ネロにもゴッホにもなれない

晴田墨也

第1話

 芸術家らしく横暴なほうの光だが、その二日間の休みの取らせ方は出会ってから一番の強引さだった。奈帆自身に釘を刺すのはもちろん、学生時代からの友人で、仕事相手でもある剛やその上司達にまで連絡を入れ、何があろうとも絶対にこの二日間だけは休ませろ、とのお達しを周知させ、前日の夜もしつこく確認するほどである。

 顔見知りばかりだから苦笑いで済まされたとはいえ、一歩間違えれば束縛の激しいDV女だ。もちろん休みを得るのは奈帆に当然与えられた権利なので構わないが、何だってそこまで執着するのやら、とこちらが肩を竦める羽目になった。


 たかだか付き合って一周年である。フレスコ画家である光とモデル上がりのカメラマンである奈帆が出会ってからは三年と少し、同棲してからは半年ちょっと。まあ記念日に違いはなかろうが、休んでまで何かしたい祝い事ではない。そもそもケーキを食べるのも違うんじゃないのか、とも思う。

 そんな奈帆の思いなど気にすることのない恋人は、その日の朝一番、おはようの次にこう告げた。

「付き合ってちょうど一年だから、今日はお互いのことをもっとよく知ろう」

「……はあ」

「互いに質問をたくさんするんだ。日頃から気になっていること、今思いついたこと、何だっていい、全部正直に答える。あ、もちろん聞かれて嫌なことは答えないでもいい。それ以上は追求しない」

 ベッドから起き上がって早々告げられた台詞、それから楽しげに落とされた頬へのキスを、奈帆は「ああそう」と受け流すにとどめた。起きて数秒で芸術家の気まぐれに振り回されるのもだいぶ慣れている。

「とりあえず朝ご飯食べてから受けるか決めるね」

「えっ……受けてくれないのか……」

「持ち帰らせて」

「わかった……」

 顔を洗い、歯を磨き、朝食の用意をしながらぼんやり聞いたことを検討する。要するに、気まぐれな恋人の気まぐれなおねだりのひとつだろう。なぜだかわからないが、互いのことを知りたくなったらしい。何を今更、とも思うがそれも悪くないかと一人頷いた。同性だから法的な結婚は難しいにしろ、大人の恋は恋だけで終われない。添い遂げるとか何とか考えるのならば、互いのことを今以上に知る必要もあるだろう。

「いいよ」

「あ?」

 トーストにハムエッグを乗せて塩コショウを軽く振っただけの朝食を齧りながら答えたら、同じく咥えたばかりの光が首を傾げた。

「質問デー」

「あ。……いいのか?」

 断る理由もないから、と頷く。ただし、確認しておきたいことがひとつだけ。

「嘘はなしでお願い」

「んんー……」

 光が唸る。

「うっかり出るかも」

「嘘か本当か聞いた時は一回で正しく答えてくれる?」

「それはもちろん」

「だったら、いい」

 思えば互いの家族の話すらロクにして来なかった。主な理由は光にある。無意味な嘘をつく癖があるのだ。悪意もないからタチが悪い。聞くたびに両親の性格も兄弟姉妹の人数も変わるので、面倒になって聞きもしなくなった。本人も嘘をつく意味がないことを理解していて、そのうえで「つい」ついてしまうらしいので、仕方がない。もっとも、付き合いが長い人間相手ではちょっと聞かれただけで嘘である旨を開示してしまうようだが。

「じゃあ朝ご飯終わったら」

「ああ!」

 面倒な女を愛してしまったな、とは思わないでもない。が、この面倒臭さを疎んでも捨てたくないあたり、おそらく真実の愛とやらでもある。

 食事の後片付けを任せ、奈帆は紅茶を淹れる。三角形のティーバックを放り込んで三分、それから砂糖と牛乳を追加。こちらの手もとを眺めていた光が冷蔵庫の中に顔を突っ込んでいくつか調味料を持ってきた。シナモン、チョコレートソース、塩、胡椒。

「……シナモン以外は入れないよ」

「何だ、冒険心がないな」

「やるなら今度にして」

「はーい」

 さて、テーブルを挟んで向かい合わせ。

「じゃあ質問をどうぞ」

 面接じみた休日が始まった。


          ☆


「私の絵は好きか?」

「嫌いって言ったらどうするの。好きだけど」

「言われても変える気はないんだけど知りたかった。嬉しいぞ」

「うーん……あ、じゃあ私の撮り方はどう?」

「撮られる側の気持ちを意識している気配がする。労われながら撮ってもらっている感じがして嫌いじゃない」

「そう」

 いきなり質問をしろと言われても困るな、と思っていたはずなのだが、それは思いのほかスムーズに飛び出してきた。

「実際、きょうだいはいるの?」

「妹がいる。二つ下」

「同い年じゃん。紹介してくれればいいのに」

「私と似ているんだ。奈帆をとられたら三日くらい描けなくなりそうだから嫌」

「変に自信をなくすねえ」

「妹のほうが真っ当な人間だからな! 好きになるならあっちに決まってる」

 別に真っ当な人間だから好きとか嫌いとか言わないけど、と苦笑いする。

「私のことは好きだろ?」

「そりゃね」

「なぜ?」

 なぜ。それは難しい質問だ。奈帆は首を傾げる。

「きっかけは顔だろ?」

「まあ……最初は……」

「今は?」

「ちょっと考える」

「うん、考えてくれ」

 くるくるとだいぶ減った紅茶を掻き混ぜる光を眺めて考える。確かに見目は好きだった。つるりとした肌、ぱっちりとした大きな瞳は好奇心旺盛な仔犬のよう。手足は細く小作りで、これでよくもまあ漆喰など練っているものだと感心するくらいだ。けれども見た目が好きだというだけで恋人を選べるほど幼くはない。

「一目惚れはよくされるんだ」

 考え込んでいる奈帆をよそに、光がそんなことを言った。

「でも、だいたい長続きしない。こんな性格だから、まあギャップ? そういうので好まれることもあるけど、ほとんどの場合はみんな、見た目に反して嘘つきでどうしようもなくわがままで、虚弱でもなくどっちかっていうと迷惑をかけながら自分の芸術——うん、照れくさい言い様だが芸術、そいつを追求する、この、月岡光という人間を敬遠していく。誰だって迷惑はかけられたくない。さすがにかのフィンセント・ファン・ゴッホほど破滅的なことはしないが、彼が友人に愛想を尽かされたように、私もいつそうなったっておかしくはない気質の持ち主だ」

 少なくなった紅茶を飲み干して、空いたマグに砂糖を二杯入れる。そのまま牛乳をたっぷり注ぎ、光はまたくるくると掻き回す。

「友としてならほどよく面白い存在だと自負して、……いや、自負はしていないな。ごく一般的な人間なんだが。まあ、面白がってもらえることはそれなりにあるんだ。学生時代はそういう意味で、私にとっての黄金時代だった。今に至るまで親しくある良き理解者、良き友がすぐそばにいて、自分の芸術を自由に突き詰めていけた。今も自由にやっているが、やはり何だ、幻滅したという類の言葉を聞くことが多い」

 別段寂しげな声はしていなかった。舞台俳優が観客に向かってだけ心を開示するような朗々とした口振りで、けれどそれは現実の世界では、本来目の前にいる相手を対象に行われるはずのない独白だ。

「……だからまあ、告白しておいて何だが。今に至るまでそれを受けてもらえた理由がわかっていなくて、それがどうも気掛かりなんだよ。一つだけ解けなくて残したままの数学の問題集みたいに」

 なぜ君は私を愛してくれたんだ、と。いくらかの逡巡ののち、ようやくついた声の色は困っているようだった。愛されていない不安ゆえのものではない。愛されていることは理解している、けれど、それに紐付けられた理由が見当たらないことに戸惑っている。

「……ひとつ質問を返しても?」

「どうぞ」

「今日はそのために設けたのかな」

「まあ。隠す気はなかったぞ」

 けろっとした顔で甘ったるい牛乳を飲む光に「そう」とだけ返して考える。幼少期がどうだったかは知るよしもないが、この人はずっとそうだったのだろう。気になったことを放っておけない。元来、あらゆる事象は好奇心を満たした後に考えるような人間だった。

「……まあ、初対面で人の顔の火傷に触れてくるような人だもんね」

「ん?」

「何でもない」

「あ、最初の話か?」

「聞き流してちょうだい」

「え、だってこの火傷は君の甘いところの権化だろ。愛してると伝えていなかったか?」

 身を乗り出してこちらの顔を無遠慮に揉んでくる女に、奈帆は大袈裟に顔をしかめてみせる。モデルを辞めるきっかけとなった火傷は、色こそ少し薄れてきたとはいえ、未だ皮膚の感覚が他の部分とは違う。可愛い可愛い、と揉み込まれるのはちょっと複雑な気分にもなる。

「……もしかして、手先の細やかさに反比例してデリカシーがなくなってるのかな」

「その二つは相関しないだろ」

「そこが問題じゃない。わからない人だね」

 改めてほしいところはすぐ思いつく。脱いだ靴下をわざわざきれいにひっくり返して入れるのは干す時の手間が増えるからやめてほしいし、あらゆる飲み物に砂糖を二杯以上入れるのも健康のために控えてほしいし、味覚の革命と称して妙な味付けを試させようとするのもやめてほしい。ついでにわざと比喩を無視して揚げ足を取るのももう少し少なくならないものか。

 だが好きなところとなると、なかなかすぐに思いつかない。思いついたところで、芸術家としての顔ばかりだ。荒下地を投げつける時の楽しげな横顔、漆喰を塗り付ける時の真剣な眼差し、作品に対してはどこまでも真摯なところ。自分を芸術家と定義し、適度な逸脱を周囲に許容させながらも、仕事付き合いをするには不都合ない程度に「振る舞う」努力家であるところも、そんな皮を引っぺがして笑った時のくしゃくしゃの笑みも愛おしい。

 それらは全て、初めて出会った時から変わらない、素直な優しさの表れだ。


          ☆


 奈帆が光に初めて出会ったのは、モデルだった自分が撮影中の事故で顔に火傷を負い、カメラマンに転向して間もない頃だった。光は顔を合わせて数秒で傷痕に触れた。心配でも同情でもなく、「噂の真偽を確かめたかったから」という理由で。いわば単なる、好奇心だけで。丁寧な手つきで、「ふぅん、随分な傷だね」と頷きながら。

「おい、月岡!」

 光の友人であり、その時の担当ライターだった剛が慌てた声で止めるのも構わず、光はにっこり微笑んで言った。

「君の目から見た、これに関する真実は何だ?」

 子供のような不躾さに驚きこそ覚えど、多分、不快感はなかった。瞳に下世話な好奇心はなく、仔犬が初めて見たおもちゃに興味を示すのと同じ表情をしている芸術家の姿に、呆気に取られただけだった。それから、……こんなに真っ直ぐ切り込まれたことが嬉しくて、それかおかしくて、つい、肩の力を抜いたのだ。

「——カメラマンが足を引っ掛けて照明が倒れたので、咄嗟に後輩を庇ってしまったんです。それだけ」

 その答えを聞いて光は「そうか」と頷いた。

「逃げなかったのかい? 照明が熱いのくらいわかるだろう」

「可愛がってた子だったから。庇わないと、って前に出ちゃって」

「もう痛くない?」

「ちょっと違和感はありますが、何ともありません。見た目は派手ですけど」

「ふぅん。ね、触り心地がすごくいいな」

「えっと……そうですかね」

「うん。な、つーちゃんも触るか?」

「バカ!」

 思えばあの瞬間、光は間違いなく「わざと」社会人としての姿を取り繕っていなかった、というのは、彼女と恋人になってから剛と得た共通見解だ。

 だって、その素朴な疑問はむしろ、求めていても得られなかったものだから。

 誰だって華やかな業界で起きた悲惨な事件には興味がある。けれども「悪者」にはなりたくない。だからあの時、奈帆が撮影中の不幸な事故がきっかけでモデルを辞めざるを得なくなった時、誰もが「被害者」には何も聞かず、好き勝手な憶測で奈帆達を消費していた。それが安全だと誰もが知っている、もちろん、奈帆も。

 そんな中で、光だけがまっすぐ問うてきたのだ。活躍を妬んだ後輩がわざとやったことだとか、恨みを持った誰かの手によるものだとか、そんな無数の噂をすっ飛ばしてただ、奈帆自身の感覚を引きずり出そうとした。芸術家としての、「好奇心が先に立って人の心を念慮に入れることもできないどうしようもない人間」の姿を見せて。


 長く付き合ううちに、彼女が初対面の人間に礼儀正しく、ごく真っ当に振る舞えることは知れた(嘘は混ぜるようだが)。それから、学生時代の先輩がデザインした服のモデルをしていたことをきっかけに、モデルとしての奈帆を見ていたことも。

 あの日あんなことをしたのは、ある種の義憤だったのかもしれない。知り合いと呼ぶには遠過ぎるけど、ごくかすかな縁くらいは感じていた存在が、ほんの数ヶ月で忘れ去られる噂の餌食になることが気に食わなかったのだろう。

 だから本当のところ、奈帆もまた他の多くの人間と相違ない。見た目の愛らしさに惹かれ、中身との落差に驚き、秘された朴訥さを多分、自分だけに許されたと思った。それかきっと許されたいと思った、そんじょそこらの人間に触れさせることをしない魂のやわらかさに寄り添うことを、求められたいと願った。

「そうだな」

 だから、強いて言うのなら。芸術家としてのあなた、以外の理由を挙げるならば。

「君が普通の人間であろうとするところは好きだよ」

 自分の中の衝動を飼い慣らしながらそれを巧妙に外へ出すだけの狡猾さと、大事な人間に何もかもを繕いたがる優しさを持ち合わせた君が、好きだよ。

 そう告げれば、光は意外そうに瞬きをひとつして、小さく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネロにもゴッホにもなれない 晴田墨也 @sumiya-H

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ