白々しい夢

南篠豊

第1話

 まっしろな場所にぼくは立っていた。

 どこまでも続く地平、果てしなく抜けた空、溶け合って判別不明な天と地の境界線。

 それが自分の夢の景色だとぼくは知っていた。

 現実のぼくは自室のベッドですやすや眠っていることだろう。

 夢のなかで立ち尽くすぼくの前に、やがて和紙に墨が滲むようにして真っ黒な誰かがあらわれる。

 いかにも不吉な登場をしたそいつはそう、悪魔だ。


「よう人間」


 漆黒のマントに身を包んだイケメン悪魔は、ぼくを見てニタリと笑う。


「どうだ。今日こそ俺と契約する気になったか」


 契約というのは、ぼくの願いを叶えて引き換えにぼくが死んだら魂をもらうとか、なんかそういうファンタジーにありがちなセールスだった気がする。

 

「悪くない話だろう? つまらない現実を想いのままにできるんだ。たとえ命と引き換えでも価値はある……」


「なりません!」


 イケメン悪魔がなにやら意味ありげにぼくの髪に触れそうになったその時、凛とした声が頭上から響いた。

 見れば、銀髪の美少女が宙に浮かんでいた。

 美少女は背中に純白の翼、そして輝く輪っかを背負っている。

 100人が100人天使だと指差しそうな彼女はそう、天使だ。


「騙されてはいけません人間。歪んだ力で幸せになろうとしても、あらぬ不幸を呼び込むだけです」


「やれやれ。また邪魔をしにきたか、天使よ」


 ぼくから離れ、悪魔はギロリと天使をにらみつける。のんきにセールストークをしている場合じゃなくなったらしい。


「当然です。それがわたしの使命なのですから。あなたこそ、また懲りずに人間をたぶらかそうとして。……どうやら仕置きが必要のようですね」


「ほう? 天使風情がずいぶんな口を叩くな。おもしろい」


 天使の手にどこからともなく金色の弓がおさまり、光の矢がつがえられた。

 対する悪魔は漆黒の鎌をどこからか取り出し、背中にバサリとコウモリのような羽を生やす。

 どちらも臨戦体勢だ。


「いいだろう。今日こそはその澄まし顔を屈辱の色に染めてやろうではないか」


「そのセリフ、そっくりそのままお返しします!」


 天使が力強く叫んで矢を放ち、悪魔がかわして自らも空中に舞い上がる。

 かくして戦端は開かれ、ぼくは暇になった。


「……さて」


 カキンガキンと激しい空中戦が繰り広げられている間に、ぼくは場を整える。

 まっさらな地面にズボッと手のひらをつっこんで、粘土のようにもぎって、それを念じながらこねこねするとあら不思議、大きなクッションの完成だ。

 人をダメにするクッション、などと巷で言われているそれにぼくは背中から倒れ込み、ダメになりそうな感触を堪能しながら激しい空中戦をぼーっと眺める。

 途中、天使が保護色で見づらいなあと思って背景を適当に塗り替えたり、ちょっと光が眩しいなあとサングラスを作ってかけたりもした。

 繰り返しになるが、ここはぼくの夢の中。クッションくらい好きに作れるし、その気になれば景色だって思いのままだ。


「これ、動画あげたらバズるだろうなあ」


 光の矢と黒い大鎌から放たれる斬撃がアニメや映画のバトルシーンのように乱舞交錯するさまは、とてもバエる。

 しかし残念ながらこれは夢の中の光景なので、現実のSNSにアップロードすることは叶わない。

 ところでどうしてぼくがこんなにのんきなのかというと、これが初めてではないからだ。

 30戦30引き分け。あのふたりの戦績だ。

 この夢を見るたび必ずどちらかがやってきて、追いかけるようにもう片方がやってきて戦う。おおむねそういうパターン。

 始めの方こそ驚いたし怯えたが、こうも数をこなされるとそういった感情も薄れてきて、むしろ自分がこの夢で何ができるのかに興味が傾いてくる。

 結果として、こうしてなんか色々できるようになった。

 そしてなんか色々やっているぼくに、あのふたりは大した興味を向けようとはしない。

 一方で、観戦を続けているぼくはあれこれと気づくようにもなった。


「クハッ、やるではないか天使よ! だが勝負はこれからだ!」


 ねえ悪魔さん。今の天使さん、間合管理ミスってわりと隙だらけじゃなかった?


「よく回る口ですこと! 今に黙らせてやります!」


 ねえ天使さん。今悪魔さんが手癖で振って外した大技、なんで咎めなかったの?


 ……という風に、どちらも手を抜いているというか、ギリギリでチャンスを見逃しているような節がある。

 一度や二度ならぼくの勘違いで済ませたけれど、ここ10戦くらい注意深く見ていたらそんな場面を山のように見つけてしまい、するとあるひとつの疑念が濃厚になってくる。


 もしかしてなんだけど。

 このひとたち、ひとの夢にイチャつきにきてる?





 ※




 数日後、ぼくはまたまっさらな夢の中にいた。

 ぼくがこうした夢を見るようになったのは中学校に入ってからだ。

 それから悪魔さんのセールスが始まり、天使さんもやってくるようになった。

 あるいは因果は逆で、悪魔さんと天使さんの存在がトリガーとなってこの奇妙な夢が始まったのか。


「ごきげんよう、人間。……おや?」


 考えていると、天使さんがふわりとやってきた。

 今日も今日とて銀髪美少女な天使さんは、ぼくへの挨拶もそこそこにきょろきょろとあたりを見回した。


「カ……いえ、あの悪魔はいないのですか?」


 今もしかしてカレって言いそうになった?

 ぼくはツッコみたい気持ちを抑えながら、まだいないよと答える。

 


「そうですか。先ほどたしかに気配を感じたのですが……いえ、いないのならいいのです。当然、いない方がいいにきまっているのですから」


 どこか自分に言い聞かせるようなその声に、隠しきれない落胆の色がにじんでいた。

 純白のワンピースのスカート裾をさりげなく整え、落ち着きなく美しい銀髪をいじり、ほうとかすかな熱を帯びたため息をもらす横顔……それが誰かを想う女の子のものだと思うと、超常的な存在の彼女も途端にいじらしく思えてくる。


「心配無用ですよ人間。あなたのことは今日もわたしが守りましょう」


「そのことなんだけどさ天使さん」


 気を取り直したように言った純白の存在に、ぼくは言う。


「守ってくれるっていうなら、ぼくを連れて行ってほしいな」


 天使さんの笑顔が凍り付く。

 端的な言葉だったけど、言いたいことは伝わったらしい。


「連れて、行って……?」


「天使さんと取引したいって話だよ。そうすれば金輪際、悪魔さんはぼくを相手に商売できなくなる。そうでしょう? もともとそういう話だったじゃない」


 そもそもの話、天使さんはべつにぼくの守護者というわけではない。

 どちらかといえば、彼女は悪魔さんの商売敵にあたる。

 

『肉の器を捨て、ともに存在の階梯をのぼりましょう。苦しみに満ちた下界から逃れ、一緒に本当の幸福を手に入れましょう。特別な魂を持つあなたならそれが可能です』

 

 というのが、天使さんが満面の笑みで披露したいつかのセールストークだ。

 悪魔と天使どちらも提供するものは似通っていて、代価として求めるのがぼくの魂というのも同じ。

 決定的に異なるのは支払方法だ。

 悪魔さんが後払いで、天使さんが先払い。

 どちらの方が良心的なのか悪質なのか、またぼくの魂のなにが特別なのかはよくわからないしどうでもいい。

 重要なのはどちらかの取引に応じた時点で、もう片方はぼくを口説きにくる理由がなくなってしまうという一点のみ。


「どうしたの? 悪魔さんがいない今がチャンスだと思うんだけど」


 黙り込んでしまった天使さんは、ぼくにうながされるとぎこちなく口を開いた。その声はひどく震えている。


「…………できません」


「なぜ?」


「取引したら、あなたは人間ではなくなってしまうからです」


「それでいいってぼくが言ってるのに?」


「わたしたちは……天使と悪魔は、異なる位相に存在する精神生命体です」


 脈絡のないようなことを、しかし深刻な表情で言い出す天使さん。


「通常、わたしたちが顔を合わせることはありません。出会う可能性があるのは、同じ人間の精神世界に介入したときくらいのもので……」


「うん」


「そ、それに、たとえ同じ人間の精神世界に介入しても、お互いがこれほど安定した姿で同時に存在できることはまれで……あなたの特別な魂が、特別強固な精神世界を構築しているからこそ現状があって……」


「だから?」


「……だからあ……!」


 涙目で顔を赤くしながら天使さんは叫ぶ。


「あなたが人間じゃなくなったら、カレと会えなくなるじゃないですかあ!!」


 もはや言い訳の余地なく、それは恋する乙女の叫びだった。

 それのなにが困るの? なんて野暮なことはさすがに言わず、かわりにぼくはトドメのパスをする。


「いいの? 天使と悪魔って、明らかに禁断の関係っぽいけど」


「知りませんよそんなこと! だって、だって!」


 一度あふれだして感情の制御がきかなくなってるのか、もはや駄々っ子のように銀髪を振り乱す。


「好きって想ったら、愛しいって感じちゃったら、もうしょうがないじゃないですかーーーー!!」


 その瞬間、まっさらな世界に罅が入った。

 ガラス張りの高層ビルが全面砕け散るようなけたたましい音を立てて、虚空に偽装していた壁が剥がれ落ちる。

 派手な演出とともに壁の向こうからあらわれた全身黒づくめのイケメンはそう、悪魔だ。


「……え? え?」


 現状を理解していない天使さんが呆然としている一方で、悪魔さんはいつものふざけ気味な態度が鳴りをひそめた表情でゆっくりと彼女に近づいていき、ぼくは無言で何歩か引いてそれを見守った。


「こ、来ないで!」


 混乱しているのか、弓をかまえ矢をつがえる天使さん。

 しかし、矢を向けられても悪魔さんはいつもの鎌を取り出さず、その歩みもまたゆるむことはなく。

 

「聞こえないの!? 来ないでと言って――――ぁ、」


 結局、自分を狙う弓矢ごと抱き寄せた悪魔さんによって、天使さんはあっさり唇を奪われ、制止する声すらも止められてしまった。

 最初こわばっていた天使さんは、けれどやがて弓矢を手放し、ゆだねるようにゆっくりとその体を弛緩させていく。

 

「…………あ、あの……ええと……?」


「ずっと迷っていた。けれど決めた」


「は、はい」


 唇をはなした悪魔さんは、まだ戸惑っている様子の天使さんに決然と言い放つ。


「おまえを愛せるのなら、俺は悪魔などやめてもいい」


「はい!? え、ええと……それは、それはまあ、わたしもまあ、そこまでおっしゃるのならまあ……ただその、あなたなんだかずいぶん傷だらけね……?」


「……そこは気にしないでくれ」


 気まずそうに顔をそらす悪魔さん。

 まあ、言えまい。

 まさか彼女が来るちょっと前、「ねえちょっと戦わん?」と誘ってきた人間に一方的にボコボコにされ、自分の秘めた想いを洗いざらい吐かされた挙句閉じ込められていたなんて、とてもじゃないがかっこわるかろう。

 何度も繰り返すがここはぼくの夢の中だ。たいていのものは造れるし、景色だって塗り替えられるし、たとえばそうした力をどう戦いに活かせばいいかも観戦してたっぷり学ばせてもらった。

 あるいはそれが可能だったのは、ぼくの魂とやらが特別だったおかげかもしれない。

 ……あと、ちょっと言えないけど、自己肯定感の高そうなイケメンを力づくで捻じ伏せるのはクセになりそうなくらい気持ちよかったです。てへ。


「おい。これで満足か人間」


 天使さんとひそひそ何か言葉を交わしてから、悪魔さんは不機嫌そうにぼくに言う。


「そうだね。これでもう、本音が言えない同士の茶番を延々見せられてやきもきしなくてもいいって考えたら清々しい気分だよ」


 おめーらよそでやれや、と何度言いそうになったことか。えらいぞぼくの忍耐。

 ふと、まっさらな景色がさらに白むのを感じる。

 それが夢の終わる兆しだとこれまでの経験から悟って、ぼくはお別れを言う。

 もしかしたら最後かもしれないと、そんな根拠のない予感も覚えながら。


「ふたりともお幸せに。とりあえず、人の夢の中でイチャつくのはもうやめなね」


「安心してください。それは二度とありえませんから」


 ぼくの皮肉にくすりと笑った天使さんの、なにやら意味深な言葉。

 ますます白んでいく視界のなかで、愛しい相手と寄り添いながら、とても晴れやかに彼女は別れを告げた。


「さようなら。また会いましょう、わたしたちのキューピッド」




 


 







 ……そして、本当にそれが最後だった。

 あれから十五年。あのまっさらな夢の世界を、ぼくは一度も見ていない。


「へええ……いや、なんというか……きみって昔はぼくっ子だったんだなあ」


 感想の第一声がそれかい、とぼく、いや私はテーブル越しに旦那をどついた。

 いかんいかん。思い出に引きずられてしまった。

 

「べつにいいでしょう一人称くらい。そういう年頃だったの。……まあ、信じる信じないはあなたの自由よ。与太話って思われてもしかたないし」


「ん? ああ、それは信じる。君、こんな凝った嘘をわざわざつくようなキャラじゃないし。ただ」


「ただ?」


「この話、ひとにしたのは初めてなんだろう? その相手が俺で、打ち明けたのが今だった理由はなにかなって」


 さすが私の旦那だ。私については勘が良い。


「私だけが悩むのはフェアじゃないなって思ったから、ていうのがいちばんの理由」


「うん……?」


「よそでやれ、とはさすがにもう言えないからさ。困ったもんよね」


「……???」


 あの夢が終わってからの十五年間、特別な魂とやらを持つ私の人生に、特筆すべきことは起こらなかった。

 中学を卒業して、高校で恋に破れて、大学で旦那……ただいま頭上いっぱいに疑問符を浮かべている人物……と出会い、結ばれて今に至る。

 絵に描いたように平凡だなあというひともいるだろうし、いやいやそれは十分幸せだしいろいろあったろと言ってくれるひともいるだろう。

 なんにせよ、少なくとも私自身はまあまあ気に入っている。

 が、しかし、ひとつだけちょっとした問題があって。

 

「はいあなた、めしあがれ。あーん♡」


「もぐもぐ……くはっ、きょうもうまいなおまえのりょうりは。ほら、おまえもめしあがるといい。あーん♡」


「あん、うれしい。おかえしにはい、あーん♡」


 その問題は旦那から視線を逸らした先、リビングのソファに腰掛けていた。

 わたし達のこどもだった。

 双子の姉弟だ。

 もうじき小学校に上がろうという年齢のふたりは、まあたいへん仲がよろしい。

 まるで前世は恋人同士でしたとでも言わんばかりに、今も糖度高めなおままごとの真っ最中だ。

 人様の夢の次は人様のご家庭で肉の器を得たふたりは、苦しみに満ちた下界でつまらない現実とやらをマックスにイチャイチャエンジョイしていやがるのだ。ところでおまえらが無限にあーんのラリーで食べさせ合ってるそのサンドイッチ、私の料理だからな?


「ふたりともずっと仲が良いよなあ。やっぱり双子だからかなあ」


 ……そんなわけで。

 呑気にかまえている旦那と一緒に、私はちゃんと話し合う必要があった。

 

 こいつら、ほっといたら行きつくところまで行くけどどうする? ――と。

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白々しい夢 南篠豊 @suika-kita

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