第10話

 魔物の気配を追うことは慣れている。何度もやってきた。メアリーに拾われ、他の魔女と過ごした日々の中でやらされた。何の為にと幼いヴァドは聞いた。お前が生き残るためだ。思い出の中で、メアリーは苦しそうに語る。人の手で撫でてくれたのが嬉しかった。

(こっちだ)

 走るうちに痛みなど忘れていた。妨げになる枝葉に退くよう指示をして、微かな魔力を追う。そんなに遠くへ行っていない、なんてことはなく随分と突き放されていた。焦りばかりが募ってしまう。

 木々を抜けて花屋の裏地に戻ってきた。瓶が割れるような音と放り投げる重たい音がする。そのまま駆け、鉄槌に力を込めた。

「いや、嫌ぁ!」

 悲鳴の主は店主の妻だった。店前で倒れている。魔物はすぐ近くに居た。

「……っ!」

 腰を低くし、跳ぶように割り込む。注意をこちらに向けなければ。

 魔物は先ほどよりも大きく膨らみ、口からはいくつもの触手のようなものを──緑色の植物に似た何かを伸ばす。

 ただそれだけだった。攻撃を仕掛けない。背後にいた店主の妻が四つん這いのまま前に出ていく。

「な、待っ……おい!」

「ああ、あぁ! 神様、どうしてですか! どうして、どうして!」

 祈るように叫ぶ彼女を見下ろす魔物はぶるぶると震えるだけ。

「神、神よ……ぁああああ!!」

 髪を振り乱して叫ぶ。腹の底から発される痛々しいぐらいの声が肌をなぞる。なんて悍ましいんだ。鉄槌を握る腕が痺れる。

 ゆっくりとヴァドは魔物を見つめる。と言ってもどの花の目に注目すればいいのか分からなかった。あちこち動くので視線も合わない。

 これがもし、本当にあの店主だとしたら。誰の悪意と魔力を受けたんだ。ニーナの無邪気な姿が浮かんでしまう。

「人が……人が魔物になったら、もう戻れません。人でなくなった以上我々ではどうすることも出来ない」

 地面に伏す彼女に言い聞かせるようヴァドは言い放つ。

「違うのです、違うのです! あの人は悪くありません! ま……魔女です、そうです! 裏の森にいる魔女の誘惑です!」

 聖職者に縋る声に怖気を覚えてしまう。ヴァドは肯定できず口端を引き攣らせた。

 メアリー。これは貴女のせいではない。

 確証もない言葉を吐きかける。

「だからお願いです、あの人は悪くありません!」

 神様とやらは何もしてくれない。祈れども、祈れども、何も変わらなかった。隣人を愛しながら憎み妬み、笑顔の裏で陰口を述べ、握った手は解いて指差して嘲笑う。この街は腐っている。冷めた心がヴァドを包み込む。魔物は触手を踊らせたまま、こちらを見下ろす。

 魔女の仕業、魔女に操られた、悪いのは魔女だから、何をしてもいい。

 ではどうして彼は魔物に成り果てた。膨らむ謎がはじけて消える。

 歪んだ祈りだ。ヴァドの中で何かがひび割れる。

 魔物に向かい、鉄槌を振りかざす。こちらに気付くなり鋭利な触手が舞い始める。空いた片手に力を込め、魔法で薙ぎ払う。人ならざる金切り声が痛々しく飛び散った。

「話は、後で聞きます。現実から目を背けないでください」

 一回り、二回りと鉄槌は膨らむ。魔物は次の手を放とうと構えだした。これ以上暴れさせない。ギッと前を睨む。誰かの悲鳴を聞いた。目を閉じず振り下ろしかけた瞬間、ヴァドの体が傾いた。

「殺さないでっ! 主人の花を、花を奪ったのは、悪いのはわたくしだから!」

「っ!? ちょ、ちょっと、ご婦人!」

 鉄槌は魔物の肩を掠めた。花にある目玉は二人を捉えている。迫りくる触手の先端は針のように鋭かった。

 鉄槌を引き戻し盾にする猶予はなく、左腕で庇おうとする。傷口が開き鮮血が滲み出る。

 痛みのなか、ヴァドは心の中で確かめた。

 花を奪ったのは店主の妻。つまり、事の発端はこの人物だった。

 来るべき衝撃に備えようとするも、冷たい風が遮った。深い森の香りがヴァドを撫で回す。

 駄目だ。ヴァドは叫びかけた。

「メアリ……ィッ!!」

 魔物が振り向く。森へと向けられた花々は目を見開いていた。触手が舞う。精一杯の抵抗と、恐れ。どれも無駄に終わった。

 黒い影が森から伸び、魔物の身を、花屋の店主を真っ二つに引き裂いた。血飛沫と人の臓物が周辺に飛び散るも灰になり消えてゆく。ヴァドの頬にも灰が残っていた。

 普通の人間よりも遥かに大きく、手足は毛むくじゃら。爪は猛獣よりも鋭く恐ろしい。それでいて顔は人。真っ黒なドレスを灰まみれにする彼女は無表情でいた。

「ヒッ!! ま、ままま、ま……ァ……」

 婦人は泡を吐きながら気絶した。ぐったりと重く沈む身をそっと地面に寝かせる。

「……どうしてだ」

 湧き上がる悔しさを吐き捨てる。怒りはなかった。悲しくて胸が痛くてしょうがない。自分が情けなかった。この手にある鉄槌で魔物を退治するのではなかったのか。

「どうして」

 感情と言葉が複雑に絡み、喉でつっかえてしまう。メアリーの右手は血肉で汚れていた。が、やはり灰と化してゆく。

 自分が仕留められていたら……街の聖職者が魔物を退治していたら、丸く収まる。ヴァドの思いは引き裂かれてしまった。

「こんなもの。貴女が、負うべきではない」

 この鉄槌は何のためにある。涙の代わりに自責の念が溢れてしまう。

 物言いたげなメアリーは左手の爪を伸ばし、そうっとヴァドの傷に触れた。彼女の魔法で治されていく。天使であるルマも治癒魔法を使えるが、魔女の治癒は酷く冷たい。体の芯まで包む寒気と共に、傷口を這いずり回る異物感に蝕まれてしまう。

「ヴァドール、上を脱ぎなさい。ほつれは明日あたりにでも縫い直してやろう」

 体を動かす前に上着が奪われる。追いかけるように手を伸ばすも、彼女の爪とぶつかった。

 冷たい。

 だけど懐かしい。

 消えたはずの灰は鋭利なトゲとなり、メアリーの背へと突き刺さっていく。ズブズブと侵食していく様など、ヴァドの視界には入らなかった。


 近づけずにいたルマは一部始終を眺めていた。エルは木にもたれながら眠っている。天使の羽を一枚だけ握りながら。

 罪が魔女に吸収されている。

 これで良かったのだろうか。ルマにはわからなかった。

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