玻璃合わせの世界

 古いビルが迫り立つ路地裏を、灰色の雲が塞いでいた。室外機が唸り声をあげる中、水溜まりの上を叩く音が響く。足音は二つ。どちらも軽く、慌ただしさを感じさせる。

 昼間でさえ薄闇に翳るこの場所を走るのは、年若い男女だった。紺色のブレザー。前を行く少女は黄色のチェックの入ったスカートを履き、彼女を追う少年は少女のスカートと同じ柄のズボンを履く。水溜まりに浸った革靴は哀れなほど水に濡れ、彼女たちが走る度に後方に飛沫を飛ばす。

 全力疾走に足をもつれさせた少女が、派手な音を立ててゴミだらけのアスファルトに倒れ込んだ。たちまち水を吸う服。しかし少女は構わず来た道を振り返る。地面にへたり込んだ彼女が見たのは、目の前で蹈鞴を踏んだ少年の姿。少女を見下ろす眼差しは、闇を湛えたように暗く恐ろしい。

 少女は胸元に握り込んだ拳を寄せて、少年から庇うように身体を背けた。上下する肩に黒髪が触れる。血の気を失った唇を噛み締めて、切り揃えた前髪の間から黒い瞳を睨み上げる。


「……笑えるね」


 少年は唇の端を歪めた。吐き捨てた言葉の通り、笑みの形を作り出す。ただし、口元だけの歪な笑み。反抗の意志を示す少女を嘲笑った少年は、何処で手に入れたのか鉄パイプを持つ右手をだらりと下ろした格好でびしょ濡れの少女を見下ろした。


「見てみろよ」


 左手を直上に向けると、真っ直ぐ人差し指で天を指差す。指先で雫が弾ける。雨の降る空。重い雲の向こうで、空に罅が入っていた。


「この世界は既に、破綻している。修復不可能、手遅れだ。それなのに君はまだ、その貼り合わせの世界を守るのか」


 呆れたように冷たく言い放つ少年から背を向けるように、少女はさらに身を捩った。固く握りしめた拳を開き、手の中のものに視線を落とす。

 白く細い手に守られたのは、片手に収まるくらいの青い玉だった。小さく薄い透明な膜が幾枚も球面を覆うように貼り巡らせてあり、一枚一枚がプリズムとなって虹色の輝きを放っている。複雑な光の模様を見せる様は美しく、しかしだからこそ、罅のように入っている膜と膜の境界線が不安定な危うさを抱かせた。


「決まっているでしょ。これが、私の世界だからだよ」


 少女は再び拳を強く握り込む。落とすことのないように固く、けれど壊れることのないように柔らかく。


「私には、ここが――この世界が全てなの。私が唯一生きられる場所なの。勝手に入り込んできた余所者の分際で、この世界に口出すな……っ!」


 小犬が見せるような威嚇をする少女に、少年は溜め息を吐いた。闇色の瞳に憐憫の光が浮かぶ。

 振り上げられた鉄パイプを睨みあげ、少女は奥歯を噛み締めた。


「……哀れだね」


 からん、と。音を立てて、鉄パイプが振り下ろされた。

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