言えない彼女の伝え方

黒瀬

言えない彼女の伝え方

『私はその人が好きです。だから好きだと言いたいです。でも私は話すことができません。どうしたらいいでしょうか』

 最後の方のその文字は震えていた。当たり前だ。初めて会う人間にここまで打ち明けるということは誰だって緊張する。彼女は頑張ったのだ。そんな彼女を突き放してしまうのは、それこそ残酷という言葉以外に何があるだろう。

 それならばどうしよう、と思った。その瞬間、わたしはすぐにひらめいた。

「ここで告白するとかどうかな。文筆で。声で伝えたいって気持ちはもちろんわかる。でもまずは伝えることを優先して、時間が経って、慣れてきたら、その時に初めて声で伝えてみたらいいんじゃないかな。」

 茜ちゃんの目がぐっと開いて、わたしのことをじっと見た。しかしすぐにその視線は外されて、ぐるりと店内を見渡していた。

「日時を教えてくれたら、その時間は貸し切りにしてあげる。それなら誰からも知られないからね。わたし、茜ちゃんを応援するよ」

 応援するという言葉はとても上から目線の言葉のように感じるので、わたしは極力その言葉を使いたくない。でも今のわたしの感情をまっすぐに伝えるなら、それが的確なのかもしれない。

『よろしくお願いします』

 ノートの書かれていた彼女の文字は、やはり今までで一番、力の入った文字のように思えた。



 ドアからノックがした。ちらりと時計を見たがまだ開店の時間にはなっていなかったし、その直前でもなかった。わたしは洗っていたグラスをシンクに置いて、手を拭きながらドアの方に向かった。

「はい」

 ドアの向こうからは何も聞こえて来なかった。悪戯かと思った。この時間は学生たちの通学時間になっている。しかしここは通学路からかなり外れた場所にあるので、それは正解ではないような気がする。

「あの、なにか?」

 声は確実に、向こうにいる人に聞こえているはずだった。それくらいの声量は間違えない。しかし相変わらず、向こうから声は聞こえなかった。

 何かのセールスとか勧誘とかだった嫌だな、と思いながら、わたしはドアを開けた。

「すみません、まだお店は開かないんですけど」

 そう言いながら開けたドアの向こうには、制服を着た一人の女子が立っていた。わたしは思わず「え、高校生? 今日は平日だから学校だよね。どうかしたの?」と質問をした。しかし彼女はそれに答えず、そして一瞬だけ目を合わせたかと思えば下を向いている。

「あー、えっと、どうすればいいんだろ」

 わたしの頭の中ではいくつかのことが浮かんでいた。一つはとても緊張のしやすい子だということだ。高校生という年代には、必要以上の緊張から声が出せなくなってしまう人は一定数いるし、そういう友達は何人も知っている。

 そしてもう一つは緘黙症だった。あまり耳にすることのないそれは、ようやく映画や創作、SNSを通じて知られる機会が増えた。しかしまだまだ、世間的な知名度は低いままだった。わたしも緘黙症の名前と症状は頭にはあったが、実際にお店にそういうパターンのお客さんは来たことがない。だからどうしていいのか分からなかった。

「なんか、とりあえず入る? 開店前で掃除もまだなんだけど、それでよければ」

 本当にいいのだろうかと思った。もしも緘黙症なら、体まで緊張して動けなくなってしまう人もいるという。しかしそれはわたしの杞憂だった。彼女はぎこちなく、しかししっかりとその首を縦に振った。

「よし、了解しました。どうぞ」

 わたしはそう言ってお店のドアを開けた。太陽の光が入り込み、カーテンに閉ざされた店内をパッと明るく照らす。そこにはたくさんのぬいぐるみたちがソファや椅子に座り、新しいお客さんを出迎えていた。


 彼女をカウンター席に座らせて、そして柴犬のぬいぐるみを開封して手渡した。わたしのお店では常連さんにぬいぐるみをプレゼントしている。本来は初来店のお客さんに渡すことはかなり図々しいというか、恩着せがましいことをしている気分になるのでやらないのだが、彼女には早くこの場に慣れてもらいたかったし、リラックスをしてほしかった。

「似合うね。柴犬」

 わたしは自分の言った言葉の適当さに頭を抱えたくなったが、目の前に座っている彼女の頬が少しだけ緩んだので、少しだけ安心した。

 そしてわたしはシンクの上に転がっている洗い物たちのことを思い出した。早く洗って乾燥させなければ、また開店と同時に訪れるお客さんに冷やかされてしまう。

 わたしは急いでそれに取り掛かった。部屋の掃除や床掃除、油まわりの掃除は苦手だが、洗い物はいつも完璧にこなすことができていた。

ある程度の洗い物が終わると、それを見計らったかのようにカウンターに置かれているベルが小さく鳴った。

「はーい」

 そう言ってタオルで手を拭きながらカウンターに向かうと彼女はノートを広げていた。

『7月21日』とページの上に記し『入れてくれてありがとうございました』と書かれていた。筆談か、とわたしは頭の中にあった疑問が答えに近づいている予感がした。

「気にしなくていいんだよ。ていうか、なんで朝からうちに? そっちの方が気になるな」

 彼女がただの緊張しがちなシャイガールなら、きっと声を聞けるだろうと思っていた。しかしもしも筆談が必要なくらい喋ることができないのなら、それはやはりそういうことだ。

「しゃべれない感じ? 理由とか聞いていいかな」

 お前は言葉を選ばないからな、そこだけは気を付けないと失礼になるぞ。

 不意に店長の言葉が頭に浮かんだ。よくないな、と思った。止める人がいなかったら、わたしは延々としゃべってしまう。意識的にならないと。そう思った瞬間、これ以上の質問はやめようと冷静になれた。

「ごめん。無理しなくていいから。なにか飲む?」

 わたしは冷蔵庫を開けた。

「サービスしておくから、何でもいいよ」

 冷蔵庫にあった飲み物は三種類のフルーツジュースとコーヒー、そして冷水だった。ちらりと横目で彼女を見ると、またなにかを書いている様子だった。わたしはそれを大人しく待つことに決めた。首を縦か横に振るだけでは伝わらない何かを彼女はわたしに伝えようとして書いているのだと思った。

 グラスに氷を入れてアップルジュースを注ぐ。オレンジジュースは酸味が苦手な人もいるから避けた。

 朝の掃除はまだ終わらせていない。開いたカーテンから差し込む光は埃を反射させてきらきらと輝いている。綺麗だなと見とれている場合ではないというのは理解しているが、面倒くささが勝ってしまう。開店作業はやることが多いので憂鬱だ。

 一つだけため息をついて、アップルジュースをカウンターに持っていく。その間も彼女のペンは止まっていなかった。

 長丁場になりそうな予感がしたので、わたしは開店作業に取り掛かることにした。十時から開店なのでまだまだ時間に余裕はあるが、時間に追われる方がストレスだったからだ。

「ねえ」

 彼女はわたしの声を聞くと、びくり、と肩を動かした。

「驚かせてごめんね。わたし今から椅子を降ろしたりするからさ、書き終わったらまた読んでよ」

 うん、と彼女は頷いた。

 よろしくね、とわたしはカウンターから出て、一番奥の席から椅子を降ろしていく。その途中、彼女の名前をまだ聞いていなかったことを思い出した。


 作業が終わり、わたしは彼女の隣に座った。彼女は露骨に体を反対方向に傾けていたが、そこから離れようとはしなかった。

 彼女はわたしにノートを差し出した。腕はこちらを向いているのに、未だに体はあちら側に行って戻ってこない。「無理しないでいいからね」と笑ったら、小さく頭を下げるだけだった。

『私の名前は杉山茜と言います。高校一年生です。今日は突然なのにお店に入れてくれてありがとうございます』

 書き出しはこうだった。わたしは彼女の文章を口には出さず、静かに指でなぞった。

「いいんだよ。気にしないで。茜ちゃんって呼んでいい?」

 彼女は頷いた。

『ここに来た理由を書きます。ここには丁寧に話を聞いてくれる女の人がいるとカウンセラーの先生に言われてきました。その女の人の名前は石田綾さんです。今日はいらっしゃいますか?』

「石田綾はわたしだね。そのカウンセラーの先生ってもしかして塚本美雪って人?」

 彼女は頷いた。

「あいつも勝手だよ。丁寧に話を聞くって言っても、わたしだってカウンセラーが必要な人間だからね。分かってるのかね」

『今日は相談があってきました。わたしは場面緘黙症です。人前では話すことができません。でも筆談はできます。だからこうやって、お姉さんにわたしの言葉を伝えることができます』

「なんだかそんな気がしたの。このカフェのモチーフを茜ちゃんは知ってる?」

 茜ちゃんは首を横に振った。

「発達障害の人が訪れる秘密基地みたいなお店。発達障害に限らず、何か悩みを持った人が気軽に相談できるお店。わたしはそういうつもりでここで働いているの」

 茜ちゃんは辺りを見渡した。その視線の意図は分からなかったが、もしもここを居場所だと感じてくれるなら、それはとても嬉しいことだと思った。

『早速ですが、相談があります。この話は学校の人たちには言いたくありません。なのでお姉さんに聞いてもらいたいです。大丈夫ですか?』

「もちろん。なんでも聞いて」

 茜ちゃんの表情が少しこわばっているのが分かった。たぶんここから、わたしは彼女の秘密に触れる。それはカウンセラーの美雪も、担任の先生も、彼女の家族も友達も、誰にも伝えることのできない内容なのだろうということは、さっきの文面から想像できた。

『私は話すことができません。それが理由で仲間外れにされることもありましたが、高校生になってからそういうことはなくなりました。

 中学ではいじめもありました。でも私のことを守ってくれた男の子がいました。その子とは今も同じ学校で、同じクラスです。今も時々、文筆で会話をしてくれます』

 なるほど、恋の相談と来たか。わたしは恋には疎い。それは美雪も知っているはずだった。今度美雪に出会ったら、コーヒーの一杯でもおごらせてやろうと思った。



 ある土曜の午後二時過ぎ、二人の男女が来店した。わたしはカウンターから顔を覗かせ「いらっしゃいませ」と言った。二人にはお店の一番奥の、一番日当たりのいいテーブルに案内した。

「メニューがお決まりになりましたら、こちらのベルを鳴らしてください」

「ありがとうございます」

 お礼を言った男の子は見るからにいい子に見えた。いい子、というと色々なパターンがあるが、ここで言ういい子はお店で騒ぐことはなく、店員にお礼が言える礼儀のある子ということにしようと頭の中で整理する。

 茜ちゃんが好きになる理由がなんとなくわかる気がする。彼のような人が同級生にいたら、確かに惹かれるものがある。

「あれが綾の言ってたカップル?」

 カウンターに戻ると、奥から店長が顔を出した。店長は今日も真っ白な髭を貯えている。丸い眼鏡はいかにもマスターという雰囲気で、実際にお客さんからもマスターと言われている。

「まだカップルじゃないですよ。その手前の関係です」

「そうなの? 仲よさそうに見えるけど」

「現代っ子は複雑なんですよ。ていうか、茜ちゃんにはわたし以外にいないって言ってるんですから出てこないでください」

「相変わらず我がままだなあ」

 店長はそう言って苦笑いを浮かべた。

「感謝はしてます。稼ぎ時に貸し切りにさせてもらって。でも茜ちゃんとの約束があるんです」

「あんまり怒らないでよ。俺が悪かったよ」

 店長はそう言ってカウンターの奥に立ち去った。ごめん店長。あとでちゃんとお礼するから。

 わたしはベルがなるまでカウンターに座り、奥に座る彼女たちを見ていた。彼女たちのやり取りは、外の人からはどう見えているのだろう。現代で文筆なんて古いねって笑うのだろうか。携帯でやればいいのにって笑うのだろうか。

 わたしは彼女のことが笑えなかった。彼女の立場とわたしの立場はきっと違う。でも彼女が頑張っていたことは知っている。そんな彼女のことをわたしは笑いたくはない。

 真昼の明かりに照らされた二人の間に笑い声が響いた。わたしは彼女たちから目が離せなかった。すると間もなくテーブルの方からベルが鳴った。わたしは「はーい」と言ってテーブルに向かう。

 上手くいったかな。それともまだ告白はしていないのかな。どうなるんだろう。

 わたしの手は震えていた。「お決まりですか?」と発した声が少し上擦った。

「アップルジュースを二つお願いします」

「アップルジュースですね。かしこまりました」

 一礼してその場を立ち止まろうとしたら「あの」と声をかけられた。男の子の声だった。

「茜から言いたいことがあるそうです。今、大丈夫ですか」

「え、いいですけど」

 振り返って茜ちゃんの方を見ると、口元が緩み切っていた。その瞬間、彼女が何を言いたいかが分かった気がした。嬉しさを隠せない時に、人間はよくこういう顔をする。

 茜ちゃんがテーブルの上にノートを広げている。

『7月24日』

『好きです。付き合っていただけませんか』

『もちろんです』

 おお、と思った。わたしは思わず片手で口元を覆った。

「おめでとうございます」

そう言って頭を下げると、男の子は照れくさそうに笑っていた。茜ちゃんも同じような表情で笑っていた。

 わたしはカウンターに戻ってすぐにスマホを開いた。ラインの会話履歴から美雪を探してすぐに『今度パフェおごって』と送った。返事はすぐに来た。

『なんで?』

『嬉しいことがあったから』

 人の告白が上手くいくことが、こんなに嬉しいことだとは知らなかった。どんなサービスをしてあげようかなと思いながら、わたしは美雪にパフェの絵文字を何個も送りつけた。

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言えない彼女の伝え方 黒瀬 @nekohanai2

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