[1-3] 真実の在り処

 トントンと、扉が叩かれる音で目が覚めた。

「悠くん? おはよう」

 扉越しだったが、その声を聞いて、私はそれが誰だかすぐに分かった。

 一昨日、母親とともに病院へやってきたあの娘、結衣さんだ。

 こんな朝から訪ねてくるとは、母親の依頼か、それともよほど心配なのか。

 じわりと身を起こして、周囲を見回す。

 清潔なシーツ、居心地のよい洋室。

 厚手のカーテンの間から、教会の油絵のごとき、なんとも荘厳な朝日が板張りに舞い降りている。

 やはり……、やはりか。

 恐れていたとおり、やはり現実へは戻れなかった。

 いや、そうではない。

 おそらく、これが私が置かれた真の現実なのだ。

 大きく溜息をついた。

 そのときふと、H・G・ウエルズが著した、『八十万年後の社会』という小説のことが脳裏に浮かんだ。原題はたしか、『The Time Machine』であったと思う。

 自在に過去や未来へ時間を行き来する乗り物が登場し、私ならばどの時代へと旅をするだろうかなどと、胸を熱くしたことを覚えている。

 もし、それと同じようなことが現実に起こったのだとしたら、この世界はもしや……。

 私はベッドからゆっくりと起き上がり、彼女を驚愕させまいと至極穏やかに戸を押し開けた。

「おはよう……ございます」

「悠くん、あたし、結衣。分かる?」

「結衣さん、でしたね。一昨日は大変失礼しました。取り乱してしまって」

「ううん。いいの。やっぱりまだ思い出せないんだね」

 やや首を傾げる、苦笑いの彼女。

 よく見ると、なんとも愛らしい顔をしている。

 私は小さく咳払いをして、それからやや神妙な面持ちを返した。

「思い出せず、申し訳ありません」

「えっと、あの、ごめんなさい。謝らないで? とりあえず着替えて、リビングに来てね。朝ごはんできてるから」

 そう言うと、少し瞳を伏せた結衣さんは滲み出た落胆をその笑顔の中に飲み込んで、それからすぐに階段を駆け下りていった。

 部屋の納戸を開けると、ずいぶんハイカラな洋服がいくつも吊り下がっていたが、どれも着るにはなんとも恥ずかしく、仕方なく昨日と同じテント地のズボンと綿のシャツを着ることにした。

 やはり落ち着かない。

 しばらくして居間に下りると、母親と結衣さんが洋机にあさを準備して私を待っていてくれた。父親は勤めに出たのか、既にその姿はない。

「あ、悠くん。そこに座って」

「おはよう、悠真。よく眠れたかしら」

 台所からこちらを覗きながら、そこへ座れと母親が手を差し出した。

 昨晩と同じ位置に着座する。

「はい。とてもよく眠れました」

「それならよかったわ。とりあえず、『頂きます』しましょうか」

 やはりこの女たちは、私が記憶を失くした横田悠真なのだと思い込んでいるらしい。

 おそらくここで真実を話したとしても、昨日の病院の事務員と同様、狐憑きだと憐れまれてなんの足しにもならないだろう。どうしたものか。

 それから結衣さんも椅子に腰を下ろし、おもむろに朝餉が始まった。

「結衣ちゃん、テレビ点けて。リモコンはそこよ?」

「うん」

 結衣さんが黒い硯のようなものを手に取ると、昨日同様、窓際に据えられた黒板に色鮮やかな映画が投影され始めた。今日の映画は、なにやら銀幕俳優が浮気をしただとか、その相手が有名な女優だとか、そんなくだらない話を垂れ流している。

 振り返ったが、やはり映写機はない。

 私は努めて平静にしつつ、黒板映画のほうへ目をやっている結衣さんに話し掛けた。

「あの、結衣さん、この映画はどうやって映しているのですか?」

「映画? テレビのこと?」

 振り返った結衣さんの髪が、ふわりと揺れる。

 ほのかな甘い香り。

 すると、すぐに箸を持った右手の人差し指を顎に当てて、彼女はすーっと天井へ目をやった。

「どうやってって……、どうやってるんだろう」

「映写機が見当たらないが、どこから投影しているのだろうか」

「えいしゃ……、ん? ごめん、よく分からないけど、なんていうか、電波がピーッて飛んできて、それがここに映ってるっていうか」

 電波?

 思いも寄らない言葉が出た。

 思わず声量が増す。

「電波ですか? この映画は、電波で送られてきているというのですか?」

「そ……、そんなに驚くことかな。そんなことまで忘れちゃうの? 記憶喪失って」

 結衣さんが、ポカンとして私に目を移した。

 すると、すぐ横で大きな溜息が聞こえて、母親が口を挟む。

「ほら、ふたりとも、お味噌汁冷めちゃうわよ?」

 呆れた顔の母親のひと言で話が切れたので、私はそれからは無言で食事を続けた。

 結衣さんも無言。

 映画は、今日が四月十日だと言っている。

 四月七日に岩国を飛び立ち、八日に病院で目が覚め、昨日の九日、この家へ連れて来られた。

 日付は合っている。

 朝餉をたいらげたあと、再び日付と今までの経緯について思案を続けていると、食器を片付け始めた結衣さんが、目は合わさずに何気ない口調で私に問い掛けた。

「悠くん、体、痛くない?」

「え? はい。もう痛くありません」

「よかったー。雷に打たれたって聞いたから、もしかしたら死んじゃったのかって思って、ほんとこっちが死んじゃいそうだったもん」

 そう言えば、あの看護婦もどきが言っていた。私は落雷に巻き込まれたのだと。

「しかし、本当に落雷に巻き込まれたなら、こんな傷では済まないはずですが」

「ちょっと離れてたのかも。でも、ほんとよかった」

「そのとき私はなにをしていたのですか?」 

 台所の流しに食器を落とし入れた結衣さんに代わって、台拭きを持ってこちらへ来た母親がこれに答えた。

「高校の始業式のあと、お昼から部活でサッカーしてたの。新一年生勧誘の部活動紹介に備えてたんですって」

 サッカー? 蹴球のことだな。

 母親を追って戻って来た結衣さんが、瞳をきらりとさせて割り込む。 

「悠くん、サッカー部なんだよ? 二年生のエース、センターフォワードね。あたしはマネージャーやってるの」

「はぁ。しかし、なぜ雷が鳴る悪天候の中で運動をしていたのでしょうか」

 私の目の前で右へ左へと走る台拭きの向こうで、母親がなんとも解せないといった感じの苦笑いになる。 

「それが、曇りではあったけど、雨や雷になるような天気じゃなかったのよね。それなのに、なぜか突然空が明るくなって、雷が落ちたみたいなの」

 あのときと同じだ。

 私が清水一飛と零戦で飛んでいたときに見た、不可解な青空と光る雲。

「悠くん、何か飲む?」

 母親の向こうから、結衣さんが愛らしい笑顔をひょっこりと出す。

 私は一瞬言葉に詰まって、それからゆっくりと口を開いた。

「何か……、というと、なんでしょう」

「食後のお茶とか、コーヒーとか。あ、悠くん、コーヒーは――」

「えっ? 珈琲があるのですか? もう滅多に飲めないのに」

 そう言って私が身を乗り出すと、どうしたことか、結衣さんがポカンと口を開けて私の顔を見つめた。寸刻の間があり、その呆気にとられた感の面持ちが徐々に曇ると、結衣さんはほんの少し唇の端を歪めた。

「えっと……、飲むの? 悠くん、苦手でしょ? コーヒー」

「いえ、珈琲は人並みに嗜みますが……、どうしました?」

「え? その……、何でもない」

 戦争が始まる前は、街の喫茶に行けば旨い珈琲が飲めた。

 珈琲のことを、『地獄のように熱く、悪魔のように黒く』と形容したのはなかなか言い得て妙で、私もその悪魔の魅力に憑りつかれたひとりだ。

 ぜんこうしょうが付いてすぐの駆け出しの水兵のころ、所属の駆逐艦が寄港してはんげん上陸が許されたときは、戦友らとともに真っ先に街の喫茶へ駆け込んだものである。

 少々首を傾げた結衣さんがおもむろに台所へと戻ると、母親は洗濯してくると言って居間を出て行った。

 しかし、どうやって家で珈琲を淹れるのだろうと思い、私は思わず立ち上がって結衣さんの後ろからその手元を覗き込んだ。

 見ると、なにやらガラス容器を抱き込んだ機器があって、喫茶とは少々勝手が違う淹れ方のようだが、挽いた珈琲豆をに放り込むのは同じのようだ。

 しかし、豆を挽いていた様子はない。

「な、なに?」

「豆はいつ挽いたのですか?」

「え? これはこの粉の状態で売ってあるやつで、家で挽いたんじゃないの」

「挽いて売ってあるのですか? 挽いてから長く置くと味が変わると喫茶の店主は言っていましたが、なにか仕掛けがしてあるのでしょうか」

 ポカンと口を開ける結衣さん。

 別に変なことを言ったつもりはなかったのだが、結衣さんの当惑した顔を見て少々思い直した。

 私の物言いは、この世界の常識と少々ずれがあるのかもしれない。

 しばらくして、立つ湯気とともに漂い始めた、得も言われぬ香り。

 先ほどと同様に洋机について待っていると、結衣さんが抽出を終えた珈琲をカップに注いで運んできてくれた。

 こんな本格的な珈琲が家で味わえるとは、なんたることだろう。

 湯気を立てる眼前の珈琲に一礼して、それからゆっくりとカップを手に取った。

 しばし瞼を閉じて、その芳醇な香りに酔う。

 そして、おもむろにそれを口へと運ぶと、洋机の対面に座した結衣さんが両手で頬杖をついて、じっと私の顔を眺めていることに気が付いた。

「あの……、なんでしょう」

「悠くん、コーヒー好き?」

「え? そうですね」

「そう」

 結衣さんは少し目を伏せて、私が卓上に戻したカップをいちべつしたあと、それからまたすぐに元の笑顔に戻った。

「ねぇ、悠くん。今日ちょっと外に出てみない?」


 午後になって、私は結衣さんに連れられて家を出た。

 結衣さんは、洗って縮んだような半端な長さのテント地の青いズボンと、袖をちぎったような肩が出た白いブラウスという出立ち。左肩から右腰にかけて、斜めに小さめの茶色の鞄を掛けている。

「悠くん、バス、分かる? そのシートに座るの」

「は、はい」

 坂を下り切ったところにあるアスファルト敷の広場で、結衣さんとバスに乗った。

 どうやらあそこは、バスの転回場を兼ねた停留所だったようだ。

 姿を現したバスは、なんとも不格好。

 鼻先が無く、墓石を寝かせたような真四角の大型自動車で、発動機は前ではなく後ろに載せてあるらしい。油で動いているのか、薪や石炭を燃やしている様子はない。

『発車します』

 マイクロフォンを握って運転しているのか、運転士の声が拡声器から聞こえた。車掌は居ないようだ。

「結衣さん、車掌が居ないが、運賃はどうやって支払うのですか?」

「え? あたしはICカードで払うけど、持ってない人は現金で払うよ? あそこ、料金箱があるでしょ?」

 料金箱?

 賽銭箱のように、小銭を投げ入れるようになっているのだろうか。アイシーなんとかで払うという意味もよく分からない。

 見渡すと、車内の前方に光る文字が表示された掲示板が見える。

「すみません、結衣さん。あの、前に示されている一九〇というのは……」

「あれ? 運賃が一九〇円ってこと」

「一九〇円っ?」

 思わず声が出た。

 運転士が、後写鏡を通してチラリとこちらへ目をやる。

 隣の結衣さんは、少々眉根を寄せて私の顔を覗き見上げている。

「いや、すみません。あまりに高額でしたから」

「高額?」

 じっと私を見つめた結衣さんは、それから少しだけ瞳をゆらりとさせて、なにも言わずに窓のほうへ顔を向けた。

 通常、バスの運賃といえば十銭かそこらだ。

 一〇〇銭で一円。私の月給が五〇円そこそこだというのに、運賃が一九〇円などと聞いたら驚くのは当たり前だ。

 窓の外を見ている結衣さんの表情は、こちらからは窺えない。

 結衣さんの目には、この横田悠真がずいぶんと奇異な姿に映っているだろう。

 そのうちに田園が無くなって、昨日見た空中列車の軌道が見え始めた。バスはその下を沿うように進んでゆく。

 空中列車の姿を見て気を持ち直したのか、結衣さんがややこちらへ顔を向けた。

「悠くん、覚えてる? あれ、モノレール。よく一緒に乗ったよね」

「ああ、ものれーると言うのですね。ごめんなさい。覚えてなくて」

「ううん、いいの。覚えてるはずないよね」

 そう言った結衣さんは再び窓の外へ視線を移して、それからまた押し黙った。

 程なくして、周囲はまた鏡張りのような高層建築に囲まれ始め、バスはたくさんの人車が往来する市街地へと入った。

 バスの頭上、同じ方向へ進む空中列車が我々を追い越してゆく。

 なんとも信じられない光景。

 そして、その軌道下をさらに進むと、バスの終点というその場所が、言葉を失うほどに私の度肝を抜いた。

 空中列車の終端。

 高い橋桁の上を延々と渡っていたその軌道が、巨大な建物に突き刺さっている。空中列車は整然と進み、最後はその巨大な建物に飲み込まれて姿を消した。

 なんたる威容。

 巨大建築の壁面に、これまた巨大な穴がぽっかりと開いている。あの柱のない高い天井は、どうやって支えられているのだろうか。

「悠くん、先に降りて。運賃は一緒に払うから」

「え? はい」

 結衣さんに促されて座席を立ち、その巨大建築の真下にある停留所で私はバスを降りた。

 さて、どのように運賃を支払うのかと振り返って観察するも、結衣さんはなぜか、「ふたり分お願いします」と運転士に告げて、財布を運賃箱の天板にトンと押し付けただけだった。

 全く理解ができない。

 バス停の頭上は空中広場ともいうべき、広い広い高床の歩道。

 階段で上がると、そこはまるで空母の飛行甲板のよう。その飛行甲板は、ずっと先のほうで巨大建築へと繋がっており、その先はさっきの柱のない空間へと上る幅広の階段が続いていた。

 結衣さんがその階段のほうを見つめながら、呟くように私に尋ねた。

「悠くん? よく分からないだろうけど、どっか行きたいところ、ある? 一応、言ってみて」

「そう言われても……、そうですね。しょはありますか?」

「しょし?」

 ポカンとして結衣さんがこちらを向く。

 私は思わず目を逸らし、それからじわりと口を開いた。

「あの、書物を……、本などを売っているところです」

「ああ、本屋さんね」

 結衣さんがすーっと息を吸う。

「悠くん……、そんなに本が好きだったかな」

 ギョッとした。

 悠真はどのような少年だったのだろう。

 もしや、書物など全く読まない男だったのかもしれない。

「え? いや、調べたいことがありまして――」

「本が好きなの? 嫌いなの? どっち?」

「いや、その、本は……、好きです」

「そう」

 ほんの少し眉根を寄せて、肩に掛かった鞄の紐を左手で掛け直した結衣さん。

 私はどうしたらいいのだ。

 小さな溜息が出た。

 結衣さんは何も言わず、その愛らしい小さな肩をくるりと回して、ひとり先に足を踏み出した。

 そして私も、ゆっくりと歩き始めた結衣さんのあとを無言でついていったのだった。


 この巨大な建物は、先ほどの空中列車だけでなく、鉄道やバスも乗り入れているらしく、どうやらこの街で一番大きな駅のようだ。

 どういう仕掛けか分からないが、ふみづらが水車のように動く階段があり、かなりの高層建築だというのに容易に上階へ上れる仕掛けになっていた。

 各階には、ところせましと服飾、食器、機械類など様々なものを売る商店がひしめき、そして商品にはどれも目を疑わんばかりの高額の値札が付けられていた。

 ただただ驚嘆するばかり。

「本屋さんから出たらだめだからね? あたし、ちょっと見たい本があるから向こうに行ってる」

 程なく、結衣さんの案内で私は書肆へと辿り着いた。

 並べられた、色とりどりの美しい書物。あまりの紙の質の良さと、かすれのない鮮明な印刷に目を奪われる。

 すべてが興味深い。

 しかし、求めるは、ただ一冊。

 この世界の謎を解く、ただその一冊だ。

 そうして、私はしばらくの間、その広大な売り場の書肆をふらふらと歩き続けた。

 しばらくして私を踏み留まらせたのは、とある棚。

 私が求める一冊は、そこにあった。

 薄々そうではないかと感じていた真実を、眼前に突き付ける一冊。

『太平洋戦争』

 表題を見たときは、それが『大東亜戦争』のことであると分からなかった。

 水兵から飛行兵へ転向したころ、上官からこの戦争を『大東亜戦争』と呼ぶことになったと聞いた。

 戦地に赴く我々からすれば、その戦争をどう呼称するかなどということはどうでもよい。そんなことは、国会議事堂で椅子を温めているやからの戯言だ。我々にあるのは、勝つか負けるか、そして、生か死か、それだけだ。

 そんなことを思いつつ、私はしばしその一冊に見入った。

 そしてページをめくる度に、えつを漏らして座り込みたくなるほどの喪失感と背徳感に襲われた。

 やはり……、やはりそうか。

 昭和二〇年八月十五日、我が大日本帝國は全面降伏するのだ。

 八月六日には広島、九日には長崎を原子爆弾なる新兵器が襲い、我々は血の涙を飲んで、九腸寸断の思いで白旗を頭上に掲げるのだ。

 そして数々の苦難を乗り越えつつ、粛々と瓦礫の中から立ち上がったのだ。

 間違いない。

 ここは、未来の日本。

 それも、我々の戦争が終わってから何十年も過ぎた、新しく生まれ変わった日本だ。

 たまの下をくぐり、世のため皇国のために共に戦った戦友たちは、もうみな過去の人物なのだ。

 ポツリと、本を持つ手に雫が落ちた。

 ふと顔を上げて、延々と奥まで続く書棚に目をやり、眩いほどに明るくきらびやかな書肆内を行き交う人々をまじまじと見た。

 この未来の人たちは、我々の戦争のことを知っているのだろうか。 

 その昔、遠南とうしょのジャングルや白潮がうねる絶海で、この国のために万歳を叫んで命を投じた先人たちが居たことを、胸に刻んでいるのだろうか。

「悠くん」 

 ふと気が付くと、右隣で結衣さんがじっと私の顔を見ていた。

 思わず袖口で頬を拭く。

「あ、すみません。そちらの本は見つかりましたか?」

 結衣さんは私を見上げたまま、ゆらりとしたその瞳を閉じ、それから深い深い溜息をついた。

「悠くん、ちょっと外の風に当たらない?」

 目も合わせず、そう言ってゆっくりと私に背を向けた結衣さん。

 遠ざかる、結衣さんの背中。

 迷路のような巨大駅の中、私はその彼女の背中を追って、無言のまま階下へ進んだ。動く階段を乗り継ぎ、しばらくして辿り着いたのは、改札口前の吹き抜け広場。

 見上げると、空中列車が天井近くに停まっている。その真下は空中列車専用の改札口だ。

 いつの間にか外はもう日が傾き始め、広場には疎らな人影がせわしなく動いていた。

 さらに結衣さんを追って、広場を横切る。

 すると突然に視界が開けて、空中列車の軌道とは反対側の、巨大な建物の裏側へと出た。

 そこは、道路に張り出た幅広の通路。

 表の空母の飛行甲板もどきとは違い、裏は軍艦の露天甲板のような造りだ。通路の下は、道路向こうに大きな車寄せがあり、その周りを背高の建物が取り囲んでいた。

 結衣さんが立ち止まる。

 私もすぐに歩みを止めた。

 そして、小さくかぶりを振った結衣さんはゆっくりと鉄柵の上に両手を置き、それから下を向いて再び深い溜息をついた。

 結衣さんの横顔。

 しかし、今朝のあどけなさはない。

「どうかしたの……ですか?」

 おずおずと言葉を掛ける。

 すると彼女はゆっくりと顔を上げて、紫に染まった空へとその瞳を向けた。

「あたしね、小さいときからずーっと悠くんと一緒だったの。だから、悠くんのことはなんでも知ってる。悠くんは勉強は苦手だけど、スポーツは何でも得意。そして……、すごく優しい」

「そうですか」

「うん。それから、ちょっとドジで負けず嫌い。とっても明るくてみんなの人気者だった」

 結衣さんの肩越しに、通路の照明がふわりと点いたのが見えた。

 通路の下の道路からは、行き交う自動車の音が響いている。

「ひとつ、聞いても……いいかな。本当は、こんなこと聞きたくなかったけど……」

 じわりと、彼女が唇を噛んだ。

 そして、鉄柵の上に置いていた手にぎゅっと力が込められると、その顔がゆっくりとこちらを向いた。

 私を捉えた、鋭い眼光。

「あなたは……、いったい誰?」

 ハッとした。

 胸を突いた、あいくちのようなひと言。

 響き渡る街の喧騒がその刃をいよいよ冷たくして、深く深く私のはらわたをえぐらせた。 

 私はじわりと拳に力を入れ、怒りに満ちたその結衣さんの目を唖然として見つめ返し、そしてただただ、そこに力なく立ち尽くしたのだった。

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