桜の妖精

黒っぽい猫

桜の妖精

龍神池の周囲、堤の遊歩道に沿って植えられた数十本のソメイヨシノ。その桜の花が満開を少し過ぎて、風が吹くたびに花吹雪となって散っていた。


私はお昼のお弁当をいつもより早く食べ終えて龍神池にお花見に行った。近所のお年寄りや小さな子供を連れたお母さんたちが桜を見に来ていた。


毎年この池の堤で数十本の桜がいっせいに咲く。そして満開になって1週間でいっせいに散ってしまう。この季節、堤の遊歩道は桜の花道になり現実離れした美しい空間になる。


お昼休みが終わる午後1時までまだ30分ほど時間があった。ちょうど池の周りを1周できる。いつからあるんだろう。この池の遊歩道の桜並木は。枯れかけている老木も多かった。


薄曇りの空の下。満開の桜を眺めながら歩いていると、1本の古い桜の樹の根元に素足を伸ばして座り幹にもたれて居眠りをしている少女がいた。ちょうど桜の花と同じ色の薄いワンピースを着ている。


透けるように白い肌。ピンクの唇。亜麻色の細くて長い髪が桜色のほほを撫でていた。暖かいとはいえまだ4月の初め。あんな薄い生地のワンピースでは風邪をひく。


私は立ち止まり、しゃがんで少女に声をかけた。

「ちょっと。起きて。こんなところで居眠りしてると風邪ひくわ」

軽く肩を揺すると、少女は瞼をゆっくり開いて眠そうな目で私を見た。

「樹の根っこに座ってるとお尻が痛くなるでしょう?」

何度か瞬きをして私を見つめている少女の瞳も亜麻色だった。

「そんな薄着で寒くないの?」


少女は黙って立ち上がり、まっすぐ私を見て言った。

「すみません。ちょっと居眠りしちゃって」

素足のまま。靴を履いていなかった。小学校3年生くらいだろうか。

「あなた、家は近くなの? 靴をなくしちゃったの?」

少女はじっと私の顔を見て、それからひとつうなずいて言った。

「おかまいなく。お待ちしていました。お伝えしたいことがあります」


「私を知ってるの?」

「ハイ。よく知っています。あなたが子供の頃から」

子供の頃からって? 自分だって子供なのに。変なことを言う子。

「それで、伝えたいことって何かしら?」

少女はまっすぐ私の目を見て言った。

「15年前の約束を果たすようにと」

15年前? 私が7歳の時? なんのことだろう。

私が記憶をたどっていると少女が心配そうな顔で言った。

「お忘れですか? ここで約束したことを」

約束? 私にはまったく心当たりがなかった。

「私が誰と何を約束したのかしら?」


少女は失望したように吐息をついて、それから言った。

「結婚の約束ですよ。覚えていないのですか?」

「結婚? 誰と?」

「ナオト君とですよ」

「ナオト? どこのナオト君かしら?」

「本当に覚えていないのですか?」

「同級生の誰か?」

「そんなこと知りません。とにかくあなたはナオト君と結婚の約束をしました」

「ここで?」

「そうです。この桜の樹の下で」

「それで、あなたは一体誰なの?」

「私はそのときの立会人。証人です」

「でも、あなた、見たところ小学生らしいけど?」

「小学生じゃありません。私はもうずいぶん年を取ってます」

「え? 年を取ってるって? あなたが?」

「そうです。正直この夏を越せるかどうか…。間に合ってよかったです」


私はまた考えこんだ。この子。普通じゃないよね。まさか桜の妖精かナニかのつもりかしら。それにしても結婚の約束って、そんなことあったかしら。全然覚えてない。


「私は本物の桜の妖精です。よく思い出してください。ナオト君に失礼ですよ」

まるで私の心の中を見透かしたように少女が言った。声は子供だが大人みたいな言い方をする。


道行く人々が怪訝そうに私の顔をうかがいなら通り過ぎていく。私は小声で言った。

「ひょっとして、あなたは私にしか見えていないの?」

「当然です。妖精ですから。あなた以外の人に見られるわけにはいきません」

私はあわてて周囲を見回した。もうすでに何人もの人に見られてしまっていた。頭が変な人だと思われかねない。


「とにかく伝えましたよ。もうすぐナオト君が来ます。では」

少女はそう言うとワンピースのスカートをふわりとなびかせてジャンプした。10センチほど素足が地面を離れたと思ったら、少女は数百の桜の花びらに変わった。まるで手品か何かのように少女は消えた。私は驚いて声をあげそうになり両手で口を押さえた。この子、ほんとに妖精だったんだ。


ナオト・・・ナオト・・・あっ! 杉原直人!

私が思い出すのと同時に振り返ると、目の前に1人の若い男が立っていた。


「よう。みゆき。久しぶり」

「杉原君。どうしてここに? 札幌にいるはずじゃ?」

「昨日の夜に帰ってきたんだ」

「なんのために?」

「決まってるだろ。 みゆきとの約束を果たすためだ。」

「それって、もしかして、結婚の約束?」

「そうだよ。覚えていてくれたのか」


桜の花びらが舞い落ちる中、杉原直人が嬉しそうに笑った。



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