第26話 標本

 かびの臭いがする。

 まず視界に飛び込んだのは、流行遅れの花柄の天井にできた黒い染み。

 ハインリヒが目覚めた場所は、薄暗い廃墟の中だった。湿ったベッドの中に寝かされてはいるものの、拘束はされていない。身体を起こして、周囲を観察する。

 エンペリア城で閉じ込められていたのよりも広い部屋だ。もとはどこかの貴族の邸宅だったのかもしれない。窓ガラスにはいくつかひびが入っており、どれもひどく曇って光をあまり通さない。壁際にはいくつも背の高い棚が備え付けられているが、ほとんど空で蜘蛛の巣が張っている。

 まだぼんやりする頭を振りながら、ハインリヒはベッドから這い出した。

「おはようございます、侍従長閣下」

 錆びたドアノブに手を伸ばしたとき、背後にあの男が立っていた。

 庭師の変装をしていたときとは、ずいぶん印象が違った。まだらに銀髪の混じった黒髪と、生気を感じられない青白い肌。それでいて体つきはたくましく、黒染めのシャツの下ではちきれそうな筋肉が主張している。ハインリヒにも武芸のたしなみはあるが、まともに戦って勝てる相手ではなさそうである。

 ハインリヒが改めて名を問う前に、彼はしゃべり始めた。

「私はダミアン。『灰枯の狼』の主導者だと言ったら、お分かりになりますかな」

 灰枯の狼。「灰枯」の季節が来ると、貴族が所有する食糧倉庫を襲って略奪を繰り返す犯罪組織だ。いつか来る反国王派との「決戦」に備えて、過剰に食糧を貯めこんでいる貴族から奪うのだ、というでたらめな大義名分を堂々と掲げていた。背後には国王派の貴族たちの支援があり、フランメル王も対応に苦慮していた。

 だが、ヴァルターがフランメル王を処刑したいま、彼らの存在意義はないに等しい。

「役立たずの狼が、いまさら何の用だ。『決戦』ならもうとうに終わったぞ」

 あえて挑発的な態度を取ると、拳が飛んできた。

「おっと、いけない。つい手が出てしまって」

 床に殴り倒され、顎が砕けそうな痛みに悶えるハインリヒに、ダミアンは悪びれもせず微笑む。

「あなたは現状を誤認なさっているようだ。我々の決戦はまだこれからですよ」

「……よく言う。フランメル王を守れなかったお前たちが、無価値な悪党集団だったことはすでに証明された」

 起き上がろうとした矢先、みぞおちに重い蹴りが飛んでくる。激しく咳き込むハインリヒの背中を汚れた靴が踏みつけた。肺が圧迫されて、息が詰まる。

「あんまり喋らないでください、うっかり殺してしまいそうじゃありませんか。あのね、侍従長閣下、真の悪党は誰です? お友達だったフランメル王を処刑し政権をわがものにしたヴァルター・フォン・グローバーだと思いませんか? あれは奸臣かんしんの標本のような男ですよ。あの男の手から、へ王権を取り戻す戦いこそ、我々の『決戦』なのですよ。私の言っている意味、分かりますよね? 

 あるべき人――その意味を、ハインリヒは正しく理解した。

 フランメル王の血を引く人間は、いまこの世でただひとりだ。

「アレックスを擁立しようというのか。ふざけるな」

 痛みと屈辱の中で、どうにかそれだけ言い返した。ダミアンはにやにや笑って「ご心配なく」とうなずく。

「あなたがこれからもアレックス王子の父上でいられる方法がありますよ。レーダ嬢と結婚させればよいのです」

 ダミアンが心底面白そうに高笑いを響かせる。

 それはハインリヒにとって、あまりにもおぞましい発想だった。たとえ血は繋がっていなくても、ふたりは姉弟である。そう思って分け隔てなく育ててきた。それなのに忠君の皮をかぶった外道のために引き裂かれるどころか、夫婦にされようとは。アレックスだけでなく、レーダの人生をも踏みにじる蛮行だ。

「あ、そうそう、フォン・グローバー卿には、ここにアレックス王子を連れてくるようお願いしておきましたよ。……まああの男のことだから、来ないかもしれませんがね。そのときは諦めてください」

 ハインリヒは燃え上がる憎悪のために床をこすってもがいた。しかしダミアンは屈み込んで、強い力でハインリヒの頭を床に押しつける。激痛が抵抗する気力を奪っていく。

 ヴァルター、来るな。

 ハインリヒにはもう、かつて友であった裏切り者の冷血さにすがるほかなかった。こんな茶番にアレックスを、レーダを巻き込んでほしくない。自分はここで殺されてもいい。子どもたちには幸せに生きていってほしい。

 突然目の前のドアが開き、「灰枯の狼」の一味らしき男が何かをダミアンに耳打ちする。

「おや、お友達がお子様連れでいらしたようですよ。よかったですねえ」

 ヴァルターの友誼に感謝するよりも、アレックスとの再会を喜ぶよりも、絶望で目の前が暗くなる。

 ダミアンの高笑いが、湿った部屋に響き渡った。

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