君の青色

i & you

最後は笑顔で

 近所の海に、人魚が流れ着いたらしい。

 なんだか嫌な予感がした。

 クーラーの風を浴びたせいか、妙に背筋に寒気を覚えて、ブルッと身を震わせる。

 陽炎が揺らめくほどの茹だるような夏の暑さにげんなりとしながら、窓の外を眺める。

 ピンポン、と玄関のベルが鳴り、

「ほらいつもの」

「ん」

 新聞を片手に下げた父親からパスが回ってくる。

 インターフォンの前へと動く。

「こちらどうぞ明智探偵事務所」

「ふふっ、なら私はアルセーヌ・ルパンかな?」

「明智の宿敵は怪人ニ十面相だし僕が明智なら君は小林少年だよ。」

 ここでため息ひとつ。

「はぁ…まぁくるだろうとは思ってたよ」

「そう?なんでわかったの」

 心底意外そうな表情をする。

「だってほら、人魚」

「すごっ、何しにきたかわかったんだ」

「明智探偵だからね」

「まだやるの、そのくだり。探偵なら私でしょ」

「ふふっ、ふふふふ」

「ははっ、はははは」


 姫乃ひめの十六名イザナ。名前の通り16歳の少女。女子高生で(自称)、切り揃えた髪に一筋の青いメッシュが入っている。身長は僕よりちょっと低いくらい。三サイズは…モゴモゴ。僕も知らない。

 僕は五年前にこの島に引っ越してきたのだが、彼女も僕と同じ移住者なのだとか。詳しくははぐらかされてばかりだけれど。

「何ぼーっとしてんのさ」

 横からにゅっ、と野口英夫が突き出てくる。

 母親から。

「日が暮れるまでには帰ってきなさいよ」

「ん」

「それと、イザナちゃんに恥かかせちゃダメよ。コーヒーの一杯くらい奢ってあげなさい」

「はいはい」

「はい、は一回でいいのよ」

 まったく、と言って台所へ引っ込んでいった。この島に、高校生がコーヒーを出してもらえるような小洒落たお店なんてないのに。

「気をつけて行ってこいよ」

「ん」

「ははっ、そればっかだな」

 目元は新聞に向けたままで父親が苦笑する。

「いいじゃん、別に」

「ん」

 真似されるのは面白くない。

「んじゃあ」

 靴を履いて玄関の扉を開く。想像の数段上をいく熱気が一斉に襲いかかってきて、やっぱりげんなりする。

「遅いよ」

「ごめんね」

「別に、いいけど」

「ありがと」

「じゃ、行こっか」

「そうだね」

 島で一番高い位置にたつ僕の家。そこから人魚のいる海岸の方角へ向かうには───

「どこだっけ」

「何が?」

「人魚。」

「知らないの?」

「ふふっ、忘れた」

「あー…まぁ、君らしいといえばらしいよね」

「んー、とりあえず海までいこっか」

「そうだね。そこで聞けばいいし」

 二人並んで歩く。急な坂道にはどこにも影がなくて、だから二人とも痛いほど日の光に焼かれて歩く。

「ん」

 木の影になった、少し涼しく感じられる辺り。そこで、左を歩いていた彼女がおもむろに立ち止まり、右手を差し出す。

「なんかついてる?」

「んにゃ」

「じゃあ何」

「手、つなごっか」

「いいけど」

「わーい」

 ズボンに母親が入れてくれていたハンカチを取り出して、汗を拭う。それから、念入りに手も拭いて、

「はい」

「うむ、くるしゅうない」

「それはようございますね」

 僕の左手が彼女の右手を包む。力加減はいつもよくわからなくて、だからいつも、壊れ物を扱うように丁寧に触れる。

「もっと、強く握ってよ」

「初めてだね、そういうの」

「そういうの?」

「細かい注文」

「あー、そうかも」

 それから彼女は指を絡めてきて、

「でも、物足りないから」

 背伸びをして、どきりとするほど近くでそう告げる。

 汗に濡れた彼女は歳に似合わずどこか扇情的に思えて、僕は、まぁ有り体に言うと、

 ドギマギする。

 これは恋なのかもしれない、と思って慌てて首を振る。

 まだ未成年同士だし、仮にカップルだなんて噂が立てば、すぐに島中に知れ渡るだろう。

 だから、今はまだ、ただの───ただの、親愛の情ということで。

 何度となく浮かんでは否定した感情を、

 もう少しだけ、見ないふりをしよう。

 しばらく、手を繋いだまま───ドギマギとしたまま───坂を下る。

 磯の香りが少し鼻につくようになってきた辺りで、

「お熱いねえ」

 なんて近くを通りかかった若い漁師に揶揄われ、僕は慌てて手を離す。

 いや、彼女の方は指を絡めたまま、僕を引き止める。

「勿体ないじゃん」

「…っ、わかったよ」

 僕は不承不承、と言った体で手を握ったが、その耳は、その頬は、誰の目にも明らかなくらい真っ赤に染まっていた。

 漁師の彼は口元に軽薄な笑みを浮かべて、

 ピュー、とひとつ口笛を吹く。

 顔を赤らめつつも、今度は僕も、汗で少しベタつく手をぎゅっと握りしめた。

「あ、そうだ」

 僕の心のうちも知らずに、彼女は漁師の男に話しかける。

「なんだ?」

「人魚」

 彼女が言うと、あー、っとどこか気まずそうな、逡巡するような声をあげる。

 しばらくして、

「あー…あれは、やめとけ」

 口元の笑みは消え、

 先ほどとは打って変わった口調で忠告する。本気でこちらのことを心配しているような、考えたくもないもの、おぞましいものをみた後のような、苦虫を噛み潰したような。

 やはり嫌な予感に限って当たるんだなあ、と自嘲する。でも。

 彼女が行きたがっているのなら、仕方がない。知的好奇心の塊のような彼女は、僕がついていないとどこかへ行ってしまう。

 辛うじて彼女を社会に、この島に繋ぎ止めていられるような、そんな楔になると誓ったのだから。だから、僕も覚悟を決めないと。

「で、どこなの」

「だから…」

 しばらく双方は睨み合って───はいないのだが、そうしているように思えるくらい、険悪な雰囲気だった。

「…わーった、わぁったよ」

 先に折れたのは男の方だった。諦めたような、子供のわがままに付き合いきれなくなった大人のような。

「……サドハ湾の七十八海岸だ」

 サドハ湾はまさにこの坂を降っていった先にある。その七十八───砂浜と崖が隣接する危険な場所で、僕も子供の頃は立ち入りを親に禁じられていた。どころか、それ以来今まで一度も行ったことが、ない。

「ありがと、最初から場所言ってくれればいいのに」

「ちょっと、イザナちゃん」

「別にいいんだぜ」

 そう言って、男は僕の方へ歩み寄る。

 なんだろう。

「ミサキ」そう言って彼は僕に薄っぺらい封筒を押し付けるように渡す。

「なにこれ」

「お嬢ちゃんに飲みもんでも奢ってやりな」

「…大人って───」

「考えることは同じなんだよ、ミサキ。何より子供は大事だし、ましてや自分と仲の良い相手なら尚更、な。まぁ行き先だけが困ったもんだが」

 人の少ない島というのも考えものだ。

「仲がいいなんてそんなそんな」

「悪いよりマシだろ?」

「え?」

「冗談。気をつけて行ってこいよ。

 …行かせたくはないがな。

 ヤバいと思ったらすぐ引き返せ、わかったな。」

 軽口を挟み、冗談めいたことをいうが、けれど諭すような口調で、彼は僕を嗜めた。

「…ほら、お嬢ちゃんもう行っちまったぞ」

 みると、もう数メートルは先を彼女は歩いている。ポケットに封筒をグチャッ、と詰めて、慌てて彼女へ駆け寄る。

 ふふん、ふふっ

 彼女は上機嫌な鼻唄を歌う。

 その響きに心当たりはないけれど、でもそれは、どこかで聞いたことがあるような、奇妙な懐かしさを呼び起こす。

「ごめん、待った?」

「ううん、いいよ」

「ありがとう」

 彼女はまた、僕の手を取る。彼女の軽やかな足取りに僕も慌ててついていく。ホップ、ステップ、そしてジャンプ。水溜りにパシャリと思い切り突っ込む。

 透明な水が足首に撥ねて───

「ふふっ」

「ははっ、ははははっ!」

 二人で大笑いをする。濡れた足は心底心地悪くて、でもどこかくすぐったくて。この夏の暑さが少しだけ、マシになったような気がした。

 それはそれとして、靴下までぐっしょりだったので裸足になる。真夏なだけあって、熱されていた地面は火傷しそうなほど熱い。

 イザナの方を見やると、彼女もまた、その白くて小さな素足を地面につけて、

「あつっ」

 と同じことを言っていて、だから目があった瞬間、二人でまた笑う。

 そうこうしているうちに、目の前には大きな七十二の文字。七十八海岸まではもうすぐだ。いつのまにか海の近くにまで辿り着いていたようで、磯の香りが鼻をくすぐる。

「ねぇ」

「ん、なに」

「そろそろだよ」

「そうだね」

「楽しみだね」

「うん」

 もしさ───何気なく、ただの軽い冗談のような口調で投げかけられる問い。

 彼女の方をみると、ギラついた太陽を背にした彼女はとても───眩しくて、少し目を背ける。

 「ううん、なんでもない」

 少しだけ寂しそうに微笑む。

 彼女の言おうとしたセリフは、口に出さずとも───わかる。


 もしさ、人魚の肉。

 食べれるなら───どうする。


 それは───つまるところ、食べて不老不死になる、ということか。

 人魚伝説なんてもの自体が不確かなものではあるけれど、人魚といえばセットになっているのは不老不死。

 ───夢が叶うのなら明日死んでもいい。いつ死ねるかはわからないけどね。

 彼女が口癖のように呟く言葉。

 いつ"死ねる"、か。

好奇心旺盛なのはとても好ましいことだが、その心のせいでいつか取り返しのつかないことになってしまいそうで、怖い。

 人魚にでもなれたら、彼女は───いつまでも生き続けてくれるのだろうか。

なんて不吉な想像はやめにして。

 けれど、彼女の夢は、一体なんだったんだろう。

 彼女の顔を見る気にはなれなくて、だから漁師の彼からもらった封筒を開く。

 綺麗に二つ折りにされた1000円札が1枚。その間に、紙切れが挟んであった。


 ・「彼女」はどこからきたのだろうか。それを島の誰も知らないのに、島の誰もが

「彼女」を知っている

 ・「彼女」と人魚の関係は?

 ・に  不  な  ?


 最後の方は字が歪んでいて読めなかった。

 なんのために、この手紙を僕に?───忠告

 書いたのは誰だ?───おそらくは彼か。

 じゃあ、最後の文章は不老不死、とかかな。

 「彼女」というのは。勝手に人魚といえば女性というイメージがあるけれど、別に男の人魚がいたっておかしくない。人魚との関係、と書いているのだから「彼女」は人魚ではない。じゃあ一体───

 あ!!

 という声が聞こえて、慌てて僕はその方向を見る。すると、砂浜の方へと彼女は駆け出していた。

 看板にはサドハ七十八の文字。

 浜辺には、まるで人払いをしたかのように思えるほど───誰もいなかった。

 いいや、それは少しだけ、違うのかもしれない。ただひとつ。

 砂の上に、美しい死体が上がっていた。全身が水に濡れ、既に動かなくなっていて、けれど瑞々しさは失われず生きているのとみまごうばかりの肌が露出している。その点を除けば恐ろしく───。

 恐ろしく彼女にそっくりの───

 僕は彼女の方を見る勇気がなかった。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がして、手紙の文章を思い出す。

『彼女はどこからきたのだろうか』

 海から、が答えなのか。

 彼女の方をおそるおそる見やると、彼女はそのそっくりな死体のもとに跪いていた。

 神聖な物に触れるようで、そして恋人に触れるような手つきで、その額にキスをして──

 ごめんね

 僕の聞き間違えでなければ、そう呟いていた。

 やっと───

 彼女の透き通るような青い瞳が、潤んだように見えた。そうして───疲れたような、取り憑かれたようなふらふらとした足取りで、崖の方へと向かう。

 やっと───やっと終われるんだ

 そうか、彼女の夢っていうのは───。

 僕は彼女を止めることができなかった。

 待ってくれ、危ないだろ、なんて言葉は白々しくてこの場には決してそぐわないのだ、と何故だかはっきりと理解していた。僕は傍観者であって、これは彼女の問題───彼女の物語なのだとそう知ってしまった。

 だから、僕が何もできないでいる間に彼女は、あと一歩で海に落ちるという、その場所にたどり着いていた。

 トン、と地を蹴る音がして、崖の上から人影が───彼女の姿が消える。

 彼女は崖から海に飛び込む直前、僕の方を振り返って、笑ったのだ。安堵したような、救われたような安らかな表情を見た。青色をした一筋の髪が陽光に照らされて、それは一生涯忘れることのできないであろう美しさだった。儚くて、美しくて。言葉には表せないだろう。

 でも彼女の笑顔は、少し寂しそうな、そんな笑顔だった。だから僕は───その手を、掴んでしまった。

 水中に引き摺り込まれる。海の中は透き通っていて、差し込む日の光がキラキラと水面を照らす。近くを通る魚は、まるで彼女を祝福するかのように優雅に舞う。

 こっちを向いて、「なんで」とばかりに心底驚いた顔をする。心から笑う彼女はどうしようもなく綺麗で───

 僕らは手を繋ぎながら、暗く冷たい海の中を共に落ちてゆく。どこまでも───どこまでも。






 参考/人魚。人面の魚。または上半身が人間───主に美女であることが多い───であり、下半身は魚である生物。世界各地で伝承が残る。ギリシャ神話において英雄オデュッセウスを惑わせた女怪カリュプソー、歌声で船を沈めるセイレーンなどが挙げられる。

 人魚の伝承は日本国内にも伝えられており、齢八百歳まで生きたという八尾比丘尼伝説などが挙げられる。人魚は不老不死の象徴としても扱われ、その肉を喰らうことで恩恵を受けられる、とも伝えられている。

 その一方で男を惑わせ破滅させる人外としての側面も持ち、ファム・ファタールの一種として扱われることもある。

 また、不死の伝説は───その死とともに語られることも多い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の青色 i & you @waka_052

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ