[3-3] 解けかけの謎

 飽和する光。

 無音の情景。

 両肩がとてつもなく重いなにかに押さえ付けられ、鏡面にぴたりと貼り付いている。

 そのとき、右腕がぐっと引かれた。

 見ると、結衣さんの姿が見え、私の右腕にしがみ付いているのが分かった。口を大きく開けて何かを言っているが、その声は聞こえない。

 左を見ると、そこに二瀬が居た。私の左腕を握って校庭のほうを指差しつつ何か叫んでいるが、やはりその声は聞こえない。

 二瀬の指す先にあるのは、ただただ清々しい蒼天。そのあまりの青さに目を奪われると、突然、地響きに似た振動が両足を這い上がった。

 咄嗟に足を踏ん張る。

 私を押さえ付ける力は衰えない。

 まるで、このまま鏡の中へ突き入って、そこに映った蒼天へと放り出されてしまうのではないかと思うほどの圧迫。

 私はその圧を撥ねのけようと、奥歯を噛んで首を前へと突き出した。

 負けじと目を開く。

 放心。

 美しい。

 私はこの空を知っている。

 そうだ、あの空だ。

 私が、この七〇余年後の世界へ来るきっかけとなった、あの故郷の上空で見た蒼天だ。

 図らずもそうして私が、放心する私をまるで他人のごとく客観的に感じたとき、突然、東の空が光った。

 目をやる。

 光る雲。

 そこに現れたのは、やはりあの時と同じ、光る雲だった。

 煌々と輝きを放つ光の雲が、いや、雲のように渦巻く無数の光点が、勢いよくこちらへ近づいてきている。

 これは、人を連れ去る光だ。

 私は思わず右腕を振り上げて、そのまま結衣さんを抱き寄せた。

 さらに左手で、二瀬の腕を引き寄せる。

 ふたりを護りたい。

 しかし、今の私には飛行機も機関銃も無い。

 一瞬、根拠の無い恐怖が私を支配した。

 それは、おどろおどろしい恐怖ではなく、私独りではどうにもならないという、無力感に似た恐怖だ。

 そのときだ。

 どこからともなく聞こえたのは、結衣さんによく似た、優しい声。

『秋次郎さん――』

 私の名が呼ばれた。

 その瞬間、私は結衣さんと二瀬のふたりを感じた。

 感触ではない。

 そこに彼らが居ることが、ありありと心の中に満ちてきて、そして彼らを感じたのだ。

 直後、突然に湧き出した勇気。

 空の上で、私はいつも独りだった。

 編隊を組み、部下とともに戦いに挑んでも、そこにあるのは常に独りの戦場だった。

 しかしいま、私は彼らと共にこの大地に踏ん張っている。

 ふたりが共にあれば、私は大丈夫だ。

 今の私は横田悠真。

 私に志保と勲が居たように、悠真くんにも結衣さんと二瀬が居る。

 そのふたりが、いま私と共にある。

 言葉にならないその勇気が湯水のごとくほとばしった次の瞬間、その静寂は突然に破られた。

 光の雲から聞こえた人声。

 聖歌隊の歌声のごとき、澄んだ声の重なり。

 それが、風音と共に耳に届いている。

 すると、迫っていた光の雲は速度を落とし、それからじわりと蒼天の下で静止した。

 うごめきは止まらない。

 そのとき。

「うっ!」

 光が弾けた。

 ドンと体が背後の鏡にさらに押し付けられ、眩い光が飽和して空気を満たす圧となり、爆発のごとく強烈な輝きが四方八方へと飛び散った。

 蒼天に炸裂した花火。

 次に地響きのごとき低音が耳に届き、あまりの眩さのために視野全体が白黒に明滅した。

 いまだ歌声は聞こえている。

 飽和した光の空を満たす、聖歌隊のような、どこまでも限りなく澄んだ歌声。

 心がゆらりとした。

 いかん、連れてゆかれる。

 今度は先ほどとは逆に何かに引き寄せられるような、首に手を掛けられて引きずられるような、不可解な感覚が走った。

 私はいよいよ足を踏ん張り、鏡に背を預けて結衣さんと二瀬を強く強く抱き寄せた。

 これだ。

 きっと私は、この力によってここへ連れて来られたに違いない。

「結衣さん! 二瀬!」

 私は何度も何度も、あらん限りの声を振り絞ってふたりの名を呼んだ。その叫びは声にはなっていない。私自身にもその声は聞こえない。

 抱き寄せた結衣さんと二瀬は、まだ間違いなく腕の中に居る。

 これでもかと奥歯を噛んで、顎を引いて目を瞑った。ぎりぎりと奥歯が鳴り、もう耐えられないと思った、次の瞬間。

 広がったのは、うねる波のごとき地響き。

 そして続けて訪れた、ぱちんと頬を叩かれたような感覚。

 歌声がふわりと途絶えた。

 同時に一切の力が抜け、私の背中がどんっと背後の鏡に密着する。

 勢いで顎が上がり、後頭部が思い切り鏡に叩き付けられた。

 耳の奥に聞こえた、脈打つ鼓動。

 ゆっくりと目を開ける。

 じわりと聞こえた、鳴りやむ寸前のサイレン。

 『黙祷を終わります』

 ハッと我に返った。

 右腕の中で、結衣さんが震えている。

 左では、二瀬は息を整えようとしてか、小さく肩を上下させている。

 風が頬を撫でた。

 見上げると、あの目の覚めるような蒼天は消え去り、そこにはどんよりと雲が垂れ込む曇天があった。 

 木々のさざめきが聞こえ、それからすうっと周囲の喧騒が戻る。

「ふたりとも、大丈夫か?」

 結衣さんからは、返事がない。

 二瀬が顔を上げた。

「秋次郎さんは大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 結衣さんはまだ、抱かれた肩を小刻みに震わせたまま下を向いている。

 見ると、足元には無造作に転げている我々の鞄。

 二瀬はゆっくりと私の腕を解くと、その鞄を拾い上げて私に真剣な瞳を向けた。

「もしかして、いまのって……。これ、いつか秋次郎さんが話してくれたあの空と同じ?」

「え? ああ、ここまでの眩さはなかったが、飛来してきたあの光の雲はとても似ていたと思う」

「そうか、やっぱり。僕……、少し分かったかもしれない」

 二瀬はそう言うと、ひょいと首を傾げて私越しに結衣さんへと目をやった。私は結衣さんからそっと腕を外し、それから少し腰を折ってその顔を覗き見上げた。

「結衣さん、大丈夫ですか?」

 ゆっくりと顔を上げる結衣さん。

 その瞳には、溢れんばかりの雫が湛えられていた。

「あ……、あの、秋次郎さん……」

「もう、大丈夫ですよ?」

「うん。秋次郎さん、あたしを呼んでくれてありがとう」

「聞こえましたか?」

「あたし、ゆっくりと歩き始めてた。なぜかそこに行かなきゃいけないような気がして。そうしたら、秋次郎さんがあたしを呼ぶ声が聞こえて」

 結衣さんはずっと私の腕の中に居た。歩き出してなどいない。

 しかし、結衣さんの心はこの場所から離れてどこかへ行こうとしていたのだろう。

 私の時も、きっとそうだったのだ。

「そうですか。よかった」

 じわりと周りを見回す。

 鏡には変わらず我々の姿が映っていたが、特になんの変化もない。

 下駄箱の前は既に他の学生たちが次々とやって来ていて、ずいぶんと慌ただしい雰囲気となっていた。しかし、周りの誰もあの光の雲のことを口にしていない。

 もしや我々だけが、あの空、あの雲を見たのか?

 放心していた結衣さんがようやく調子を取り戻せたのは、それからしばらくしてからだった。そして、我々も何事もなかったように学級へと向かい、その出校日の日課が始まったのだった。


 放課になって、空はうって変わって青々となった。

 あの光の雲を誘った蒼天ほどの青さはないが、南中した太陽が木立の陰を校庭にくっきりと描く、盛夏の午後らしい空だ。

 意気揚々とした二瀬に促されて、東門を出る。

 結衣さんは、ここ最近ただでさえ元気がなかったというのに、朝の一件が尾を引いているのか、いよいよ笑顔が出ない。

「二瀬、どこへ行くのだ」

「そこの丘の上、森の中に神社があるんだ。秋次郎さんの時代も、たぶんあそこにあったんじゃないかな」

 そうだ。

 私は、その神社を知っている。

 そして、この高等学校もだ。ずいぶん街並みが変わってしまい、全く面影がないのでにわかに分からなかったが、最近になって気が付いた。

 ここは私が通った、旧制中学校だ。

 川や丘の位置関係からして、間違いない。

 当時、中等教育は男女で別の課程が設けられており、私と志保とは当然に別の学び舎となった。

 勲は、神童の名に見合う高等学校高等科への道を選んだので、私とこの中学校の学び舎を共にしていない。

 『学び舎』。

 当時の学校は、どこも現代とは全く違う趣きある三角屋根で、実に『学び舎』という言葉が相応しい装いだった。この中学校も例に漏れず、工業の街でありながらも、現代よりはずっと趣深い景色に囲まれていた。

 校庭の西には、葦と笹が波打つ名もない川。

 南に見えていたのは、青々と緑さざめく小高い丘。

 丘の上には由緒ある小さな神社があって、放課となった後に級友らと寄り道しては、卒業したら海軍に志願するだとか、造船所に入って戦艦を造るだとか、そんな夢を語り合った。

 私はいま、その神社へ続く同じ道を、二瀬の背中を追って結衣さんと歩いている。

「二瀬、あの光の雲についてなにか分かったのか?」

「ぜんぶ分かったわけじゃないけど、こうじゃないかなってのを思い付いて。僕のお父さんの話、覚えているよね?」

「あの、『魂の通り道』の話か?」

「うん。実はあの話、お父さんの研究ともちょっと関係があってね」

 軒並みが切れて、陸橋道路が走る道路へと出た。校庭から見えていた小高い丘は道路に沿う森となり、立ちはだかる壁のごとく迫る。

 すると突然、それは緑深き茂みの中に姿を見せた。

 古い石段。

 そして、その石段の上で泰然自若としている、雄々しい鳥居。

 そこは陸橋道路の下で日陰となっていて、実にひっそりとしていた。

 鬱蒼と茂る森の木々。

 見上げると、木々を分けるように堅牢な石段が急勾配で丘の上へ向かい、石段の一番下と中ほどの二か所に、苔むした鳥居が悠々と立っているのが見えた。

 その昔はいまほど森が深くなく、登る石段の上には広々と青空が広がっていたが、七〇余年の時が、誰かにことさら教えられなければ見過ごしてしまうほどに、この石段と鳥居を通りから見えなくしてしまっていた。

 鳥居のすぐ脇には、石造りの案内板。

 そこには、この神社が慶長七年、一六〇二年に藩の築城に際して建立されたことなどが書かれている。

 下の鳥居をくぐって石段を上り始めると、結衣さんが前を行く二瀬の背に声を掛けた。

「ねぇ、二瀬くん。この神社に何かあるの?」

「うん。この神社はちょっと特別なのかもって思って。秋次郎さんは、なぜ僕がここへ来ようって言ったか、分かるよね?」

 石段を上りつつ振り向いてそう言った二瀬に、私は少しだけ口角を上げて答えた。

「そうだな。ちょうどこのあたりは、今朝見たあの光の雲が留まって、そして弾け飛んだ場所の真下だ」

「さすが、戦闘機乗りはそっきょがんがいいね」

「からかうな」

 見上げると、石段は途中に数か所の平らな部分があり、丘の斜面に沿うように緩やかに折れつつ上へ上へと続き、その両側では歳月を感じさせる鬱蒼とした木々が私たちを見下ろしていた。

 言わばここは、石段と森が誘う天上への隧道だ。

 足元を見ると、頭上の木々の間から降り注ぐ木漏れ日が、固い石段の上でゆらりと踊っている。

「うわぁ、きれい」 

 ふたつ目の鳥居の下で、そう言って木々を見上げた結衣さん。その愛らしい横顔に、私は思わず息を飲んだ。

 その私を見て、二瀬が邪気いっぱいの笑顔で問う。

「ん? 秋次郎さん、どうかした?」

「い、いや、何でもない」

「へぇ」

 石段は、登り詰めで左へと折れ、その真正面にある社殿の前へと我々を促した。

 そう大きくない、質素なやしろ

 神額には、『愛宕神社』とあった。

 拝殿の手前には年季の入ったこまいぬが鎮座しており、その台座には、『大正七年三月』の彫文字が窺える。年季からすれば、この狛犬は私が中学生のときに見ていたそのものだ。しかし、狛犬の位置も拝殿の装いも、私が記憶しているものとは違っているように感じた。

「それで、二瀬よ。謎の正体を聞かせてもらえるか?」

「そうだね。秋次郎さんは、死後の世界って……、信じる?」

「うん? 死後の世界……か。我々の時代は信じている者が多かったろう。その世界を信じて、『靖国で会おう』と約し合い、皆、潔く散っていったのだ。私はそんなに信じてはいなかったが」

「そうなんだ。僕は、そんな世界があってもおかしくないって思ってる。僕のお父さんも、『死後の世界は科学的に存在すると思う』って言ってたよ?」

「科学的に?」

「うん。お父さんは、『魂』ってちゃんと僕らの中に存在していて、亡くなった人の『魂』が『魂の通り道』を通って『あの世』へ行くというプロセスは、いつかちゃんと科学的に解明されるんじゃないかって、そう話してた」

 そう言えば、『死んだ者の魂があの世へ帰る』という話は、さまざまな宗教や神話に登場する。

 そしてそれらは、成立した経緯も国も、民族や時代までもが異なるというのに、なぜか不思議と似通っているものが多い。

 それを思うと、実は、未だ科学で解明されていない『魂』と『魂の通り道』の真理がこの世界にはあって、その存在を太古の人々が経験則的に感じ取り、それぞれの宗教や神話に取り入れたとも考えられないことはない。

「まぁ、電波やウイルスだって発見されたのはつい一五〇年くらい前の話だし、科学や医学が発達するまでその存在は全く知られていなかったわけでしょ? だから、『魂』や『魂の通り道』も、まだその存在を確かめられる技術が未発達なだけなんじゃないか……ってね」

 幼いとき、婆さまが話してくれた『魂』の話。

 つい先日の通夜でも、坊主が偉そうにその話をしていた。

 人は肉体に『魂』を宿して『この世』へやって来て、そして一生を終えると、肉体から『魂』が離れ、そして『あの世』へと帰ってゆく。帰った『魂』は浄化されて、いつかまた肉体を得て『この世』へとやって来る。

 輪廻転生。

 その繰り返される輪廻の中で、『魂』が『あの世』と『この世』を往来する道が、『魂の通り道』ということだ。

「それを踏まえて、ここからは僕の謎解きの答えね」

 二瀬が、すっと空を見上げる。

「朝の真っ青な空と光の雲、あれって、僕らに『魂の通り道』が見えたんじゃないかな」

 結衣さんがきょとんとしている。

 私もにわかにその言葉の真意が理解できず、やや放心して二瀬の愛らしい横顔へと目をやる。すると二瀬は、小さく咳払いをして真剣な面持ちを私へと向けた。

「秋次郎さん、今日は八月六日だよね。それから、僕らがあの真っ青な空と光の雲を見たのは、あの時間……、そして、あのサイレンの下」

 二瀬はじっと私を見つめている。

 たしかに、今日は八月六日だ。

 そしてあのとき、我々は拡声器から流れた黙祷の号令を聞いていた。

 思わずハッと二瀬を見た。

「二瀬……、もしや」

「そう考えると、とてもスムーズに話が繋がるよ?」

「あの光の雲……、あれは広島で亡くなった者たちの『魂』だったというのか?」

 光の雲の中で踊る光点。

 あのひとつひとつが『魂』であり、しかもそれが、広島に落とされた新型爆弾の犠牲となった者たちの御霊だというのか。

 結衣さんは泳がせた視線を、ゆらゆらと足元へ落としていた。

 じわりと、こめかみに伝った汗。

 二瀬は小さく頷いて、さらに真剣な眼差しで言葉を続ける。 

「さて問題は、なぜ昭和二〇年の『魂』たちが、現代の僕らに見えたのかってこと」

 そうだ。広島市に新型爆弾が使用されたのは、この現代からすれば七〇余年前の昔だ。なぜ、その『魂』たちが、いまこの時代を駆け抜けていくのか。

「これは、あくまで仮説なんだけどね? もしかしたら、僕らが住むこの世界の時間線が、秋次郎さんが居た昭和二〇年の時間線と短絡を起こしているのかもって考えてる」

「時間線?」

「時間って、いろんな条件でどんどん枝分かれしていくらしい。そのひとつひとつの枝が時間線を形成していて、それぞれの瞬間を堆積させながら伸びていくんだって」

 これは、とある空想小説で目にしたことがある。

 『時間』とは、我々三次元の世界に住む者からすれば普遍的にそこにあるものだが、それは容易にはその存在を覚知できない、実のところは別の次元の存在のようなものらしい。そして、この現代の科学や物理学でも、その真実はいまだ解明されていないもののようだ。

「ちょっと難しいよね。だから、もしタイムマシンが発明されて、いま居る時間線の過去の一点に戻れたとしても、時間はそこからもたくさん枝分かれして未来へ進んでいるから、元居た時間線に戻ることは確率的に不可能なんだって、そんなふうにお父さんは言ってた」

「時間線の……短絡か。しかし、なぜそんなことが起こるのだ」

「原因は全く分からない。ただ、起きている現象を見れば、本当なら交わることのない異なる時間線同士が、短絡してしまったように見えるんだ」

 二瀬が、すっと結衣さんへと視線を投げた。

 結衣さんは相変わらず目を泳がせていて、二瀬の説明が全く届いていない様子だ。

「柏森さん、秋次郎さんがこの現代へやって来た日、いつだったか覚えている?」

「え? えっと、四月七日だったと思う」

「そうだね。四月七日だ。秋次郎さんには話したけど、その日は戦艦大和が撃沈された日として有名なんだ。戦艦大和の沈没は、四月七日午後二時二三分。そして、悠真くんがグラウンドで倒れたのは四月七日の……、午後二時を回ってしばらくしたときだった」

 結衣さんがハッとした。

「二瀬くん、もしかして、秋次郎さんの飛行機を飲み込んだ光の雲って……」 

「うん。たぶん……、戦艦大和の乗組員たちの『魂』じゃないかな」

 戦慄が走った。

 すうっと背筋に冷たいものが流れ、じわりと膝に力が入る。

「ならば……、私は、戦友らの『魂』が『魂の通り道』をひた走るその中を、戦闘機で横切ってしまったというのか」

「うん。そしてそのとき、『魂の通り道』に何か不可解な力が働いて、時間線同士を超える短絡点ができてしまったんじゃないかって思う」

 なんたることだ。

 たしかに、いままで起こった現象と現在の状況からすれば、この二瀬の仮説は合点がいく。

 ごくりと唾を飲み、思わず瞑った目をおずおずと開けた。

 五月雨のごとく降り注ぐ蝉の声が、じわりと収まる。

 その声がさざめかす濃緑の背景に、一瞬感じた弱弱しい光。

 見ると、眼前に狛犬の向こうの小さな社がじわりと浮かび上がり、拝殿の奥の暗がりの本殿に、ご神体である美しい丸鏡がしゅくぜんと鎮座しているのが見えた。

 その丸鏡が反射する弱弱しい光を背に、二瀬がさらに言葉を続ける。

「秋次郎さん、この前、柏森さんの親戚の家で、鏡の中に別の部屋が見えたって言ってたよね。部屋の様子からすれば、その部屋はたぶん戦時下のどこかだと思う。もしかしたらそれって、その鏡にすごく小さな短絡点ができたのかもしれない」

 あの家は、勲が跡を取った宮町の本家だ。

 そして、亡くなった踊りの婆さまは、志保の娘。

 きっと踊りの婆さまの『魂』は、いまだ近くの『魂の通り道』の中で、さて誰のところへ訪ねて行こうかと思案していたことだろう。

 その、婆さまの居る『魂の通り道』が近くにあり、そしてそこに何かの因縁が働いて鏡面に小さな短絡点ができたとしても、それはおかしなことではない。

「もしかすると秋次郎さんは、いや、秋次郎さんの『魂』は、四月七日の大きな『魂の通り道』に遭遇したとき、たまたまその中にできてしまった時間線の短絡点を超えてきてしまったのかも」

 ゆっくりと振り返る二瀬。

 その真剣な瞳が私を捉える。

「もしそうだとすると、上手くその発生プロセスをコントロールして短絡点を逆に辿れば、秋次郎さんを昭和二〇年に帰すことができるかもしれない」

 結衣さんがハッとして、その大きく開いた愛らしい瞳でじわりと私を覗き見上げる。

 二瀬はいよいよ真剣な顔になって、さらに言葉を続けた。

「きっと、この神社は『魂の通り道』の大きな通過点なんだと思う。だから、もしこのまま短絡点が維持されたままだったとして、次にここに大きな『魂の通り道』が現れるのは……」

 その答えはすぐに予想がついた。

 言い淀んだ二瀬は、一瞬足元に瞳を向けて、それからゆっくりとそれを私へと向けた。

「たぶん、八月九日、午前十一時二分」

 そうだ。

 それは、長崎に新型爆弾が落とされた瞬間。

 短絡した時間線同士は、なぜか年代は違うが同じ日付で進行している。

 不謹慎だが、今日の光の大移動が広島原爆で命を落とした方々の御霊であるとすれば、八月九日にもそれが起こるという理屈は理解できる。

 ふと気が付くと、結衣さんが私の手を握っていた。

 もしも、昭和二〇年八月九日に帰ることができれば……、現代を知った私がこの記憶を維持したままあの世界へと戻れたとすれば……、私は、戦後を生きることができるかもしれない。

 思わず、薄い嘲笑が出た。

 まさか、この私がそのようなことを考えるとは。

 私は軍人だ。

 この命を国のため、いや、愛する者のために捧げる覚悟をした軍人だ。

 死は恐怖ではなく、己のようを示す手段であり、そして求める結果であったはずだ。

 しかし、いまは違う。

 死して護るも勇気、そして生きて護るはさらなる勇気であると、私は理解した。

 ここにはなかった、志保と共に戦後を生きる世界。

 それを望むことが、私に許されるだろうか。

 戦友たちは、許してくれるだろうか。

「でも、なぜ秋次郎さんにだけ短絡点が見えるんだろう。なにか条件があるのかもしれない。僕、もうちょっと考えを整理してみるよ。お父さんにも相談してみる」

 二瀬はそう言って姿勢を正すと、社へ向かって小さく頭を下げた。

 私も二瀬にならう。

 そして、二瀬はぱっと愛らしい笑顔で振り返ると、柔らかに両手を上げた。

「さ、ちょっと長くなっちゃったね。お昼、食べに行こう」

 気が付くと、先ほどまでは聞こえなかった蝉の声が、いまは社の上に割れんばかりに響いている。

「行きましょうか。結衣さん」

 そう言って私が顔を覗き込むと、結衣さんは小さく頷いた。

 そして、なぜかその難しい顔を和ませることなく、そのまま私の手を放さずにじわりと歩き出したのだった。

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