5話

 美夜に手を引かれながら暗い通路を進んでいくと、景色が開けた。

 目の前いっぱいに海が広がっているかのような大水槽だ。

 何メートルもある海藻が林のように茂り、イワシだろうか、銀色に輝く無数の小魚が渦巻いている。

 その脇をのんびりと浮かんでいるアオウミガメ。

 ゆっくりと体を波打たせながら泳ぐのはエイ。

 王者のように悠然と進むのはカツオの群れだ。

 下の岩場を見れば、穴にはウツボが潜んで大口を開けている。


 美夜はゆっくりと水槽のガラスに歩み寄り、うっとりとした様子で魚たちに見入る。

 青い水槽の光に照らされて美夜の姿も青い。生気が感じられなくて俺は不安になる。


 美夜は静かに言った。

「本当にきれい……」

「だよな……」


「お兄ちゃん、あたしね…… 一度だけでいいから……」

「……」

 光に溶け込んで消えてしまいそうな美夜が、まさか遺言みたいなことを言うのではないかと俺は息をのむ。


「あの魚……」

 美夜はカツオを指さす。

 俺はまじまじと見つめる。


「ねえ、お兄ちゃん、あたし…… あんなのを丸かじりしてみたい! きれいで、ビチビチしてて、本当に美味しそう!」

「はあ?」


 俺は頭を振る。ほっとするが呆れてしまう。

「美夜は食い気ばっかりだな! せっかくの水族館なんだから、もっと魚を愛でてやれよ」


 美夜は頬を膨らませた。

「愛でてるもん! 食べたいっていうのは好きなんだってことだもん!」


「そういう好きと、愛でるってのは違うだろ」

「お兄ちゃん、全然わかってない!」

 美夜は小さな拳で俺の胸をポカポカしてくる。わりと痛いので勘弁してほしい。

 まったくもってヴァンパイアの気持ちはよくわからない。


 そこにアナウンスが鳴り響いた。

「皆さま、大水槽にお集まりください。大水槽のご飯タイムが始まります」


 大水槽の周囲に大勢の人々が押し寄せてきた。大水槽の前にいた美夜と俺は、人々の波にガラスのすぐ側まで押し込まれる。


 大水槽の上から女性の声が降ってきた。

「みんなあああ、ご飯タイムの始まりだよおおお!」

 女性の声は重なっている。見上げると二人の少女が大水槽の上の台に並んで立って、手を振っていた。入口で出会ったルリとサンゴだ。二人はビキニの水着を着ていて腰にはパレオを巻いている。


 ルリとサンゴは声を合わせて元気に説明を始める。この大水槽にはどんな魚が住んでいて、どんなご飯を食べるのか。今からあげるのは大型魚のために用意した魚の切り身なのだという。


 サンゴが用意したバケツの中身をルリが柄杓ですくって、大水槽に投げ入れる。魚の切り身がばらばらになって水中を沈んでいく。


「さあ召し上がれ~!」

 ルリとサンゴが叫ぶ。しかし魚たちは見向きもしない。

 しばらく待つも反応がないのは変わらず、子どもの観客たちから不満の声が上がり始める。


「あれれ~? お腹空いてないのかな~?」

 二人はオーバーな動作で顔を見合わせる。遠目にだが、二人の顔はどうも本当に困っているようだ。なにやら小声で話し合っている。


 二人を見上げていた美夜がぽつりぽつりとつぶやく。

「じかんが…… はやすぎて…… さかなが…… おなかをすかせていない…… ショーにあわせて…… ごはんたいむをずらしたのは…… むりがある……」


 ヴァンパイアの美夜は普通の人間よりも感覚が優れている。上でルリとサンゴが話しているのを聞き取ったのだろう。


 美夜は俺の方を向いてにやりとした。

「いいこと考えついた。あたしをバカにしたお兄ちゃんに教えたげる」

「なに? どうする気だ?」


 美夜は返事をすることなく大水槽に向き直り、ガラスに両手を当てた。

 ガラスに美夜の姿が映る。両目が緋色に光りだす。


「おい?」

「ちょっと黙ってて」


 空気が震えだす。

 あちこちで静電気が弾けてバチバチと音が響き渡る。

 美夜の足が床から浮き始めた。

 なんなんだ!?


 俺は美夜を止めようとしかけたが思いとどまる。

 強い力が美夜を支えて浮き上がらせているようだ。そこでうっかり手を出せばバランスの取れなくなった力が弾け飛んでしまうかもしれない。


「美夜!」

 呼びかけに返事はない。


 美夜の両目が緋色に強く輝く。

 ガラス全体をビリビリと震わせながら緋色の光が広がっていく。

 大水槽の中にもその光は差し込む。あたかも美夜の目が捉えたかのように。

 大水槽を泳ぐ魚たちにざわりとした反応。動きが明らかに変わる。泳ぐ速度が上がり、狙い定めた動き。

 魚たちは水中を漂う切り身に踊りかかる。群がり貪る。

 新たな切り身が投げ入れられると、のんびりと漂っていたウミガメや穴にこもっていたウツボまでもが一斉に襲いかかっていく。


 ガラスの紅い輝きはゆっくりと失せて、美夜の足は床に着いた。美夜の目も普通に戻っている。

 だが魚たちはまだ争うように食べ続けている。激しすぎて怖いが、大水槽を取り巻く子供たちは歓声を上げて、ルリとサンゴも景気よく餌を投げ入れている。


「これは、なんだ?」

 俺の問いに、美夜は口角を上げた。

「お魚たちをご飯に魅了してあげた」


 魅了。その言葉を聞いて俺は思い出す。

 美夜がヴァンパイアになったとき、なんとか力になろうと思った俺はヴァンパイアについてあれこれと調べた。そして魅了はヴァンパイアが持つ能力のひとつだと知った。 


 ヴァンパイアは鏡に映らないという俗説がある。しかし実際はかなり違う。ヴァンパイアは鏡のような面に己のイメージを投影できる。鏡にそのまま映るのではなく、好きなものを映せるのがヴァンパイアなのだ。

 この能力を使ってヴァンパイアは相手を幻惑し、魅了するのだという。


 だが、美夜は半人前のヴァンパイアだからそんな力を持っていないものだとばかり俺は思っていた。使えるものなら俺に使って血を吸っていただろうから。

 その美夜が魅了を使っている。ヴァンパイアとしての力を増してきているというのか。


 美夜は自慢げに、

「あたしのすごさがわかったでしょ! 食欲だって自由自在なんだから!」

 言うや、美夜のお腹がぐうと鳴る。恥ずかしかったのか美夜は顔をこわばらせる。


 あちこちで子どもたちがお腹空いたと声を上げる。どうやら美夜の力は魚に限らずこのあたりにいた人間もご飯に魅了させたようだ。なぜか俺には効いていないみたいだが。


 人々は食堂へと移動していき、大水槽の周りは閑散とする。


「ありがとう!」

 後ろから声をかけられた。振り向くと、先ほどまで上にいた二人の少女だ。水着の上に薄いウインドブレーカーだけ羽織った姿は、滑らかで起伏に富んだ曲線美が露わで目のやり場に困る。


「魚がご飯を食べたくなるように、妹さんがなにかしてくれたんでしょう?」

 言ってくるのはポニーテールの子。確かこちらがサンゴだ。


「ほんと助かったわ~! ここの魚たちは朝にご飯を食べたがらないって言ったのに、ショーの都合で先にやってくれって言われてさあ。やっぱ無理だったから時間を元に戻してもらわないと」

 こちらのショートヘアの子はルリだったか。


「どうしてあたしがやったって思うの?」

 美夜が問うと二人は当然という顔をして、

「うちらも同類みたいなものだからねえ。魔力が使われたら感じるよ。ほら、人魚だからさ」


 俺は合点がいく。ヒト科のヒト魔族にはいろんな属がいて、美しい人魚属の話も聞いたことがある。

「ああ、双子の人魚姫っていうのはもしかして」

「そう、うちらの役。まあ、ほんとは双子じゃないんだけどねえ」


 美夜はきょとんとする。

「そんなにそっくりなのに?」


「同じ日に生まれたのがもう一人」

「あ、そっか! 三つ子なんだ! だったら三つ子の人魚姫をやればいいのに」


 ルリは少し肩を落として、

「三つ子だからって気が合うとは限らないんだよね」


 そこでサンゴが眉根を寄せて、

「ルリ姉、人様に言う事じゃないでしょう」

「ああ、ごめんごめん。まあ、血がつながってる家族もいいことばかりじゃないってね」


 美夜は怪訝な顔をする。


「ルリ姉…… そろそろ準備の時間よ」

 サンゴは姉の手を取る。


 ルリは、

「人魚姫のショーも観ていってね!」

 と言いながら、サンゴに引きずられて去っていく。

 最後にサンゴはぺこりと頭を下げて、

「さっきは本当にありがとう」と告げてから手を振りつつ通路の向こうに消えた。

 俺も手を振ってお別れした。


 美夜は納得いかない表情でつぶやく。

「血がつながってれば、なにがあったって家族なのに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る