8話 1-4


「そこな気味悪い老耄おいぼれよ、暫し待て」


 奴隷売り場の間に敷かれた残酷な境界線を、アルフレインは手枷のまま乗り越えた。

 彼はそのまま止まることなく、老商人ゴアテリの皺だらけの顔に、自分の鉄仮面を押し当てる。

 無礼者を引きがそうとする己の部下を、ゴアテリは後ろ手に静止する。面子を立てる為なのか、もしくはアルフレインの貧相な体を見て危険はないと判断したのか。何にせよ愚かな選択である。話の通じぬ狂人など、力で捩じ伏せてやれば良いのだ……っ。

 棺桶の奥で歯を軋ませるわたしを尻目に、アルフレインは老商人を見据える。


「お前は先程その幼子を『家畜・獣』とそうのたまった。……我の聞き違いでは無いな」

「何の間違いもありはせん。みすぼらしい文無しなど、家畜と言って相違無い」

「ならば我はお前に問いたい。人のなりをしたこの幼子がもし真に禽獣の類ならば、お前は一体何者なのだ」

「一体貴様は何が言いたい。儂をこの都一の大商人、ゴアテリと知っての狼藉か?」

「我が問いに答えよ老耄。お前は人か、それとも獣か」

「……誰よりも『人』だと、この都に住まう全ての者がそう言うだろう。もしそれを認めぬ者が居るのなら、いくら払ってでも黙らせよう。儂は、栄誉ある人間だ。異論は認めん」

「では、そこな幼子に問う」

 突如振り向いた鉄仮面に見据えられ、獣人の少女はびくりと震えた。大きな丸い瞳に涙を浮かべ、耳介をペタリと平伏せた。怯えている、明らかに。先程男達に股を開かされそうになった時などより、よほど。

「……なんなの、あなた、怖い。特に、お顔が」

「我が名は英雄アルフレイン。獣人の子よ、お前の名は何と言う」

「……セレンは、セレン」

「セレン。実に良い名だ」

 アルフレインが手枷のまま頭を撫でようとすると、獣人の子は後退りそれを避けた。尻餅のまま逃げ惑う少女が必死の形相を浮かべるのをまるで気にした様子もなく、アルフレインは問い続ける。

「あの皺だらけの老人は、お前を家畜とそう断じた。セレン、お前は本当に『人に非ざる者』なのか?」

「……むずかしい事は、分からない」

「ならば我はお前を殺さねばならん」

 先程まで幼子に目線を合わせ屈んでいたアルフレインは、言葉と共に体を立たせる。そうしてまるで追い詰めるよう、じりじりと矮躯に迫った。

 小さな尻を這わせ後退る獣人の子はいつの間にか出来ていた大勢の見物人たちの囲いへ追い詰められ、ついには目から涙をこぼした。

 顔中から流れる嗚咽のしずくを手枷で拭う少女には、全く同情したい気分である。アルフレインの狂気より怖いものなど、この世に一つと有りはしない。

「なんでっ、なんでお前なんかにっ、セレンが殺されないといけないの……!」

「我は英雄アルフレイン。人に非ざる者を狩り、世に光を齎す者である。……故に、お前が人の皮を被った化け物であるというのなら、我はお前を殺さねばならん」

「いやだっ! 死にたくないっ!」

「ならば答えよ、獣人の子セレン。お前は人か、ばけものか」

 狂気の目に追い込まれる少女はいつか泣くことをやめ、まるでこれまでの鬱屈を全て吐き出すかのような勢いで、港中に響く声を上げた。

「セレンは、セレンは人間だっ!!」

 ――なるほど分かった。

 微かに聞こえた声と共に、アルフレインはふらりと揺れて、倒れながら宙に浮いた。

 見事な一撃……というにはほど遠い無様な飛び蹴りを放ったアルフレインは、そのまま広場に倒れ伏した。無論その貧相な体の下には、先程まで杖に体を預け突っ立ていた老商人・ゴアテリの体がある。

「……お前は一体、何をしてくれたんだ?」

 震えるミケルの声音からは、深い絶望が窺えた。彼はやがて膝をついて崩れ落ち、力無く項垂れる。「終わりだ、俺の商人人生」。頬に一筋の涙を垂らしたまま、彼はぴくりと動かなくなった。

 それに同情した訳でもないが、わたしも一人ため息を吐いた。

 どうやらわたしもこの悪徳奴隷商人も、否この場に居る全ての者らが、アルフレインの狂度を測り間違えていたようである。

 ムクリと起き上がったアルフレインは、未だその傍に寝転ぶ老商人を見下ろし、吠える。

「人を人とも思わぬ者は、須らく化け物である! 化け物を成敗する事に、我は寸毫すんごうの迷いもなグあああああああああああああああああああ!?」

「テメェ、旦那に何してくれてんだッ!」

 それまで呆気に取られていた老人の部下たちは今更ながら凄みを効かせ、アルフレインの貧相な体を容赦なく蹴り上げた。

「グああああああああああああああああッ!?」

 骨の一本や二本持っていかれていそうな一撃を何度も受けて、そのたびアルフレインは元気に叫ぶ。

 ――どうか死ぬまで痛めつけてやってくれ。

 わたしの願いは何故か叶わず、それまで震えていただけの獣人の少女が突如、アルフレインを苛む体格の良い男達に牙を剥いた。どうやらアルフレインの狂気は、人間に伝播するようである。

「噛んだっ!? 噛んだぞこの奴隷!?」

 大男の太い腕が、強引に少女を振りほどく。無様に飛ばされ地を這った奴隷の少女はしかし犬のように唸りながら、何度でも男達に挑もうとする。勝ち目など無いだろうし、この少女が奇跡的に大男たちを一人二人殺したところで、奴隷の運命に変わりなど無い。

 そんな事、見れば誰もが分かるはずだった。

 しかし一体どういうことなのか、狂ったのは獣人の少女だけではない。港の市で繰り広げられるその光景を見た他の奴隷達までもが「そうだそうだ! 俺達は人間だ!」などと叫びながら、老耄の部下に体当たりをする。「……この、奴隷風情が!」。アルフレインを中心に広がり始めた狂気の渦はやがて広場全体を巻き込んで、いつか怒号飛び交う大乱闘が幕を開いていた。

 一体この都には、何人の奴隷が居るというのだろう。

 飼う者・飼われる者。醜く争い始めたその二者は、誰が獣も人も無い。等しく愚かな人間共だ。

 屍人のわたしはその喧騒に、堪らず耳を両手で覆った。棺桶の隙間をそっと閉じ、闇の中へと引き込もった。

 それでも広場の騒乱は鳴り止まず、むしろ火が点いたように広がってゆく。

 殴る蹴る。喚く泣く。転がりぶつかり立ち上がる。

 そこら中から響き始めた人間共が暴れる音に、わたしはギシギシと歯を軋ませ、棺桶の中身悶えする。

「全く、人間共は騒々しい……っ」

 顔を顰めながらそう言ったのと、わたしの潜む棺桶に誰かの体が突っ込んできたのは、まるで同じ時であった。

「……」

 衝撃によって棺の中から転がり出たわたしの顔を、肥え太った商人は暫し無言で眺めていた。わたしはそのまま彼が黙っているよう、そっと唇に指を当てた。が、やがて。

「ギ、ギああああああああああああああああああああああああああッ!?」

 全てを塗り替える程の大絶叫が、衆目の視線を遍く集めた。

 それまで同族同士の争いに興じていた人間共は、その全てを中断にして、突如街中に現れた化け物を指差し、次々と叫び始める。

 ついさっきまで騒ぎを起こさずにこの都を出る事に心を砕いていたわたしは、もうその全てを諦め、黒い帽子を目深に被った。無論、大きなため息を吐きながらだ。

 まるで人類共通の敵にでも出会ったような彼らの反応は、全く以て気分を害する。

「ギあああああああああああああああああああああああ!?」

 未だわたしの傍で叫び続ける商人のでっぷりとした影を手繰り、すぐにそれを黙らせた。

 それでも広場にひしめく人間共の叫びは鳴り止まず、わたしはその足元に在る何十何百という影を、円を描くよう掻き混ぜた。

 影の手と手を結び合わせ、大きな一つの像と為す。

 やがて一塊となった大きな影は、波打つように蠢いて、その巨体を起き上がらせる。

 人間共は恐怖に慄き、自分たちの足元から音も無く現れた影の巨人から逃れようと、広場から逃げ惑う。しかし無論己の影から逃れる術など、人間風情は持ってはいない。

 わたしは巨人を自在に操り、広場から逃れようとする者を薙ぎ払い、踏みしだかせ、理解するまで教えてやった。彼らが求める通りの、恐ろしい魔女として。

「……俯き平伏し黙りなさい。そう、まるで死んだようにです」

 やがて生者共は騒ぐのをやめ、獣も人も奴隷もなく、ただ魔女へと頭を垂れた。

 音も無く暴れる影の巨人を背後に従え、わたしはアルフレインが気絶していることを良く確認してから、手近な者に声をかける。

「今すぐに、この都の長に伝えなさい。屍人の魔女がやって来たと」

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我が天命に殉ぜよ屍人 矢尾かおる @tip-tune-8bit

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