[4-2] それぞれの決意

 夜が明けたとき、私は窓辺に腰掛けて、丘の稜線を色濃くした幾条もの光の筋が、闇を懐柔して緩慢に空を掌握してゆくのを眺めていた。

 まさにこれこそ、『彼方の光』だ。

 あのサクソフォーン四重奏の旋律に乗って、私も早くそこへ行きたい、志保や、勲や、戦友たちが待つあの空の彼方へ、私も早く辿り着きたいと、素直にそう思った。

 そして、じっと手のひらに目を落とし、己の無様さに辟易した。

 川島上等飛行兵曹となっていた悠真くんと会い、そして思い知り、その焦りにも似た感情がいよいよ私にそう思わせたのだ。


 居間に下りると、母親が出勤の準備を終えて、台所の洋机で珈琲を飲んでいた。

 この現代では、女性が勤めに出ることは至極当然のことで、炊事洗濯と主人の身の回りの世話が女性の仕事と決め付けることは、あってはならないとされる。

 役場や会社などでも女性が重役に就くことは珍しくなく、それどころか、女性ならではの手腕や感性が素晴らしい成果を挙げている例は山ほどあるようだ。

 悠真くんの母親は時間制の臨時就業をしているようだが、実に要領よく家事をこなして働きにも出る姿は、なんとも感心するばかり。

「あら、早いのね。おはよう、悠真」

「おはようございます、お母さん。珈琲の余り、あればください」

「あるわ。ちょっと待ってね」

 目を細めた母親。

 私が要望を屈託なく申し向けたのが嬉しかったのだろうか、母親はニコリとしてすぐ立ち上がると、いつもの席に腰掛けた私の前に香り立つそのカップをそっと置いた。

「はい、どうぞ。今日は八月七日だね。あなたがここへ来て、今日でちょうど四か月」

 その言葉に、思わず口に運んだカップが止まる。

「ここへ来て? それは……、どういう意味でしょうか」

「あはは。別に変な意味じゃないわ。記憶を失う前といまの悠真は違う人のように感じるって、いつか話したじゃない?」

「申し訳……ありません」

「そんな、別人を忌み嫌っているような意味じゃないわ。そうね、最初はね? 悠真の記憶が消えてしまったって聞いて、涙が止まらなくてね。ほんと、枯れるほど泣いたわ。たぶん、悔しかったんだと思う」

「悔しい?」

「うん。赤ん坊のころからずっと一緒に過ごしてきた家族の大切な時間を全部忘れてしまったことが、私の人生の一部がすっぽり消えてしまったみたいに思えてね……。でもね? でもそれって、結局、自分のことしか考えてなかったなって、それじゃ新しい悠真がかわいそうだって、そう思い直して」

「お母さん……」

 このまま明後日の八月九日を迎え、二瀬の言うとおり、時間線の短絡が維持されたまま大規模な『魂の通り道』が現れたとして、もし、本当にその短絡点を超えられたならば……、その夜には、私はもうここには居ないことになる。

 そうすれば、この母親ともお別れだ。

「いまのあなたは、確かに四月七日まで私たちの子供だった悠真とは違う、新しい悠真」

「お母さん、私は……」

「これからも、横田悠真が私たちの息子であることは変わらない。だから、ずっとそのままでいいから」

 ゆっくりとカップを卓上へ置き、両手を膝に据えてこうべを垂れた。

 豊かな珈琲の香りがゆらりとする中で、思いも寄らず瞳から溢れた雫がぽつりと手の甲に落ちる。

 私の父母は、空襲の炎に焼かれ、無念にもこの世を去った。

 苦戦続きの南洋の戦線に居た私は、ずいぶん経って親戚から知らせをもらって初めて、そのことを知った。

 焼野原となった故郷。

 両親を、友人を、たくさんの街の人たちを、私は護れなかった。

 そして私は、家族を持たぬ身になったのだ。

 そのような私にとって、いま眼前で私に慈愛の眼差しを向けてくれているこの母親は、本物の母親にも等しい。忘れかけていた温もりを、再び思い出させてくれた。

 だのに、私はこの四か月間、一度でもその真心に真摯に向き合っただろうか。

 その慈愛に、敬愛と愛しみの念を返しただろうか。

「お母さん、ありがとう。本当にありがとう」

「あら、泣いてるの? あはは。さ、お母さん、そろそろ仕事に行かなくちゃ。あ、そうそう、新悠真は知らないわよね。今日、八月七日は結衣ちゃんの誕生日よ?」

「えっ?」

「お母さんは夜にお菓子でも持って行ってあげようかと思ってるけど、悠真も何かお祝いしてあげたら? 悠真からのプレゼント、きっとなんでも喜ぶと思うわよ?」

 少々意地の悪い笑顔を作った母親は、さらにケラケラと笑い、それから椅子の背に掛けていた肩掛け鞄を取って居間を出て行った。

 玄関のたたきで、母親が靴を履く音がする。

 ハッとした。 

 なぜだろう。

 気が付くと、私は立ち上がり、そして母親のあとを追っていた。

「ん? 悠真、どうしたの?」

 玄関扉の取っ手に手を掛けた母親が、目を丸くして振り返る。

 自分でも、なぜそうしたのか分からない。

 もしかしたら、この肉体が記憶している横田悠真がそうさせたのかもしれない。

 気が付くと、私はがりかまちふちで立ち止まり、母親に向かって両手を広げていた。

 一瞬、驚いた母親は、それからじわりと目を細め、そしてややはにかみつつ、そっと私を抱き寄せた。

 その温かな手が、じわりと頭を撫でる。

「小さいとき、よくこうやって『行ってらっしゃい』してくれたよね」

 とうの昔に忘れていた、母親の温もり。

 またも意思に反して、温かな雫が頬を伝う。

「お母さん、行ってらっしゃい」

「うん。行ってくるね、悠ちゃん」

 私を、新しい悠真として温かく迎え入れてくれた母親。

 その母親の慈愛に返せるものはなにか。

 本当の悠真くんは、短絡点を超えた昭和二〇年に生きている。

 彼に命を粗末にさせず、そして、母親の元へと戻してやること……、それこそが、私ができ得る唯一の『親孝行』に違いない。

 玄関の扉が、カチャリと小さな音を立てて閉じた。

 現代の母への、これ以上ない深謝の念。その思いは一気に私の胸を駆け上がり、ずいぶん長い間、そこで立ち尽くす私を涙させたのであった。



 母親を送り出し程なくして、ちょうど残した珈琲を飲んでしまおうと台所へ戻ったとき、スマートフォンが軽快な音を鳴らした。

 二瀬だ。

「はい、もしもし」

『あ、もしもし、秋次郎さん? 僕、ちょっと話したいことがあって、いまいいかな』

 いつもと変わらぬ揚々としたその声。 

 私はふと思い付き、少々おどけて言葉を返した。

「ああ、ハルくんか。どうしたんだ、ハルくん?」

 一瞬の無音。

 それから、『え? え?』と、やや離れた小声が聞こえたかと思うと、すぐに割れんばかりの大声が耳をつんざいた。

『ええーーーっ? どういうことっ? 悠真くんなの? 記憶が戻ったの? あああ、秋次郎さんは?』

 二瀬がかなり動揺している。

 私は、この『ハルくん』という呼び方そのものを知らなかった。

 あの、横田悠真との会話が私の睡眠中の夢であったのならば、その夢の中に私自身が全く知らない事実が登場することはあり得ない。夢は記憶の整理作業だと言われ、もともと記憶にないものは整理作業の対象となることは不可能だからだ。

 つまりこれは、あれが夢ではなかったことの証左となる。

「冗談だ。私だ。川島秋次郎だ」

『ええっと、でもどうしてその呼び方を知ってるの? 柏森さんから聞いたの?』

「いや、結衣さんに聞いたのではない。悠真くん本人の口から聞いたのだ」

『悠真くんからっ? どういうことっ?』

「ちょっと、会って話したいことがある。いまから会えるか?」


 しばらくして、窓の外で自転車のブレーキ音がすると、すぐに呼び鈴が鳴った。

 扉を開けた途端、玄関へと駆け入って来た二瀬。

 額に汗を滲ませ、息を切らせて肩を上下させているその姿は、実に二瀬らしくなく至極滑稽な様。

 二瀬を招き入れ、結衣さんの真似をして台所で珈琲を淹れる。

 濾紙に入れる珈琲粉の量がよく分からなかったが、でき上がってみるとそれなりに良い色と香りになっていて、我ながら勘の良さに感心した。

「えっと、頂きます」

「うむ。海軍仕込みの特別抽出だぞ」

 二階の悠真くんの部屋へと通し、二瀬が座る学習机に恭しくカップを置いた。いつもの結衣さんの真似だ。

 結衣さんはここのところ毎日、午前中のみの希望制課外授業のために登校しているようだ。そしていつも昼過ぎになると帰宅して、一緒に昼飯を食おうと横田家へとやって来る。特になにも連絡はなかったので、今日も同様だろうと思っていた。

 私が結衣さんのようにベッドに腰掛けると、カップをゆっくり抱えた二瀬が眉根を寄せて切り出した。

「ねぇ、秋次郎さん。悠真くんから聞いたって、どういうこと?」

「そうだな。どう話したらいいか思案するところだが、私は横田悠真に会ったのだ」

「えっ、悠真くんにっ? どこでっ?」

「ここだ。この部屋でだ。時計は午前二時十五分を指していた。目が覚めると、このベッドの真上の天井が淡い光に照らされていて、その中に彼は居た。驚いたことに、彼は兵舎の畳床に横たわっていて、なぜか、川島秋次郎の姿をしていたのだ」

「悠真くんが秋次郎さんに? じゃ、こっちと反対のことが向こうで起きてたってこと?」

「そうだ。そして彼は、かの劣悪な昭和二〇年を逞しく生き、そして信じられない決意をしていたのだ」

「決意?」

 カップをゆっくりと持ち上げた二瀬が、愛らしく首を傾けた。

 どう話すか迷う。当時の感覚を、現代の若者にどうすれば誤解なく伝えられるのか。

「彼は、愛する者を護るため、昭和二〇年の自分、すなわち、川島秋次郎上等飛行兵曹としての自分を全うすると、そう言っていた。つまり、それは……」

「それって、もしかして」

「それはおそらく、護るために銃をとり、そして散ることもいとわない決心」

 ぎょっとした二瀬。

 置かれたカップがコトリと小さな音を立てた。

「あの温和な悠真くんが、そんなこと……」

「君は帰るのだ、帰る方法はいま二瀬が探っているのだと話したが、例えその方法が見つかっても、己だけが現代へと帰られて私が昭和二〇年へと帰れないのなら、悠真くんはそのまま残ると」

「えっ? そんなこと言ったの?」

「志保を……、護りたいと」

「志保さん?」

 二瀬が、じわりと志保の鏡台へと目をやった。

 私もその視線を追う。

「昭和二〇年の時流が、きっと彼をそうさせてしまったのだ。惑わされてはいけないと話したが、彼はおそらく、あの邂逅を夢の中の出来事だと思っているだろう。このままでは、彼は特攻へ行ってしまうかもしれない」

「ねぇ、秋次郎さん。その鏡台ってもしかして、柏森さんの親戚の家で不思議な現象に遭遇したときの、あの鏡台? 柏森さんの曾お婆ちゃんだったっていう、秋次郎さんの幼馴染みの」

「そうだ。志保の鏡台だ」

「そうか……、鏡台の持ち主が、悠真くんが護りたいって言った志保さんなんだね? 僕、なんとなく分かったよ。なぜ秋次郎さんに『魂の通り道』が見えたのか、なぜそこに時間線の『短絡点』が生まれたのか」

「分かるのか?」

「うん。それから、短絡点を超えたあと、どうしたらいいかも……」

 ゆっくりと学習椅子から立ち上がった二瀬が、おもむろに志保の鏡台の横へと立つ。

「悠真くんが落雷に遭ったとき、僕は図書室の鏡が光ったことで気が付いた。柏森さんの親戚の家での不思議な現象は、志保さんの鏡台の前で起った。登校日に見た魂の通り道の出現も、昇降口の鏡の前」

「鏡?」

「うん。そして、あの『魂の通り道』の拠点になっている神社のご神体は、社の中に安置された由緒ある『丸鏡』だよね。さらに……、光の中の悠真くんと出会ったという不思議な現象は、再びこの志保さんの鏡台の前で起った」

「そうか、そう言われれば『魂の通り道』の出現にはすべて鏡が関係しているな」

「うん。そして、この『志保さんの鏡台』が、秋次郎さんが『魂の通り道』に干渉することに関係しているんだと思う。だから、秋次郎さんに『短絡点の向こう』が見えたんだ」

「この鏡台が?」

 古くから、鏡には不思議な力があるとされ、童話や空想小説でもしばしば霊的な力を持つ鏡が登場する。

 鏡は周囲から飛来する光を精密に反射する平滑な面に過ぎないにも拘わらず、覗けばあたかもその向こうに別の世界が広がっているように感じられることが、霊的、神秘的な能力を持つと錯覚させるのだろう。

「よく、鏡は世界が反対になってるって言うよね? でも、本当は反対じゃない。奥行は反対だけど、左右はそのままなんだ。だから、鏡面ぎりぎりまで近づいて奥行の距離がゼロになれば、ふたつの世界はぴたりと重なる」

「重なって短絡している時間線の象徴か」

「そうだね。全ての鏡は、その向こうの世界でも繋がっている。だから、志保さんの鏡をあの場所へ持って行けば、もしかしたら短絡点を超えられるかも」

「しかし、短絡点を超えたあとはどうすればいいのだ」

「それは……」

 二瀬が、そっと志保の鏡台の覆いをめくる。

 ややくすんだ鏡面。

 そこに、鏡を覗き込む二瀬と、その後ろでベッドに腰掛けている私が映った。

「短絡点がどこに繋がっているかは、そのときにならないと分からない。でも、短絡点を超えるのは肉体じゃなくて、魂の通り道に溶けた心だけだ。その心は、どこへでも飛んで行けるはず」

「つまり、短絡点が繋がっている間に悠真くんを捜せと」

「そう。でも、きっとすぐに見つかるよ。そして、彼にこちらへ向かって短絡点を超えさせればいい。僕と柏森さんが、しっかりと悠真くんの名前を呼ぶから」

 二瀬の父親が教えてくれた、『魂の通り道』。

 あの話をしたときにふと思い出した、『あの世へ行きそびれた魂は、誰かに呼んでもらわねば己の居場所を見失う』という婆さまの話。

 魂に、その行き着くべき先を示すのは、その名を呼ぶ声ということか。

「しかし……、そう上手くいくだろうか」

「それこそ、海軍魂の発揮どころじゃない? 川島上等飛行兵曹?」

「うるさい。ところで、二瀬の話はなんだ?」

「あー、実は……」

 鏡台から手を離した二瀬が、やや眉根を寄せながら学習椅子へと戻る。

「秋次郎さん、今日が柏森さんの誕生日なのは知ってる?」

「ああ、先ほど母親から聞いた。夕方までになにか贈るものを考えねばならん。幸い、今日は結衣さんの帰りが遅いようなので――」

「それ、その帰りが遅い理由が問題でね。サッカー部の宇佐先輩って知ってるよね。彼、ずっと柏森さんに付き合ってくれってしつこくしてるみたいで」

「リューキチとやらだな。悠真くんを慕っている結衣さんからすれば、至極迷惑な話に違いない。で? 結衣さんの帰りが遅いのは、まさかそのリューキチの仕業なのか?」

「誕生日のプレゼントを渡したいって、呼び出されたみたい。昨日、柏森さんから電話があってね。ずいぶん悩んでたけど、やっぱりもう一度きちんと断るために会うことにするって言ってた。秋次郎さんには言わないでって言われてたんだけど」

 二瀬は、そう言って珈琲の残りをこくりと飲み干すと、それから愛らしい目を少々意地悪な半眼にしてじろりと私へ向けた。

「で、秋次郎さんは、どうする?」

 もちろん、二瀬の真意は分かっている。

 しかし考えてみれば、昨日、リューキチがここへ訪ねて来たのは、本日の布石として悠真くんに牽制を加える目的であった可能性が高い。それなら、いま結衣さんと対峙しているリューキチのところへ私が行けば、こちらが仕掛けずとも諍いを招くのは自明の理だ。

 果たして、結衣さんがそれを望むだろうか。

 あの、教室での赤坂や腰巾着との諍いは、明らかに結衣さんの望むところではなく、結局その後、彼女の生気を失わせる結果を招いた。

「ねぇ、秋次郎さん。昭和二〇年の悠真くんは、覚悟を口にするほど、志保さんのことを本当に大切に思ってたんだよね?」

「いかにも」

「じゃ、秋次郎さんは? 秋次郎さんは、柏森さんのこと、どう思っているの?」

 私が結衣さんをどう思っているか?

 彼女は命の恩人だ。

 この未来の日本に、志保の命を受け継いでくれている忘れ形見だ。

 大切に思わないはずがない。

「私は――」

「行ってあげたら?」

 満面の笑みの二瀬。

 ベッドに腰掛ける私を見下ろして、両足のつま先をとんとんと合わせる。

「それとも、行く勇気もない? 川島上等飛行兵曹殿?」

「馬鹿者。『殿』を付けるのは陸軍だ。海軍で『殿』付けすると小馬鹿にした言い方になるのだぞ?」

「知ってるよ? そんなこと」

「ふん。いいから早く結衣さんの居所を教えろ。ハルくん」

「あはは」


 停留所の手前で見上げた空は、あの『魂の通り道』を思わせる青空であった。丘に群立する家々の向こうに、真っ白な入道雲が湧き立っている。

 その入道雲を背に、もう見慣れた墓石のようなバスが近づいてくるのが見えた。

 私は足を止め、そしておもむろに二瀬へと向き直った。同様に二瀬も、自転車の脚を立ててこちらへ顔を向ける。

 姿勢を正し、顎を引いた。

「ありがとうごさいます。二瀬大尉」

 陸軍技術大尉の宮町勲になぞらえて、私は二瀬をそう呼んだ。併せて、背筋を伸ばしつつ、脇を締めて機敏に右手を上げる。

 海軍式敬礼。

 一瞬きょとんとした二瀬はすぐにそれを理解したらしく、ほんの少し顔を赤らめて、脇を広げて堂々と右手を上げた。

 陸軍式敬礼。

「川島上飛曹、武運を祈ります」

 その美しい敬礼に、まるで二瀬が本当の将校であるかのような錯覚を覚えた。

 バスが停まる。

 二瀬がゆっくりと右手を下ろしたのを見て、私もさっと敬礼を直り、それからニヤリと笑って乗り口に足を掛けた。

 振り返ると、閉じた扉の向こうに、右手を高々と上げて頭上でゆっくりと振る二瀬が見えた。

 これは、『帽振れ』だ。

 戦地へ飛び立つ戦友を見送る礼だ。

 驚きのあとに、万感が胸に迫った。

 ああ、まさにこれこそ友だ。

 まさにこれこそ、『親友』の体現だ。

 初めてこの現代の若者の姿を目の当たりにしたとき、彼らはなんと未成熟で無責任なのかと唖然とし、我々はこのような未来を護るために万歳を叫んで散華したのかと落胆した。

 しかし、結衣さん、二瀬と交流を深め、この時代のことを知れば知るほど、それが偏ったものの見方であることを痛感した。

 昭和二〇年の我々からは推し量れない、この時代にはこの時代の友情や真心の形があるのだと知った。

 その根底にある互いの信頼や思いやりは、当時のそれと形や距離感が違っていても、我々となんら変わることはない。男女や夫婦の在り方、教師と学生の関係も同様で、我々の時代が厳正かつ清廉で、この現代が安易で疎略だなどということはないのだ。

 ならば、私のこの思いも、結衣さんはきっと分かってくれると思う。

 諍いを望まない彼女にも、必ず分かってもらえるはずだ。


 巨大駅の正面。

 そこへ吸い込まれるモノレールの軌道の下で立ち止まり、巨大吹抜けへと続く階段を見上げた。

 二瀬が教示した結衣さんの居場所はこの階段を上がった先、軌道と階段を挟んだ反対に見える、名もない喫茶であった。

 階段を上る。

 背後から降り注ぐ陽光のギラギラが、私の輪郭をくっきりと足元に落としている。

 白い綿シャツの背中に、じわりと汗が伝った。

 扉の取っ手に手を掛ける。

 強力な空調機が作動しているのか、乾燥した冷気が一気に私を灼熱の外界から隔絶した空間へと取り込んだ。

 愛想笑いで、「お好きな席へどうぞ」と声を掛けたボーイ。

 そのすぐ横の窓際の対面座席に、見覚えのある後ろ姿が見えた。

 柔らかく肩に掛かる栗色の髪。

 真っ白な制服ブラウスの背中が、なんとも生気なく丸まっている。

 対して座しているのは、私の知らない男子学生。

 制服ワイシャツの胸襟を開き、ずいぶん偉そうに背もたれに腕を掛けて、真摯さの欠片もない。

「だから、何度も言ってるじゃないですか。あたし、好きな人が居るんです」

「だから何度も言ってるじゃん。そんな奴のこと、すぐ忘れさせてやるって」

 漏れ聞こえるふたりの声。

 結衣さんの声は、いまにも泣きそうに震えている。

 私がゆっくりと近づくと、私のほうを向いている男子学生がハッと顔を向けた。

 思わず刮目する。

「ずいぶんな言い草だな。恥を知らんのか。お前がリューキチか」

「お? 横田じゃねぇか。先輩を呼び捨てにするとはいい度胸だな。お前、何しに来たんだ」

「下衆め。早々に立ち去れ。リューキチ」

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