自分の至らなさが浮かび上がってくる。

 何が「与える」だ。彼女の方がよっぽど俺に与えてくれているではないか。


「日暮さん、めっちゃ顔怖いよ? だいじょぶ?」


 聞こえた声にハッとして顔を上げる。

 いつのまにか脱衣所からでてきていた彼女は、座り込む俺に目線を合わせて心配そうな顔で首を傾げている。


「ああ、問題ない。それより、何か食べるだろう? 俺が作る」


 立ち上がりながら、取り繕うようにそう言う。「あ、うん」と彼女が返事したのを聞くと、俺は早足で台所へ向かった。

 その途中で一瞬視線を送ると、スマートフォンに目を落とす彼女が見えた。

 作ると言っても解凍した魚を焼くことと、インスタントの汁物に湯を注ぐことぐらい。

 ものの十分ほどで夕飯は出来上がった。


「できたぞ」

「ありがとー日暮さん。最近ちゃんと食べてる? また作ってあげよっか?」

「別に、いらない」

「何それ? アタシだってちょっとは料理できるようになったんだからね」

「そうか」


 ただ相槌を打っているだけで、彼女はコロコロと表情を変える。

 よくも話題が尽きないものだ。なんにしても、こうして自ら生み出す力がある人間こそ生きている価値があるのだろう。

 片づけまで終えると、俺自身もシャワーを浴びた。

 久しぶりにちゃんとしたものを口にしたせいで腹の奥が重い。

 大家さんの所へ布団を取りに行くのも彼女にとってはもう慣れたことで、今日も同じ布団が二つ並んでいる。


「日暮さん」

「ん……?」


 スマートフォンの画面を眺めていたはずの彼女から突然声をかけられ、頭を大きくめぐらせる。すると、いつになく真剣な顔の彼女が目に入り、反射的に体ごと向き直った。


「……やっぱいい」

「そうか」


 以前なら、少し前の俺であれば、向けられた彼女の寂しげな顔を見て、何か声をかけてやることぐらいしただろう。彼女がやめた話の続きを引き出そうとしたことだろう。

 今、そうする権利が俺には無い。

 見えない俺と、見える彼女に運命的な物を感じたことは否定しない。

 しかし、俺は人間足りえる条件から一つ奪われていて、彼女は一つ授けられている。

 つまり不足しているのは俺の方だけで、彼女が俺を切り捨てたとしても元に戻るだけ。むしろ、俺が見えることは彼女にとってのマイナスになってしまっている。

 だから少しずつ、自分をより透明に、希薄にしていく。

“日暮透”という存在を彼女の目の前から消して、無かったことにする。


「アタシもう寝る……、おやすみ」

「ああ」


 できるだけ受動的に、話は受け流す。そうやって、居てもいなくても変わらない存在へと自分を落とし込んでいく。

 透明も超えて、空気と自分とを一体化させようとする。

 部屋の電気を消すと、布団に潜り込んで目をつむる。隣から聞こえる寝息も、自分の呼吸の音すらも耳から排除していけば、眠りの渦が全身を取り囲んでいく。

 そうして、また今日と変わらない朝を迎えてしまうのだ。


 ***


 何かの匂いが鼻をついて、久しぶりに朝日が差している内に目が覚めた。

 上半身だけ起こしてその匂いの原因と思しき方へ顔を向けると、閉まりきっていないドアの隙間から揺れるポニーテールが目に入った。

 ゆっくりと立ち上がると、引き寄せられるように匂いのする方へ歩を進めていく。

 一歩進むたびに寝ぼけていた頭が冴えていき、途中で足が止まった。

 彼女に近づいて、俺はいったい何をしようとしていたのか。

 匂いの元を確かめようとしている、それもそうだ。だがそれは建前で、本音は彼女と何か話そうとしていたのではないだろうか。

 ……彼女を突き放すのは、すでに決めたことだ。

 思考できなければその程度の事もできない自分に、苦笑すら浮かばない。

 ひとまず、冷静に自信を省みることができたので回れ右。布団を畳んで押し入れにしまうと、ちゃぶ台の近くに腰を下ろした。

 しかし俺自身が起きてしまったことに変わりは無く、耳ざとい彼女は畳の擦れる小さな音を聞き逃さなかった。


「あれっ? 日暮さん起きてるじゃん。おはー」

「……おはよう」


 何を作っているんだ、と流れで出そうになった言葉は咳払いで隠す。

 しかし、エプロン姿の彼女は心の内を見透かしているのか、ジッと俺の方を覗き込んでは口を開く。


「なあこれ。気になったよね?」

「あ……? ああ、まあ」


 詰まりながら、どちらともとれる簡単な返事でその場を濁す。そして彼女はそれをある程度好意的な返事だと見たのか、嬉しそうに俺の手を引く。

 正直、久しぶりに嗅ぐ匂いだっただけで、今はおおよその見当がついている。

 鍋の前に立つとより強い香りが鼻を抜けていく。落ち着く香りだ。


「へへ……、味噌汁作ってみました」


 少し照れくさそうにしている彼女の言う通り、出来立ての味噌汁が鍋の中で渦巻いていた。見る限り、ごく普通の味噌汁である。なぜ照れているのか。

 しかし俺の疑問をよそに、いつの間にか二つ用意してあった茶碗一杯に炊き立ての白米が盛られている。


「やからさ、ちゃんと朝ごはん食べよ?」


 ほとんど何も食べていなかったことはとうにバレていたらしい。

 食事を摂らなかったのは、面倒だったことに加えて、わかりやすく生への諦めを見せるには丁度良いと思っていたのだが、彼女には逆効果だったらしい。

 今のセリフなんかはもはや母親レベルである。


「ほら、ごはん食べてないからちょっと体薄くなってきてるよ?」


 ダメだ。まるっきり母親だな、これは。

 しょうもない事を言ってから自分で笑わないだけ、まだ救いようがある。と、心の中で勝手に折り合いをつけておく。

 そうこうしているうちに味噌汁も椀に分けられ、彼女に流されるまま、ほとんど強制的にちゃぶ台に座らされた。

 目の前には、汁物以外は昨日の晩と全く同じメニューが並んでいる。

 対面には昨日より少し大人びた印象の彼女が眉をひそめて座っている。ん? 眉をひそめて?


「日暮さん、さっきのは冗談だったんだけど……ホントにちょっと薄くなってない?」

「あ?」


 言われてなんとなく自分の手を見てみるが、透明なので見えるわけがない。つまり彼女の言葉を信じるしかないのだが、なんとも信じがたい。


「気のせいじゃないか?」

「そう……かな?」


 半分疑問形であるが、まいっか、と手を合わせるのを見て俺も手を合わせる。


「いただきまーす」

「いただきます」


 前方からの視線を感じて、なんとなく味噌汁から手を付ける。

 具材は豆腐とわかめ、俺が一番好きな組み合わせだ。

 味の濃さも丁度良い。


「どう? JKが作った味噌汁は?」

「まあ、うん……」


 美味いな、と続けようとして舌先でそれが止まった。

 それは彼女から離れようとする俺の理性ではなく、今しがた聞いた言葉に覚えがあったからだ。

 どこで聞いた、いや、どこで“見た”?

 それを考えているうちに時間は過ぎ、声は出なかった。


「……何しても、わかってくれないんだね」


 訪れた静寂に、声が耳の奥で響く。

 チクリと心臓を刺されたような痛みが走る。

 自然とうつむいていた顔が反射的に彼女の方を向いた。


「これ以上、アタシはどうすればいいの?」


 彼女の表情は、悲しんでいるようにも怒っているようにも見えた。

 彼女は喉を震わせて、静かに言葉を紡いでいく。


「アタシにできることは、ほとんどやったよ? 日暮さんもわかってるでしょ? ううん、これでわからない方がおかしいよ。それなのに、アタシを突き放そうとして。全部わかってるんだよ?」


 次第に声の震えは収まり、代わりに彼女の目が潤み始める。


「また、何も言ってくれないんだ」


 口は開けることができる。だが、喉は下の方からきつく締め上げられているようで、息を吐くことすらできない。

 そんな様子の俺を見てか、彼女の目に浮かんだものは乾いて、視線は冷えたものになり始めている。と思えば、また怒りの色が浮かび、息を吸い込む音が聞こえた。


「日暮さんなんか……」


 ああ、俺はきっとこれで成し遂げることができる。

 ぐちゃぐちゃの感情を剥き出しにしながら切り出した彼女を見つめて、俺はある種の達成感を覚えていた。しかしそれと同時にズキリと、どこかで痛みを感じながら。


「日暮さんなんか、消えちゃえばいいっ!」


 言い放ち、彼女は部屋からいなくなった。

 また痛みが俺を襲った。今度はしっかりと場所がわかる。見えない自分の胸の中央をギュッと手で押さえ、苦笑いを浮かべる。


「これでいいんだよ……」


 自分に言い聞かせるように呟いて、痛みを抑えつけるために深呼吸を数回。

 ふと、視線を机の上に移す。

 目の前にある二人分の朝食は、とうに冷めきっていた。


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