[2-1] 鉄槌

 しとしとと、といを流れ落ちる雨。

 梅雨の様相は、いまも昔もそう大差無いようだ。

 垂れ込めた鉛色の雲から落ちた雨粒が、バスの窓ガラスに斜めの軌跡を残していく。

 私と結衣さんを乗せたバスは、モノレールの軌道の下をゆっくりと進んでいる。

「緊張する?」

「そうですね。全く未知の世界ですから。少々、恐怖を感じます」

「あら、筋金入りの海軍魂はどこへ行ったの? それとも昭和二〇年から幼馴染みさんに来てもらう?」

「これはまた、ずいぶんとしんらつですね」

「あはは」

 あどけない笑顔のまま投げ掛けられた、実に意地悪な文言。

 何かのついでに、結衣さんにとっての悠真くんと同じように、私にも無二の幼馴染みの娘が居たという話をしたものだから、ここ数日はこの調子だ。

 ただ、『志保』という名前も教えていないし、結衣さんがかなりその志保に似ていることも話していない。

 まぁ、こんな感じではあるが、結衣さんはいつも天真爛漫で嫌味がない。全く腹も立たない。腹立つどころか、可愛げにさえ見える。

「海軍魂は昭和二〇年にほとんど置いてきてしまいました。それから、幼馴染みは呼ばないでください。叱られますので」

 最近は、こんな甲斐性があったのかと自分でも驚くほど、このような軽々とした冗談を口にできるようになった。

 今日から、学校へ行く。

 開襟の半袖ワイシャツと、黒ズボン。

 襟元に金属の学章を装着するところは、やや軍服に似ている。冬用制服は、軍服とは全く異なる背広式のハイカラなものらしいが。

「秋次郎さん、もう少ししたら一回降りるよ。乗り換えるから」

 緑豊かな広大な公園。

 その隣を、バスがゆっくりと通過してゆく。

 見ると、公園と道を挟んだ対面に、堅牢な石垣を従えた天守がたいぜんじゃくとしている姿が目に入った。

 小倉城だ。

 そうか、そうすると、この公園こそがかつての陸軍師団の跡か。

 かの師団のすぐ横には、帝國随一の巨大な兵器工廠があった。

 私の零戦が謎の雲に飲み込まれる寸前、眼下に広がっていたその兵器製造の拠点。そして、それを囲む雄々しき軍都。

 しかし現代のそれは雨に打たれて、いよいよ緑濃くしっとりとした安寧をかもし、その昔にあまの軍靴の音が乱舞していたことを全く想起させない、穏やかな情景を描き出していた。

「ここで降りるよ。この上が学校ね」

 停留所は、高校があるという丘のすぐ下にあった。

 結衣さんと並んで、正門までの緩やかな坂道を登っていく。雨はずいぶん小降りになって、傘を差していない学生も居た。

 突然、右手の視界が急に開ける。立派な門柱の正門があり、その奥に整然としている校舎が見えた。

 校舎の手前中央に、何かの象徴のように一本の蘇鉄が厳然と立っており、その周りを自動車がぐるりと回れるようになっていた。

「ここが、学校なのですか?」

「うん。なにか変?」

「いえ、私が知っている学校とはずいぶん違うもので」

 きょとんとする結衣さんの向こう、校舎だという四階建てのコンクリートの建物は、まるで病院のよう。学校特有の三角屋根は無く、なんとも無味乾燥な佇いだ。

 そのせいだろうか、『まな』という呼び名が全く以って不相応な、とても冷たい印象を受けた。

「秋次郎さん、お弁当のときに教室に行くから。待っててね」

 聞けば、残念なことに結衣さんとは別々の学級らしい。

 なんとも言い表しようのない憂惧がじわりと背中を這ったとき、突然、私の背中に衝撃が走った。

 バシッと乾いた音が響く。

「痛っ!」

「おお、悠真っ! 悠真じゃねぇか!」

 振り返ったそこに居たのは、やや赤茶けた髪の、なんとも落ち着きのない男子学生。

 すると、結衣さんがさっと踵を返し、私とその男との間に割って入った。

「もう、突然叩いたりしないでっ。秋次……、んんっ、悠くん、びっくりしてるじゃないっ」

「なんだよ、マネージャー。どんだけ悠真が好きなんだよ。こんなに元気になってんなら、早く練習来させろよ。見舞いだってずっと断りやがって。お前の仕業か、かしわもちめ」

「柏餅じゃないっ。かしわもりっ、柏森結衣よっ? 仕方ないじゃない。周りぜんぶ知らない人ばっかりなんだから、会えば会うほどストレスになるのっ」

 結衣さんが怪訝に眉をひそめて、思い切り口を尖らせている。

 なんなのだ、この小学生のような男は。

「俺と会ったら記憶なんてすぐ戻るのにっ。悠真、もう練習できるんだろ? 来週、練習試合があんだけど」

「サッカーもまだ無理なのっ」

「お前、マネージャーの役目を果たせよなっ? なぁ、悠真、今日から練習に――」

「ちょっと」 

 手を延ばして結衣さんが制止しようとした瞬間、その男は無遠慮にも結衣さんの肩に手を掛け、それからずいぶんとぞんざいに押しやった。

「おいっ!」

 思わず声が出た。

「ひっ? な、なんだよ、悠真」

 私は活火激発の寸前で手を止め、それから刺し貫かんばかりの憤激を秘めた眼光を男へと放った。

「え……? ええっと、なんだよ悠真。俺、なんにもしてないじゃん」

「それでも男かっ。女に手を上げるとは」

 私の言葉に、結衣さんがハッとこちらを振り返る。

「悠くん、大したことじゃないの」

 我に返る。

 私は無意識に入っていた腹の力を緩め、それからゆっくりと息を吐いた。

「なんだよ、ほんとに忘れてやがんのか」

「だから言ってるでしょ? 不安でいっぱいなんだから、あんまり刺激しないで」

「マジかよ。ふーん、それなら一応自己紹介な。俺はあかさかしょう。お前とは同じサッカー部だ」

 男は腰に手を当て、実に居丈高だ。

 私が男の言葉になにも返さずただじっと睨み付けていると、結衣さんがもう一度、ゆっくりと私と男の間に入った。

 そして顔半分振り返り、小声を向ける。

「赤坂くんはサッカー部で、悠くんが雷に打たれたとき一緒にサッカーの練習してたの。そして悠くんとは同じクラスよ。お願い、ケンカしないで」

 結衣さんのその言葉に私はぐいっと口を一文字に結び、それから結衣さんの肩越しに男に視線を向けた。

 赤坂なる男が、ニヤリと口角を上げる。

「倒れた悠真を最初に抱き起こしたのは俺なんだぜ? まぁ、それも忘れてんだろうな」

「そうか。それは手数を掛けた。礼を言う」

「は? なんだそれ。演技なら大概で臭いぜ?」

「演技?」

 拳を握って一歩踏み出そうとしたところに、再び結衣さんが立ち塞がった。

 じっと私を見る結衣さん。

 そして、その唇が声無く動く。

『秋次郎さん、お願い』

 私は小さく、「すみません」と息を吐いた。

 するとすぐに、結衣さんの向こうで赤坂なる男が声を上げる。

「あーあ、なんか面倒くせえなぁ。まぁ、練習試合までには俺のこと思い出してくれよー? 記憶喪失ちゃん!」

 再びバシッと乾いた音が鳴る。

 通り過ぎざまにこれでもかと私の背中を叩くと、赤坂なる男子学生はケラケラと笑いながら駆け出して行ってしまった。

 非常に不愉快だ。

「ごめんね、秋次郎さん。あれはあれで一応心配してるんだと思うから、気を悪くしないで」

「あれで? はぁ、未来人の感覚はよく分からん」

「ごめんね。あ、先生だ。悠くんの担任の先生だよ? じゃ、お昼にね」

「はい」

 職員用だという玄関の前。

 担任だという戦車のような大柄の教師が現れ、私を結衣さんから引き離して学級へと連れて行った。

 この教師、なにやら陸軍が『チハ』だとか、『チホ』だとか言っていた戦車のようにいかついというのに、教える学科は英語だという。この教師のどこを叩けば、そんな繊細さが出てくるというのだ。

 学級へと連れて行かれ、見世物を見るような級友らの衆目の中で座れと言われた席は、一番窓側列の最後尾であった。

「みんな聞いてくれ。まだ完全には記憶が戻っていないそうだが、学校生活が回復を早めるかもしれないということで今日から登校するそうだ。横田が困っていたらみんなで助けてやるんだぞ」

 戦車教師が教壇でそう皆に申し向けると、笑みとも当惑とも取れない面持ちの級友たちが、ちらちらと私のほうを振り返った。

 私の顔に目をやりつつ、隣同士でひそひそと話をしている者も居る。

 級友が九死に一生を得て帰還したというのに、実に軽薄だ。

 もしや横田悠真は、皆からうとまれていたのだろうか。しかし、結衣さんによれば、皆の人気者であったとのことであったが。

 しばらくして、級友らの奇異の目に慣れて落ち着くと、どうも周囲の様相が鼻について仕方なくなった。

 なんというか、なにやら小学校の休憩時間を見ているような、そのような様相。

 そして、いよいよ落ち着いたのちにさらに周囲を観察すると、どうしたことか、その鼻についたものが、いつしかなんとも言えない失望感へと変わった。

 いま、私の周りで談笑している高等学校の学生たちは皆、十六から十七歳のはずだ。

 しかし、あまりにも幼い。

 それは見た目ではなくて、人格自体が稚拙で未成熟のように感じるのだ。 

 じゃれ合う者。

 鬼ごっこや相撲をしている者。

 スマートなんとかを互いに覗き見合って、肩を揺すって談笑している者。

 どれもこれも、小学生のような稚拙さだ。

 落ち着いて書物に目を落としたり、国家の行く末について真摯に議論をしたりする姿は皆無。

 これが、高等学校の学生の姿か。

 十七歳といえば、私は練習艦の四等水兵として猛訓練に臨んでいた。戦時下特例の特別年少兵ならば、十四歳で歴戦の上官らと共に戦いの海へと赴いた。

 もちろん、明治の偉人たちの時代に比べれば、私のような大正生まれも歳の割に稚拙と言われるのかもしれないが、それにしてもこの子たちはひどすぎる。

 平和すぎるのが災いしているのか。

 それとも、人間の知性自体が退化しているのか。


 昼休憩となった。

 講義の始まりと終わりを告げるのはらっではなく、壁に取り付けられた拡声器から聞こえる鐘の音のような旋律であった。

 ほとんどが思い思いの者と机を合わせるなどして弁当を取り出していたが、何も持たずに学級を出て行く者も居た。どうやら別棟に食堂があるらしい。

 そうして周囲を見回しつつ、為すすべもなく独り机についていると、タタタと弾む足音とともに愛らしいその顔が我が学級の入口に現れた。

「悠くん、お待たせ! さ、お弁当食べよっ」

 隣の学級から駆けつけてくれた結衣さん。

 その手には、弁当と思われるフエルト生地の巾着袋をふたつ提げている。

「いいのですか? 日頃一緒に食べている級友とでなくて」

「うん。しばらくは悠くんと一緒に食べるって言ってあるから大丈夫」

 そう言って結衣さんは、ちょうど空いていた私の前の学生の椅子に座って後ろを向き、私の机の上にふたつの弁当を広げた。

 今日の弁当は結衣さんが拵えたものらしい。なかなか良くできている。

 先日、結衣さんの母親と対面する機会があったが、ああ、この親にしてこの子ありとてんがいく、なんとも良妻賢母を絵に描いたような温かみのある女性であった。

 結衣さんも、きっと良い女房になるだろう。

 そうして、嬉しそうに弁当を開く結衣さんに見入っていると、突然、頭のすぐ上からずいぶんとぞんざいな物言いが響いた。

「おっ? いいねー。愛妻弁当」

 見上げると、さっきの赤坂という男子学生。

 その横には、赤坂のこしぎんちゃくおぼしき、女のように髪を伸ばした芸者面の男も居た。

 ハッとした結衣さんが、弁当を手で覆いながらやや不機嫌そうに応える。

「なに? 羨ましかったら赤坂くんもお弁当作ってくれるような彼女作ったら?」

「うわー、リューキチ先輩が見たら、すっげー怒るだろうなぁ」

「あたし、あの人は嫌いなのっ! ずっとしつこくされて迷惑してるんだからっ。どうしてあんなのがサッカー部の主将なのよ」

「あんなの呼ばわりか。先輩に報告しといてやるからな。おおー、旨そうだな。ひとつ味見してやるよ」

 赤坂はそう言ったかと思うと突然、私の弁当の揚げ物をひとつ摘んで、パッと自分の口に放り込んだ。

「あっ!」

 結衣さんが泣きそうな声を上げる。

 一瞬の出来事。

 唖然とした次の瞬間、そのあまりの非道さに憤激が一気に私の脳天を突き破った。

 思わず赤坂の腕を掴む。

「おい、小僧」

「え?」

 目を丸くする赤坂。

 私は掴んだその腕をすぐさまひしぎ上げた。

「痛ててて! 何だよ、悠真」

「何だよではないっ! 貴様、それは結衣さんが私のために作ってくれたものだぞっ」

「き、きさま? 悠真、口が悪くなったんじゃね? い、痛ててて」

 腕をひしぎ上げたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 ちらりと、ポカンと口を開けて目を泳がす結衣さんの顔が視界の端を横切った。

「赤坂と言ったか? 貴様、ぬすっだぞ」

「はぁ? ちょっと食っただけだろ。ちゃんと俺の弁当から唐揚げ一個返してやるよ。それでいいだろ? なにマジになってんだよ」

 私の言っていることが通じていないのか、赤坂はなぜ私が憤慨しているのか理解していない様子だ。

 呆れ果てた。

 よくもまぁ、こんな道徳心の欠片もない子に育てられたものだ。

 親の顔が見てみたい。

「そんなものは要らん。結衣さんに謝れ」

「謝る? 何を。痛ててて!」

 この非国民め。

 腕をへし折ってやろうか。

「謝れっ!」

 私がそう声を荒らげてさらに掴んだ手に力を込めると、それを制すように結衣さんが立ち上がった。

「悠くんっ! もういいから、やめよ? ね?」

 いまにも雫が溢れ落ちんとするその瞳。

 しかしだ。

 十七歳だぞ?

 これは許されん非道だ。

 とうに義と礼節をわきまえていなければならないよわいの男子がすることではない。

 すると今度は、赤坂の腰巾着が割って入った。

「横田、放せよ」

 腰巾着が私の肩に横から手を掛け、私を引き倒そうとする。

「私に触れるなっ!」

「うわっ! 痛てぇぇぇっ!」  

 思わず足が出た。

 これでもかと太ももを蹴り飛ばされた腰巾着が床に転げる。

 その向こうで聞こえた、女学生のキャアという声。

 そのとき突然、学級中を揺るがす野太い怒号が響き渡った。

「こらぁっ! お前ら何しとるかぁっ!」

 皆が一斉に振り返る。

「やば、若宮だ!」

 見ると、担任の戦車が太い眉を吊り上げて、猿のように顔を赤くして駆け寄って来ている。

 教師か。

 ちょうど良い処へ来た。

 こやつを叱りつけてもらおう。

「先生、この盗人非国民にいんどうを渡してやってください。あろうことか、こやつは――」

 その私の言葉を遮って、駆け寄ってきた教師があわあわと両手のひらをこちらへ向けた。

「よっ、横田っ、手を離さんか! 暴力はいかんっ。みんなっ、なにがあったんだっ?」

 なんだ? この教師は。

 手を離せだと?

 事の真相を聞きもせずに、この盗人を放免せよというのか。

 唖然としていると、今度は太ももを押さえて床から起き上がった腰巾着が合いの手を入れた。

「先生っ、止めようとした僕も蹴られましたっ! 赤坂はちょっと横田の唐揚げをつまみ食いしただけでっ」

「は? そんなことでか」

 そんなこと……、そんなことだとっ?

 盗人だぞ?

 教師ならば、他人の物に手を出すくらいなら死ねとでも戒めるのが務めではないか?

 思わず眼光が戦車教師へと向く。

「教師よ、こやつは盗人なのだぞ? しかも自省の念の欠片も持ち合わせておらん、人倫にもとる輩なのだ。貴様がしっかりと戒めないか」

「え? な、何言ってるんだ? いや、とにかく暴力はいかん! 手を離せっ」

「何だと? 教師がそのようなことだからこんな浅慮な若輩が増長するのだ! 教師たるもの、不徳に臨んで正義のてっついを振り下ろせないでどうするかっ!」

 赤坂を掴んでいる私の腕に手を掛けた戦車。

 私は思わず、もう片方の手で戦車の手首を捻り離した。

「痛てててて!」

 軟弱極まりない。

 教師のくせに、このような愚鈍な小僧相手に手も上げきらんとは。

 いよいよ、憤怒が心頭にはちきれんばかりとなる。

 私は赤坂の腕をさらに絞り上げると、ぐいとその顔を引き寄せて眼光を注いだ。

「おい、謝るのか、謝らないのか!」

「痛てて! 何を謝るんだよぉ!」

「何を謝るのかだと? 許さんっ! 貴様のような出来損ないは、こうだっ!」

 鈍い音。 

 ひしぎ上げた腕を思い切り引き寄せ、脚を払う。

 ガシャリと椅子と机が撥ねのけられて、赤坂が床へ転がった。

 そして私は、そのうつ伏せになった赤坂の無様な背中に、これでもかと正義の引導を渡したのだ。

「思い知れ!」

 ドンという、痛快な振動。

 ふわりと舞った床埃。

 これでもかともんどころを踏み付けられた赤坂は、ううーっと小さな唸りを残して、それから泡を吹いて動かなくなった。

 これしきのことで失神するとは、軟弱極まりない。

 先ほどの威勢はどうしたのだ。

「きゃぁぁぁーっ」

 女学生たちの叫び声が響き渡る。

「きゅ、救急車だっ! お前たちこのまま赤坂を見てろ! 先生は職員室へ行ってくる! 横田ぁ! あとで話を聞くからなぁ!」

 捨て台詞を吐き、学級を駆け出てゆく戦車。

 その後ろ姿からゆっくりと横に目をやると、そこには茫然と立ち尽くす結衣さんの姿があった。


 その後、私は弁当も食わされずに会議室に軟禁され、大人しく沙汰を待つよう命ぜられた。

 長机の向こうでは、腕組みをした戦車がぎりぎりと歯を鳴らして私を睨み付けている。

 なんだ? その顔は。

 顔で威勢を示しているつもりか?

 あんなあんどんに、ビンタひとつ見舞えん腰抜けのくせに。

 その虚勢に辟易しつつ腕組みして宙を仰いでいると、午後最後の講義が始まる鐘が聞こえた。

 その鐘と同時に、会議室の扉が開く。

「こちらです」

 若い女教師に連れて来られたのは、ふたりの女。

 ひとりは悠真の母親。

 そしてもうひとりは、にわか成金のような、なんともひんのない中年女。

「ご無沙汰ね、横田くん。ふんっ、ずいぶんバカっぽくなったわね。記憶喪失は乱暴になるなんて知らなかったわ。なんか翔太に恨みでもあるの?」

 赤坂の母親か? 

 思わず、顎が落ちる。

 そくの非道を詫びるかと思いきや、耳を疑う呆れた物言い。

 間髪入れず、戦車が尻の下にでも仕込んでいたかのように立ち上がり、にわか成金に向けて背を丸めた。

「あ、この度はどうも、赤坂さん」

「先生? 翔太がやられたとき、先生はすぐ横に居たんですってね。いったい、何をしてらしたのかしら」

「す、すみません。一瞬のことでしたので」

 なんたる滑稽さ。

 戦車よ、さっきまで私を睨み付けていた威勢はどうしたのだ?

 もごもごと尻つぼみに口ごもると、戦車はそれから肩を小さくしてそのまま立ち尽くした。

 フンと鼻息を吹いたにわか成金が、じわりと悠真の母親のほうを向く。

「お弁当のおかずをひとつ食べたんですって? それくらい? そんなことであんなケガを負わせたっていうんですかっ?」

「申し訳ありません。治療費などはうちが――」

「いや、当然でしょ。警察呼びましたから」

 やれやれ、やはり、子は親を映す鏡とはよく言ったものだ。

 悠真の母親に吐いて捨てるように言ったあと、呆れかえった私の顔に気が付いたのか、にわか成金がぎりりと歯を噛んで私へと目を向けた。

「その顔、何? ほんと呆れたわ。記憶喪失だって聞いたから、優しくしてあげるようにって翔太にわざわざ言ってあげてたくらいなのに。どういう育て方してるのかしら」

 なんと勝手な言いぶん。

 お前の子育てのほうがどうかしているのではないか? その思慮の浅さを見事にお前の愚息が露わにしているぞ?

 私は溜息をついて、それからゆっくりと立ち上がった。

「ご婦人」

 にわか成金がギョッとする。

「ご婦人? あたしに言っているのかしら」

「そうだ。ご子息に対する私的制裁が少々過剰であったことは詫びる。巡査を呼んで司法に照らすというのであれば、座してその戒めを受けよう。しかし、その行為に至った大義は絶対に譲らん」

「は?」

 大口を開ける、にわか成金。

 構わず続ける。

「お前は他人の食糧を無断で食した息子の行為を、『それくらい』と評した。ならば、私も司法に問おうではないか。私の粗暴と同様、お前の息子が他人の物を窃取した事実も、人道に照らして『それくらい』か否かをな」

 そこまで言ったところで、母親が割り込んで私を制止した。

「悠真、あなたは黙ってて」

 突然、にわか成金がハッとする。

 なに、当たり前のことを言ったまでだ。私が粗暴のとがにんだと言うのならば、お前の息子も同様の盗人だと。

 唇の端を震わせて、私を凝視するにわか成金。

 私は一向に構わん。しっかり出る処へ出て、正々堂々とかみの前でやり合おうではないか。

 悠真の母親は、まるで米つき飛蝗バッタのように平謝りしている。

 謝ることなどない。

 あの息子を作った親だ。たかが知れている。

 その後、母親はにわか成金からずいぶんと下品な暴言を吐かれていたが、私はそっぽを向いて椅子に腰掛け、全く目も合わせなかった。

 聞けば、救護車両で病院へ運ばれた赤坂の負傷は、単なる打撲だという。まぁ、前線の兵ならば戦列から外されることなど絶対にない、軽傷中の軽傷だ。

 しばらくして巡査も来た。

 いろいろと尋問されたが、にわか成金が身内のことにて手打ちで終わると申し向けたので、巡査は、事件にはしないが児童相談所なる役所へ連絡だけすると言い残して帰って行った。

 自分で巡査を呼んでおいて、なんたる弱味噌か。

 巡査が引き揚げ、息子を看護しに帰ると言ってにわか成金が去って、私と戦車と母親の三人になったとき、ちょうど放課となる鐘が鳴り響いた。

 母親の自動車に乗せられ自宅に帰る。

 結衣さんも一緒だ。どうやら、結衣さんはずっと会議室の外で私を待っていたらしい。

 自動車が走り出す。

 空は淡く紅みを帯び、街並みは美しい朱色に染まっていた。

 押し黙る三人。

 後部座席で私の隣に座っている結衣さんは、ずっと窓の外へ目をやっている。

 モノレールの軌道から外れて周囲に田園が目立つようになったとき、母親が私へ顔半分向けて、なんとも白々しくその口を開いた。

「えっと、悠真、明日は学校どうする? 今日、こんなふうになっちゃったし」

「え?」

 思わずその横顔を覗き見上げた。

 なぜだ。なぜ怒鳴り散らさないのだ。

 茫然としている私を気に掛けてくれたのか、結衣さんが私に代わって母親へ言葉を投げた。

「おばさん、ごめんなさい。悠くんは、あたしのために」

「分かってるわ。悠真はどうしても許せなかったんだもんね。悠真、明日からまたしばらく休んでもいいよ?」

 義を貫くためとはいえ、親の顔に泥を塗る粗暴を働いたのだ。

 怒鳴り付けられるだけでは済まず、殴られ、倉に閉じ込められ、これでもかと懲罰を科せられるのが当然だ。

「お母さん、なぜ……怒鳴らないのですか?」

「うん? そうね、やり方はかなりマズかったし、こんなことは二度としてもらったら困るけど、でも、『許せない』って思った悠真の気持ちはとっても大事だから。お父さんにはちょっと叱られるかもね」

 ケラケラと笑う母親。

 なぜ笑っていられるのだ。

 すぐに結衣さんが身を乗り出す。

「おばさん、あたしからおじさんに話す」

 私はすぐに結衣さんの前に手を差し出した。

「ちょっと待ってください、結衣さん。それはお父さんのほとぼりが冷めてからお願いします。まずは、自分で話します」

 直後、そのやり取りを聞いた母親が大きな溜息をついた。

「はぁ、久しぶりに『お母さん』って言ってくれたのが、こんな日だとはねぇ」

 その夜、私は帰って来た父親の前にひれして、現代日本に馴染まない粗野な行為で迷惑を掛けたことを詫びた。

 しかし、あくまで詫びたのは行為だけだ。

 私が怒りを感じた大義については、どうあっても間違っているとは思えない。だから、これだけは絶対に謝らないと伝えた。

 父親はしばらく目を瞑って黙っていたが、やがてゆっくりと目を開き、「二度とするなよ? しかし正義は大事だ。その気持ちはそのままでいい」と言って、私の前を立った。

 そして、それ以上なにも言わずに、そのまま私を放免したのだ。

 平手打ちも、尻叩きも、納戸への閉じ込めすらもなかったのだ。

 子であってもひとりの人間として人格を尊重する、これがこの新しい日本の考え方なのか。おかげでひどいせっかんを受けずには済んだが、これには少々当惑した。

 この未来の子どもたちは、ひとりの人間として尊重される割には、それに見合うほどに成熟していないように見える。

 未成熟であるのに尊重されて当たり前という、義務を果たさず権利だけを主張するようなとくもの、私にはそのように見えて仕方がないのだ。

 立ち上がって私の背後へ歩んでいった父親へ、私は振り返って言った。

「お父さん、私は明日も学校へ行きます」

 父親は振り向かず、小さく右手を上げたあと台所の洋机について、そのままおもむろに夕餉を食しだしたのであった。

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