第3話 赤い女神

 ライブハウスに入るとすぐ裕星は楽屋に向かった。楽屋にはシャワーも完備してある。


「このままだと風邪を引きます。こんな場所で良かったら、あのシャワーを使って下さい。服は着れそうな衣装かなにかを用意しておきます。本当にすみませんでした」と女の子にタオルを渡した。


「え? シャワーですか? でも……私このままで……」


「いくら初夏とはいえ、夜は肌寒いですからシャワーで温まった方がいい。俺は外に出てますから、後で着替えはシャワールームのドア前に置いておきます」そう言い残し裕星は楽屋から出ていった。



 裕星は戻ってきて着替えの衣装をシャワー室のドアに掛けると、またしばらく楽屋のドアの外に出て待っていた。

 しばらくしてガチャリと楽屋のドアを開けて女性が顔を出した。


「あのぉ~、シャワーお借りしました。ありがとうございました――」


 裕星の用意した貸し衣装に着替えた女の子は、さっきはよく見ていなかったが、肩まであるサラサラの黒髪が頬に掛かり、目の上で切りそろえられた前髪の下から大きな黒目がちな瞳が覗いていた。改めて見たその女の子は品の良さが漂う清楚でなかなかの美人だった。



 用意したのは女性が着るステージ用衣装なのだが、今時の女の子が外に出ても決して浮かない普通に着れそうなワンピースだった。さっきまでの膝下まである長い裾のスカートから、膝上になった短い丈のスカートに着替えたが、それをスッキリ着なす彼女のスタイルの良さが伺いしれた。


 スタッフに事情を話してある裕星は、「その服は借り物ですが、そのまま着て帰って下さい。この濡れた服はショッピングバックに入れておきました。近くに立ち寄ったときにでも返してもらったら良いみたいですよ」と美しい彼女の顔をまともに見ることなく紙袋をすっと渡した。


「ありがとうございます! シャワーをお借りしたのにお洋服まで……すぐにクリーニングしてお返しします」とぺこりと頭を下げた。


 恥ずかしそうに襟元を整え、短いスカートの裾を手で押えながら、女の子は帰り支度をしようとしたが、裕星の方に向き直ると「あ、……あの、お名前をお聞きしてなかったんですが……伺ってもよろしいでしょうか?」ともじもじしながら上目使いに裕星を見た。


「――ああ、そうだな――俺は海原裕星といいます。俺の名前を言って服をスタッフに渡してもらっていいですから」


「はい、裕星さんですね? 分かりました。あ、あの……私は……」自分の名前を言おうとしたそのとき、


「海原さん、JPスター事務所の社長が来ています。どうしますか?」

 スタッフがノックしするや否やガチャっとドアを開けて顔を覗かせた。


「あ、ああ今すぐ行く」


 裕星は女性の方に向き直ると「じゃあ、これで――俺は毎週金曜の夜にここで歌っています。でも、俺が居なくてもスタッフに返してくれていいですからね」と、フッと笑うとドアの外に出て行ってしまった。



 あの子の名前を聞き忘れたな。裕星は少し後悔したが、あのシチュエーションで名前を聞くタイミングもなかった。

 それよりも、またあの赤いドレスの女性が頭に浮かんでいた。

 あの女性はいったいどうして毎週俺の歌を聴きに来ていたのか……俺のファンなら、なぜ俺の姿を見て逃げたのか……考えれば考えるほど分からなかった。

 あの女性は悪戯に裕星の心の奥深くに入り込んだまま裕星の心を独占していくのだった。




 一週間後の金曜の夜、先週、JPスター事務所の社長直々に事務所に所属しないかとオファーを受けていた裕星の心はもう決まっていた。

 特にこれと言った根拠はなかったが、社長が裕星の元に通っていたのは先週だけではなかった。

 以前から十数回にもおよび、アーティストの意志を尊重する事務所の良さとメジャーデビューさせたいという熱望に裕星の心は動いていた。


 今日、JPスター事務所と契約を結べば、裕星は来週からここには来る必要がなくなってしまう。

 あの赤いドレスの女性は今日も来るのだろうか? もし来なければ、俺が来週にはもうこの場所にいないのを知ることは無いだろう。


 フッと裕星は一人笑った。なぜ俺はあの人がこんなに気になるのだろう――

 顔もよく分からない、若いのかどうかも、それに日本人かどうかすら分からない、いつも決まって同じ赤いドレスを着てくるあの女性が……。


 コンコン、裕星の楽屋のドアがノックされた。ハイ、と出るとそこに立っていたのは、あの雨の日に出会った女の子だった。


「先週はお世話になりました。これ、お借りして助かりました。本当にありがとうございました。

 さっきスタッフさんに海原さんがいらっしゃいますよ、と教えていただいたので、直接お会いしてお礼を言いたかったのです……あの……ご迷惑お掛けしてすみませんでした」と頭を下げながら紙袋に入ったクリーニング済みの衣装を差し出した。


 女の子は先週着ていたあの白い清楚なワンピースを着ていた。

 どこかの高校の制服なのだろう。小さな銀の学章が左胸に輝いている。


「――ああ、わざわざここまでありがとう。こちらこそ本当にすみませんでした。俺の方が謝らないといけないのに……」


「いえ、でも、お会いできてよかったです。今日も会場が海原さんのファンの方でいっぱいになっていますね。海原さんに元気をもらっているファンの方が沢山いらっしゃるんですね!  これからもずっとファンの人達のために歌い続けていてくださいね。では、私はこれで……」と少し名残惜しそうに裕星をチラリと見つめ、そして急いでちょこんと頭を下げ出ていこうとした。



 ──俺の歌に元気をもらってる? 俺は何とか売れる歌を作って歌っていただけだったかもしれないな。俺が歌うことで他人が元気になるなんて、考えもしなかったよ。今まで何か物足りなかったのは、本当の自分を出すことを恐れていたからかもしれない。

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