[2-3] 想い人の名は

「サッカー、面白かった? 僕、驚いちゃった。秋次郎さん、すごく上手いんだもん」

 四時限目の運動は、蹴球であった。

 運動場の端で、鬼瓦のような体育教師が解散を告げると、すぐさま駆け寄ってきた二瀬が笑顔とともに昼を誘う。

「あー、お腹すいちゃった。秋次郎さん、今日、何食べる?」

 例の諍い以来、先週はずっと食堂で二瀬と昼餉をとった。当然、今日も同じくと思っての二瀬の問いであったが、私は小さく手刀を切る。

「それが、結衣さんがどうしても今週からはまた弁当を作ると聞かなくてな」

「あはは、そうなんだ。じゃ、僕、売店でパンでも買ってくるよ。それにしても、秋次郎さん、ずいぶん名プレーを連発してたけど、もしかして昭和の世界でもサッカーやってたの?」

「いや……」

 今日の運動では、なんとも不思議な体験をした。

 いまここでこうしていること自体が奇妙奇天烈の極みであるのだから、少々の不思議はそう大したことはないはずなのだが、それにしても至極珍妙。

 蹴球は、尋常小学校の授業で真似ごと程度にやったことがある。

 当時はまだ米国との戦争は始まっておらず、敵性競技などと問題にはされていなかったため、どこの尋常科でも野球や蹴球といった競技を授業で行っていた。

 しかし私は、野球ならばそれなりに格好をつけられたが、こと蹴球については、思うように球を扱えず、無様を晒して級友らの笑いものになったほどの才の無さだ。

 その私が、今日はどうしたことか。

 容易に奪えた球。軽快な球運び。そして、最後は思うがままに、網へと蹴り入れて得点に貢献することができた。それも、何度もだ。

 これは、私の動きではない。

 やはり、この体は彼なのだ。

 体は私の意識を超えて、明確に横田悠真を記憶している。

 もしや、私が意識を乗っ取っているだけで、本物の横田悠真の意識はまだこの体の中にあるのではないか。

「……じろうさん、秋次郎さん?」

「え?」

「どうしたの? なにか考えごと?」

 我に返ると、二瀬が実に愛らしい笑顔で私を覗き見上げていた。

「いや、なんでもない。それでは済まんが、私は今日から再び結衣さんの弁当だ」

「分かった。僕も一緒にいい?」

「いいとも」

  

 学級へと帰り、私がちょうど運動着から制服へと着替え終わったとき、パンのたぐいで大きく膨れた袋を片手に、二瀬が満面の笑みで私の席へとやってきた。

 未だ運動着のままだ。どうやら、着替えるより先に売店へと行ったらしい。

 見ると、袋と反対の手に、頁を差し込んで使う固い表紙の帳面を抱えている。

「間に合った。柏森さん、まだだね。ところで秋次郎さん、これ、ちょっと見てくれる?」

 私の隣の机に袋を放り投げた二瀬が、その空席に腰掛けつつ、抱えていた帳面を開いて見せた。

 しとやかな字。

 どうやら、自身で書き付けた帳面らしい。

「インターネットや市販の本なんかでいろいろ調べたんだけど、確かに、『川島秋次郎』という名前の海軍軍人さんの名前は、いくつかの資料に出てくるね」

「そうか。私はいつどこで死んだのだ」 

「いや、それが、特攻隊とか戦没者名簿とかもいろいろ見てみたんだけど、正確な日付や場所が載っているものはなかったんだ。もうこのへんが限界かも。あとは、海上自衛隊で保管されている旧海軍の資料を見ないと難しいみたい」

 二瀬は、はらりと頁をめくり、そこで突然ハッとして、帳面に張り付けた書籍の複写を手で覆い隠した。

「ん? どうしたのだ」

「いや、これはあんまり見ないほうがいいかも。これ、戦死者名簿のコピーだから」

「どうせ私の名があるのだろう? 別に落胆したりはせん」

「そ、そう? それならいいけど」

 どうやらそれは、公立図書館にあった書籍の写しらしく、そこには戦友たちの名がずらりと並べ記されていた。

 そして、二瀬が付けた小さな印と共にそこにあったのは、懐かしい名前たちに混じって整然としている、私の名。

『川島秋次郎 飛行兵曹長 福岡県小倉市』

 確かに、私の名だ。

 階級が、『飛行兵曹長』となっている。

 『飛行兵曹長』は、いまの私の『上等飛行兵曹』のひとつ上の階級だ。

 戦死すると、海軍の人事担当者から、その者の地元の首長宛てに『戦死通知』が送られる。

 そしてほとんどの場合、その中に『戦功ニヨリ特ニ進級』などと書き添えられ、階級名を付して、戦死により特進した旨が記されていた。

 それからすれば、私は間違いなく『戦死』している。

 他に記された名は知らぬものも多いが、ちらほらと、最後の最後に岩国で共に誓いを立てた戦友たちの名も見ることができた。

 岩国での教育隊再開隊の折、我々れに与えられた任務は、一命を以って本土防衛に資さんと名乗りを上げた若き志願兵たちを、すぐにでも前線の空で戦えるようにすることだった。

 しかし、その勇ましき姿に胸を熱くしたのも束の間、着任後数日もしないうちに、その兵たちの本当の任務が、『一機一艦撃沈』、すなわち、飛行機で敵艦に体当たりすることなのだと悟った。

 一瞬当惑したものの、それはすぐに武者震いへと変わって一気に体が熱くなり、「よし、やってやるぞ」と、血が体の隅々まで濁流のごとく駆け巡ったのを覚えている。

「ごめんね? 秋次郎さん。結局分かったのは、『おそらく戦死しただろう』ってことだけ。せめて亡くなった日だけでも分かればって思ったんだけど」

「いや、気にするな。そうだな、もしかすれば正式な戦死扱いではなく、あの光る雲の一件で『行方不明』とされたままだったのかもしれん」

「うーん、その光る雲もね、異常気象の一種なのかとも思っていろいろ調べたんだけど、これも全く記録がなくて……。昭和二〇年四月七日の九州は全般的に曇りで、一日中どんよりとした天気だったみたい」

 二瀬が苦笑いで眉尻を下げる。

 男にしておくのがもったいない、女であればさぞかし気配りの利いた良い女房になったであろうと、二瀬の淡い微笑みを見て、そう思った。

「あ、そうだ。四月七日といえば……、秋次郎さんはその日にこっちへ来ちゃったからたぶん知らないよね。その日は、戦艦大和が沈んだ日で有名なんだ。秋次郎さん、大和、知ってる?」

 大和か。

 大東亜戦争が始まってすぐ、我が帝國海軍の象徴たる、とてつもない不沈艦が就役したと聞いた。

 その艦名が、『大和』ということはもう少しあとで知ったが、聞こえてくる噂は、象徴たるくろがねの城には相応しくないものばかり。

 どでかいばかりで役に立たんとか、お偉いさんを乗せて逃げ回っているだとか。

 ついには、『大和ホテル』などと揶揄する者まで現れた始末。

「知ってるとも。私は実物はお目に掛かったことは無いが。そうか、同じ日か。武蔵と同じく、大和も沈んだのだな」

「戦艦大和の最期は、たくさん映画にもなっているよ? 今度、DVDを一緒に――」

 帳面をしまいながら二瀬がそう言いかけた瞬間、突然、前のほうで大きな声が聞こえた。

「なんで通してくれないのっ?」

 悲壮感に満ちた、聞き慣れた声。

 思わず目をやる。

「マネージャーのくせに練習にも来ないようなヤツは立入禁止だ!」

「はぁ? 先生にはちゃんと許可とってあるもんっ! 通してよ。ちょっと一緒にお弁当食べるだけじゃないっ」

「誰がこの教室で食っていいって許可したんだよぉ!」

 結衣さんだ。

 弁当袋を抱えた結衣さんが、学級の出入口で赤坂の腰巾着の男子学生に足止めされている。

 あのニヤけた、お渡り食器のような顔を見ると虫唾が走る。

 私はすぐに立ち上がった。

 心配そうに二瀬が私を見上げる。

「秋次郎さんっ」

「構うな。怪我はさせん」

 また両親の顔に泥を塗るわけにはいかん。

 息を整えつつ、ゆっくりと歩みを進める。

 結衣さんは必死に抵抗している。

「もう、何よ! じゃ、渡すだけならいいでしょっ? ちょっとどいてっ!」

「よこせよ、俺が渡してやっからっ」

「ちょっ、触んないでっ!」

 ついに腰巾着が弁当袋の端を掴んで、ぐいぐいと引っ張りだした。

 幼稚だ。

 幼稚極まりない。

 これが十七歳にもなった男子がすることか。呆れ果てて開いた口が塞がらない。

 私が腰巾着の背面から近づくと、その肩越しに、結衣さんが今にも溢れんばかりに雫を湛えた瞳を私へ向けた。

「悠くんっ!」

 腰巾着が振り返る。

「お? なんだよ、横田。さっきはえらくかっこつけやがって。この前の練習試合も来なかったくせに」

 どうも、この腰巾着も赤坂と同じく蹴球部らしい。

 私が運動の時限に少々活躍したのが気に入らんということだろう。

「おい、その手を離せ」

「あー? だいたい、女に弁当作らせて教室で食うとか、見せつけてんじゃねぇよ。よそ行って食え」

「要らぬ世話だ」

 私はおもむろに結衣さんとの間に割り込み、弁当袋に掛けている腰巾着の手首をがしりと掴んだ。

 鋭い眼光を向け、じわりと力を入れる。

「離せと言っている」

「痛ててて!」

 結衣さんがハッとして私を見た。

 分かっている。怪我はさせん。

「おいっ、横田! お前、赤坂のときみたいに俺をぶっ飛ばすつもりか? 俺の母さん、PTA副会長だからな? どうなるか分かってるだろうな?」

 ピーなんとかとはなんだ。

 言い方からすれば父母会のことだろうが、それならばなおのこと、こやつは赤坂を凌駕する出来損ないだ。 

「そうか。なら、お前はそのご立派な役職に就いている母親を笠に着た上、その顔に泥を塗って恥をかかせて回っているわけだな」

「は? なんて言ったんだ? 意味分からん」

「子は親を映す鏡だ。お前が愚行を為すことは、そのまま我が親は馬鹿だと周囲に宣伝しているようなものだ。その程度のことも分からないのか?」

「ぐこう?」 

 ポカンと口を開ける腰巾着。

 すると結衣さんが、腰巾着の手首を掴んでいる私の腕をじわりと引き寄せる。

「悠くん、あの……」

 私は結衣さんをかばうようにその前に立ち、そして少しだけ後ろを向いて、諭すような声音で申し向けた。

「女は黙っていろ」

 ハッと顔を上げた結衣さん。

 一瞬、その愛らしい瞳を大きく見開き、それから急に佇まいを正して、結衣さんはその瞳をゆっくりと足元へ向けた。

「は……、はい」

 至極素直な返事が、ぽつりと背後で聞こえる。

 私は、改めて腰巾着へと眼光を放った。

「貴様、恥ずかしくはないのか? 相手は女だ。女相手にそのような幼稚な嫌がらせをして、男としてのきょうはないのかっ」

「きょうじ? お前、さっきからなに言ってんの? だいたい、相手が女だったらなんだっていうんだよ。女だって嫌がらせしてくるじゃん」

 話にならん。

 私は掴んでいた手にむんずと力を入れ、そのまま腰巾着の手を弁当袋からじわりと引き離した。

「痛ててて! なにすんだよっ!」

「お前が女から嫌がらせを受けているのであれば、それはお前が浅慮で、男のくせに女を護ろうとしない安い男だからだ」

 突然すうっと学級内の喧騒が静まり、級友たちが我々のほうを注視し始める。

「は? 意味分かんね。何で男ばっか守らなきゃなんないんだよ。日本は男女平等だろうが」

「男と女が全てにおいて平等になることは、絶対に有り得ない」

「ははっ! お前、男尊女卑か!」

 私の腕に掛けている結衣さんの手に、じわりと力がこもったのが分かった。

 周囲はしんと静まり、級友らはただかんもくして立ち尽くしている。

 私は構わず続けた。

「いいか? 男と女は、生まれながらにして心も体も造りが違う。だからこそ、互いにそれぞれの性分で精いっぱい相手を思いやるのだ。それが男と女というものだ」

「……は?」

「男は己に尽くす女を護り、女は己を愛しみ護る男に尽くす。それが在るべき姿だ。お前は護らないから尽くされないのだ」

「え? ええ? お前、頭大丈夫か?」

 腰巾着がやや顔を歪めて、一歩退いた。

「秋次郎さん……」

 結衣さんが小さく呟いて、じわりと私の腕を抱く。

 私は、その手にそっと手を重ねた。

「男は、己のことを真に思い尽くす女を、あらん限りの力で精いっぱいに護るのだ。軍人は、そのために命を懸けて戦地へ行く」

 腰巾着は、大きな口を開けてポカンとしている。

 結衣さんはそっと私の腕に頬を寄せて、そのまま黙っていた。

 水を打ったように、しんとする学級。

 するとどうしたことか、突然、学級の後方でパチパチと拍手が聞こえた。

 思わず目をやる。

「いいじゃん、横田くん!」

 声を張り上げたのは、ひとりの女学生。

 さらに、数人がこれに続いた。

「かっこいい!」

「男はこれくらいなくちゃ!」

 あれよあれよと次々に女学生たちが賛同の意を口にし、やがて賞賛の拍手の嵐が学級中に巻き起こった。

 呆気にとられる。

 結衣さんは、未だに私の腕にしがみ付いている。

 その割れんばかりの拍手に気圧されたのか、腰巾着はのけ反ってきょろきょろと周りを見回した。

「え? 何だよ。俺が悪いみたいじゃん」

 すぐ近くに居た女学生たちが、これに応酬する。

「は! こいつ、悪くないと思ってたんだ。どんだけ低脳なのよ! ウケる!」

「ほんっと! ガキだわ、ガキ」

 泳いだ目を下に向けた腰巾着。

 さっきまでの威勢の良さはどこへやら、急に猫背になった腰巾着はポケットに手を突っ込みながら唇を尖らせた。

「いや、俺はただ、リューキチ先輩が……、あ」

 なにやら、本件の首謀者と思しき名を口にしたあと、腰巾着は「しまった」という顔をして動きを止めた。

 はやしていた女学生も動きを止めている。

 私は一歩踏み出し、語気を強めた。

「ほう、またその名が出たな。貴様は――」 

「いいい、いや、なんの話だっ? 俺はただ、えっと……、ちょ、ちょっとトイレ」 

 そう言うと、腰巾着はいよいよ留まりなく目を泳がせながら、まるで脱兎のごとくその場を去った。

 一瞬の静寂。

 そしてドドッと爆笑が起きて、それからすぐに談笑が飛び交う和やかな学級へと戻った。

「結衣さん、大丈夫ですか? さ、結衣さんが作ってくれた弁当、頂いてもいいでしょうか」

「えっと、あの、その……、はい」

 少々怖がらせてしまったかもしれないが、あれが私ができる精いっぱいの、『現代の世にならった護り方』だ。

 サッと私の腕から離れた結衣さんは、先ほどの私の語気が毒気となったのか、顔を赤らめて目を泳がせている。

 気分が悪いのだろうか。

 すると、視線の先で二瀬が大きく手を挙げた。

「悠真くん、柏森さん、一緒に食べよっ?」

「ああ、二瀬、待たせてしまって悪かったな」

 そう言いつつゆっくりと自席のほうへ近づくと、二瀬がニコニコと笑いながら椅子を引いて、「ここに座れ」と結衣さんに促した。

 しかし結衣さんは腰掛けず、弁当を胸に抱いたままそこに立ち尽くしている。

 いよいよ心配になる。

「どうしました? 私のせいで具合を悪くしてしまいましたね。申し訳ありません」

「え? ううん。そんなことないよ?」

 すると二瀬が、なんとも得意気な顔になって、鼻を鳴らして結衣さんの顔を覗き見上げた。

「あ、そっか。秋次郎さん、かっこよかったもんね」

「え? あの、その……、うん」

 どういうやり取りなのか意味が分からんが、二瀬はそれからケラケラと笑って結衣さんを椅子へと促し、一番大きなパンの袋をバリリと破った。

 何事もなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻した学級。

 結衣さんが拵えた弁当は、今日もなかなかに旨い。

 しかし、三人で昼餉を食す間、なぜか結衣さんはずっと俯いて、言いたいことを言い出せずに困っている子どものような顔をしていたのだった。


 放課になっても、初夏の空はまだ蒼々としていた。

 もう夕刻だというのに、柔らかな陽光は沿道の小枝に茂る濃緑を鮮やかに照らし出し、無味な街並みに豊かな彩りを加えている。

 今日も、いつもと同じように結衣さんと並んで校門を出た。

 二瀬は塾だそうだ。感心して、秀才もそうして誰かに習うのだなと言ったら、「努力によって結果が残せているだけで自分は秀才ではない」と言って、頬を赤らめて謙遜していた。

 坂下の停留所。

 この世界のバスにも、もう慣れた。

 セルロイドでできた札の中に現在の持ち金を覚えておく装置が入っていて、その札から電波で運賃を引き落としているという仕組みも、なんとなく理解できるようになった。

「秋次郎さん、ちょっと買いたいものがあるの。帰りに寄り道するね?」

 いつもなら、モノレール沿いを下るバスへと乗り換える巨大駅。

 今日は、結衣さんの希望で乗り換えを遅らせて、駅の店屋へ道草だ。巨大駅の中は、家路を急ぐ者が多いのか、どこも速足の歩みが目立っている。

「あの……、ちょっと聞いていい? 秋次郎さんの幼馴染みって……、どんな人?」

「え?」

 昼からずっと調子が悪そうにしていた結衣さんが、動く階段に乗ったところで私を見上げながら口を開いた。

 やはり少々、力ないように見受けられる。

「そう言えば、詳しくは話していませんでしたね。私の幼馴染みは、『志保』といいます。私のふたつ年下で、ちょうど結衣さんと悠真くんのように、小さいときから家がすぐ隣で」

「付き合ったりしてなかったの?」

「付き合う? 男女交際のことですか? 現在の男女交際とは少々違うかもしれませんが、私自身は、『身を固めるならば志保と』と、ずっとそう思っていました。志保もそう思ってくれていたようです」

「ふうん。じゃ、その思いを果たせないまま、こっちへ来ちゃったんだね。もしかして、もう結婚まで近かった? 志保さん、かわいそう」 

「いや、そんな話は――」

 そう言いかけたとき、ちょうど上階へと着き、足が動く階段の端に引っ掛かった。だいぶこの世界には慣れたが、この動く階段だけはどうも苦手だ。

 よろけた足を何事もなかったかのように踏み出し、ちょっと咳払いをする。

「んんっ、いや、それはまだずっと先の話でした。実は、海軍に志願して三年目、昭和十五年でしたか、私が二〇歳はたち、志保が十八歳のとき、志保から結婚を申し込まれましてね」

「志保さんのほうから?」

「はい。当時は、結婚というのは親が決めるものだったのですが、志保は、『日本は本気でアメリカと戦争をやるらしい』という話をどこかで耳にしたらしく、どうしてもその前に私と結婚したいと言い出しまして」

 辿り着いた階は、玩具や模型などを扱う店が軒を連ねていた。

 やや俯いた結衣さんが、じわりと私を追い越す。

「でも……、断ったんだ」

「はい。戦争が終わって、私が生き残っていたら一緒になってくれと頼みました。まずは戦って、護るべきものを護ったあとでなければ、駄目だと思ったのです」

「そっか。戦って護るって、覚悟をしてたんだ」

「そんなに格好いいものじゃありませんけどね。志保はとても気立ての良い女でした。私の女房にはもったいない。温和で思いやりがあって、家事もすべてにおいてそつなく、両親自慢の娘でした」

 そう私が言葉を切ったところで、先を行く結衣さんが突然立ち止まった。

 そしてゆらりと振り返り、眉尻を下げて首を傾ける。

「どうしました?」

「あの……、いまも志保さんのこと好き?」

 年頃の女学生らしく、結衣さんもこういう話に興味があるのだろうか。しかし、私自身は、いままでそんなことを真剣に考えたことはない。

「そう……ですね。現代の人は、そういう言葉を易々やすやすと口にできるので羨ましいです。現代を知っていま思えば、もっと素直に、自分の想いを言葉にして伝えてやれば良かったかと思います」

「ふうん」

 なにやらつまらなそうに、そう小さく返した結衣さん。

 あまり面白味のある話でもなし、その反応は当然だろうと少々苦笑いが出た。

「あ、ここだ。秋次郎さん、ちょっと待っててくれる?」

「え? は、はい」

 突然、結衣さんが店へと駆け込む。

 ちょうどそこが目当ての店だったらしく、私に店の前で待つように言い付けて、結衣さんは店の奥へと行ってしまった。

 ぷつんと糸が切れたように会話が終わり、所在なくそこに立ち尽くす。

 見ると、周りはなんとも賑やか。

 色とりどりの玩具たちが処狭しと並び、私を買い求めてくれと店先を通る客にせっせと音や光で売り込みをしている。

 別の棚には、外国製の拳銃が置かれていた。私の時代では、警察署の許可があれば誰でも銃を持てたが、この現代では猟に使う以外は持つことが禁じられているらしい。

 よって、あれは模型だろう。それにしてもよくできている。

 さらに、戦艦や戦闘機のほか、なにやら宇宙を飛ぶ赤や緑の鎧人形の絵が描かれた箱も大量に並べられていたが、開けてみると模型は入っておらず、代わりにセルロイドのようなものでできた部品群が重ねて入れられていた。

 どうやら、これらを自分で組み立てて絵柄の模型を完成させるもののようだ。

 そうして賑やかな玩具屋を眺めていると、脇からひょいと愛らしい顔が覗いた。

「秋次郎さん、お待たせ」

 満面の笑みの結衣さんは、小さな紙袋を手に提げている。

「目当ての品はありましたか?」

「うん! さ、帰ろ」


 巨大駅の吹き抜けは、今日も行き交う人々で賑わっていた。

 見上げると、モノレールの列車が天井すれすれにすっぽりはまって停車している。

 先ほどから、かすかに楽団の演奏が聞こえていたが、そのわけがここまで下りてきてようやく分かった。

 改札の前、ちょうど吹抜け広場の真ん中あたりで、吹奏楽団の演奏会が行われている。

 格好からして、どうやら我が校の学生のようだ。

 結衣さんが足を止めた。

「秋次郎さん、ちょっと聴いていってもいい?」

「どうぞ」 

 ニコリとした結衣さんの背中を追って、私も人垣の一部となった。

 あでやかな演奏がちょうど途切れる。

 見ると、いままで演奏していた楽団員たちが楽器と椅子を持って捌け、そこに新たに四脚の椅子が並べられた。

 改札を背に、司会を務める女学生がマイクロフォンに口を開く。

「次は、昨年のアンサンブルコンテストで金賞を受賞しました、サックスパート四人によるサックスアンサンブルです」

 その紹介を受けて人垣の向こうから登場したのは、大小のサクソフォーンを抱えた四人の女学生たち。

 いわゆるサクソフォーンカルテットだ。

 皆、制服の上に、揃いであつらえた象牙色の背広を着ている。

 結衣さんが彼女らに向けて手を振ると、それに気が付いたカルテットのひとりが軽く手を振り返した。 

 そして各々おのおのが椅子に腰掛け、楽器の調整を始めると、さらに司会の声が響いた。

「演奏する曲は、ドラマやCMで有名な、『彼方の光』です」

 実は、私は吹奏楽になど全く興味はない。

 海兵団卒業の折、鎮守府司令長官視閲で一度だけ軍楽隊が演奏していたのを見たことがあるが、私は興味がないどころか、その軍楽隊を見て兵隊が楽器なぞ鳴らしておって戦争に勝てるのかと、少々腹立たしく思ったくらいだ。

「それではサックス四重奏、『彼方の光』、ごゆっくりお聴きください」

 うやうやしく上げられた司会の手が下ろされると、一瞬の静寂が広場を支配した。

 四人が互いに目で合図して、一斉にふわりと体を揺らす。

 木管の柔らかな響きが、ゆっくりと、そしておごそかに流れ出した。

 しなやかに紡ぎ出される旋律。

 それが無味な空間であった改札前の広場を満たし、この世のものとは思えないほどの豊かな河流となって私を包み込んだ。

 肩が軽くなる。

 背中にじわりと広がった温かな感覚。

 訪れたのは、まるで母親に抱きしめられているかのごとき安らかさ。

 私は陶酔した。 

 いつの間にか我を忘れて、その清らかなる旋律に陶酔したのだ。

 四人の女学生が奏でるサクソフォーンの音色が、得も言われぬ優しさで心を満たしていく。

 ふと、誰かに名前を呼ばれた気がした。

 突然、頬に走る雫を感じる。

 なぜだろう。

 楽団の演奏なぞで感動するなど、いままで一度もなかったというのに。

 思わず、天を仰いだ。

 それでも雫は走ることをやめない。

 見上げた、広場の天井。

 そこには巨大な円形の明り取りがあり、白い天幕が張られていた。

 そして、その天幕から溢れた天の光が、荘厳な筋となって私に降り注いでいる。

 まるで、大聖堂のてんがいのよう。

 ああ、これはあの光だ

 私をここへと連れて来た、あの眩い光。

 ふと、志保の顔が浮かぶ。

 志保は、幸せになってくれただろうか。 

 そう心の中で呟くと、私を包む光の筋がゆっくりと収束した。

 光の廻廊。

 その中心を清らかな旋律が昇ってゆく。

 志保よ、戦友たちよ、いずれ私もそこへ行く。

 この曲の題名のごとく、遥か彼方の光を追って、清き空へと舞い上がるのだ。

 そして、魂がどころとする、生命の源へと帰ってゆくのだ。

 皆、待っていてくれ。

 きっと私はいま、道に迷っている。そこへ行く途中で。

「秋次郎……さん?」

 ハッと我に返ると、結衣さんが柔和な笑顔で私を見上げていた。

「すみません、なぜか急に」

「ううん。いい曲だよね。何か思い出してた?」 

 そう言って結衣さんはハンケチを取り出すと、そっと私の頬へと当てた。

 花のような甘い香りがゆらりとする。

「この曲には歌詞があるの。私がどんなに遠くへ行っても、あなたは私を呼んでくれて高いところへ導いてくれる、って感じの」

「賛美歌なのですか?」

「あたしには、神様をたたえるというより、先に逝ってしまった愛する人にもう一度会いに行く歌に聞こえるけどね」

 そう言って結衣さんはハンケチをしまいながら、少し目を伏せて言葉を続けた。

「志保さんに、いつかまた会えたらいいね」

 広場に響き渡る、観衆たちの割れんばかりの拍手。

 私もその拍手に加わる。

 すると、結衣さんが拍手の手を止めて、先ほど玩具屋で受け取った手提げ袋をそっと胸に抱き寄せた。

「やっぱり……、いま渡そうかな。恥ずかしいから、別れる寸前に渡そうと思ってたんだけど」

 独り言のように、そう言った結衣さん。

 そしてほんの少しの間があって、結衣さんが私を見上げながら胸の紙袋をゆっくりと差し出した。

「秋次郎さん、これ、ちょっと遅くなったけど、誕生日プレゼントね」

 突然のことに、少々茫然とする。

「え? 先月、皆さんで祝って頂いたときに菓子をもらったではありませんか」

「うん、あれは悠くんのぶんね。今日はちゃんと、秋次郎さんのためのプレゼントだから」

 紙袋には、ビロード風の紺色の布が貼られた小箱が入っていた。

 小箱を手に取り、飾り紐を解いてそっと開ける。

 するとそこにあったのは、実に美しい金色の金属札。

 札の中央には、我が大日本帝國海軍の記章が彫りこまれていた。

「これ、キーホルダーね。裏も見て」

 やや放心としつつおもむろにそれを裏返すと、そこに彫られていたのは、『AKIJIRO』の文字。

「結衣さん……」

「この世界では、秋次郎さんの本当の名前が書かれたものがひとつも無いから。よかったら持ってて」

 思わず、また上を向いた。

 広場では、次の演奏が始まっている。

 先ほどまで煌々と降り注いでいた天蓋の光はやや穏やかになっていて、広場の隅々まで柔らかく拡散していた。

「さ、帰ろっか」

 そう言って、愛らしい笑顔で首を傾けた結衣さんがゆっくりと向けた背を追って、私も小さく足を踏み出した。

 そして私は、「ありがとう」と、その背に声にならない声を投げたのだった。 

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