第16話 錆び

 時はレーダとエーミールとの取引直後に遡る。

 エーミールはレーダとアレックスが寝静まったのを見計らって、ゾルマの部屋を訪ねていた。暗がりに灯った明かりは、ちびた蝋燭一本だけ。お互いの顔はろくに照らされていないのに、エーミールの膝の上にジークがちょこんと座っているのだけはよく見える。

「……と、いうわけなんだが、どうする?」

 彼は忠実なゾルマのしもべだ。レーダとの取引内容をすべて主人に報告していた。

 レーダには、旅券が用意できたら姉弟の荷物を回収して井戸まで迎えに行くと約束しているそうだ。

「ま、そのまま『嘘でしたー』って片を付けてもいいが」

 フン、とゾルマが鼻で笑った。

「その場でだめだと言えばよかったものを。あんたは本当に若い女に甘いねえ」

「おう、俺は甘いさ」エーミールは肩をすくめた。「まるで昔の君を見てるみたいで、ほっとけなくてね」

「余計な事を言うんじゃないよ」

 ゾルマが吐き捨てると、蝋燭の炎がぶるぶると揺れた。エーミールが声を押し殺して笑う。

「頭ごなしにだめだと言われても、レーダは納得しないだろう。彼女は賢い子だからね」

 腕組みをしたジークがうんうんと頷く。組む腕も頷く頭も厳密にいえば根っこなのだが。

「どこが賢いんだい、まるでザルな計画じゃないか。海外渡航だなんて百年早いよ」

 ゾルマの顔は見えなくとも、皺だらけの顔をしかめて余計しわくちゃにしているのが長い付き合いのエーミールには分かる。

「そいつは俺も同感だ。さて、どうする? しもべの呪いを強化して、君の操り人形にしてしまうかい?」

「それではレーダが可哀想すぎる」

 ジークがすかさず反論する。もとよりエーミールもそのつもりではない。

「ちいとばかし私がお灸を据えてやろう。エーミール、私の命令を聞きな」

「愚問だな。俺は君のしもべだぜ」

 ゾルマが事細かに命令を下す。

「あい分かった、と言いたいが……ゾルマは大丈夫なのか、そんな派手な真似をして」

「馬鹿にするんじゃないよ。老いたりといえども、私の力は錆びついちゃいないさ」

 ならばエーミールにはもはや言うことはない。彼がジークを抱きかかえて部屋を出ると、蝋燭がひとりでに消えた。


***


 再び、エンペリア城前。

「そんな高いところにいないで、降りておいでよ」

 ヴァルターが声だけは優しくささやく。しかし、荷台は槍の穂先で取り囲まれていた。

「降りようにも、その危ないものをどけてくださらないと、降りられませんわ」

 レーダが気丈に言い返すと、ヴァルターは喉の奥を鳴らして笑う。彼の合図で、兵隊たちは槍を収めた。

「レーダ。実を言うと、君にはあまり用はないんだよね。そこをどいてくれるかな?」

「え?」

 ヴァルターが右手を真一文字に薙いだ。

 次の瞬間、レーダは自分の真横を赤黒い光がかすめるのを感じた。ほとんど同時に、背後の藁束が弾け飛んだ。荷馬車の輓馬ばんばが怯えて暴れたせいで、荷台が激しく斜めに傾いた。

 武器は何も持っていない。ヴァルターもまた、特別な力を持った人間だったのだ。

「アレックス!」

 レーダは体勢を崩しながらも荷台のへりにしがみついた。しかし背後で震えていた弟は、声もなく地面に滑り落ちていた。

「こんにちは、アレックス。そして――さよなら」

 宰相が右手を差し向ける。アレックスは動けず、ああ、と、か細い声を漏らすだけだ。

 悲鳴を上げたのはレーダのほうだった。

(アレックスが、殺される!)

 赤黒い閃光が爆ぜたとき、レーダもアレックスも目を開けてはいられなかった。

「そこまでだよ、キザ男」

 頭上高く――荷台よりもさらにずっと上から、その声は降り注いだ。



 ゾルマが、浮いている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る