第10話 歌川桔花の目線Part8

 体育館で、事態は静かに進行していた。

 今日は六月八日。学園祭公演まで、あと二日。

 よく練習に使う、放課後の体育館には演劇部のメンバーが一堂に介して、通し稽古を行っていた。雛見抜きでおさらいは進んでいく。私は、アルマンの演技をしながらも、マルグリットの演技も含めて一人二役をしていた。

 マルグリットの出てくるシーンはアルマンとの会話シーンがほとんどなので、どうしても配役はこうなってしまう。

 場面は最終局面に近くなった。今朝も雛見は寝込んでいた。熱はまだ下がりきっていない。


「---------------------------------」


 喉元が熱くなる。涙が静かに流れてくる。ああ。ダメだ。


「……う」


 これは。泣いてしまう。雛見が自分の身体のせいで、と悔しがる気持ちが、ただわかった。彼女はそれほどまでに演じることが好きなのだから。私だって、演じることがとても好きなのだから。彼女は最高の演技を常にしたがっていた。

 この記念すべき高校生活最初の初公演を。華々しくとまではいかなくても、上手に美しく。演じたかったはずなのに。美しくて気高いマルグリット。雛見とは全然違うタイプの性格だけど。それだからこそ、彼女は演じがいがあるとよく私に話してくれた。彼女は難しいからこそ演じることが嬉しいのだ。

 声がかすれてきた。がんばれ、と自分を叱咤する。がんばれ?がんばっても雛見と演技はできないのに?だめ、そんなことを考えたら。私は、演じるのが好きなのに。演じる事を愛してるのに。

 もしここに彼女がいてくれたら、きっともっとうまく演じるだろうと思うと、喉が詰まってしまった。

 彼女と比べるとなんと無様なのだろう。思わず声に涙がにじむ。

 雫が部長に心配そうに視線をやるのが見えた。部長も困ったような顔で唇を噛んだ。


『ふ、ふたりで』

『ふたりで旅に出ませんか?』


 アルマンの台詞すらうまく言えなくなってきた。

 と、その時。部長がこちらを見たまま、ぽかんと口を開けた。


「?」


『いいえ、駄目よ』

『二人とも不幸になるだけだわ。私はもう、あなたの幸せにはなれないわ』


 私は会長の見ている方向に目を向けた。体育館の入口に、小柄な影が立っている。


『でも、生きているかぎり、あなたを癒すために役に立ってあげるわ』 


 かぶせるように、私が代わりに言おうとしていたマルグリットの台詞を続けている。

 雛見が笑顔で手を振っていた。

 近い位置にいた会長が走っていって額に手を当てた。


「お前、治ったのか?無理してんじゃないだろうな⁉」


 私も大慌てで駆け寄る。雛見は姿勢よく立っている。


「ちょっとは私を信頼したまえよ。なんならアルマンの役もやってあげようか?」

「私の役をとらないでください!いや、そうじゃなくて……」

「私が昔から何回体調を崩してたと思うんだい?数えようと思ったら両手両足の指を出してもまだ足りないよ」

「自慢げに言うことじゃないですよ!だからこそ……」

「自分の身体のことだからね。この世で一番わかっているのは私だよ」

「本当ですか?無理していませんね!?」


 私が詰め寄る。きっと頭から溢れ出した心配が私の顔中を埋め尽くしていることだろう。


「うん。もちろんだとも」


 相変わらず雛見は余裕を崩さない。その余裕はいっそ頼もしい程だった。


「本当ですね。もし嘘だったら……」


 嘘でないことは途中で分かっていた。演技でもないことも。

 なぜなら彼女は、演技を嘘をつくために使ったことなんてないからだ。いや、違う。きっと使えないのだ。彼女は嘘ではない演技という技術を自分と観客を楽しませるためにしか「使えない」のだ。

 私は真剣に次の殺し文句を告げた。


「もう今後一切お料理作ってあげませんからね」

「それは困ったねえ」


 雛見は唇を尖らせた。


「ほら、触らせてあげるよ。私のおでこ」


 そう言って私の手を取ると、自分の額に押し当てた。ひんやりとした感触が掌に伝わってくる。


「さあ、通し稽古、私もまぜてくれたまえよ」


 そして、背伸びすると、私の頭を撫でた。安心感が押し寄せてきて、私は目尻に涙が溜まるのを感じた。

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