第17話 水に濡れても
♢
乾いた夏の音がした。ゆらり揺らめく陽炎の中で子どもたちの笑い声が聞こえる。ばしゃりと水の音がした。
水の滴る髪をかきあげながらカエデは小さくため息をつく。
「やーい、パンダ」
「裏切者!」
「この国から出てけー!」
揶揄ういじめっ子たちに苛立ち、カエデは足元に落ちていた石を数個投げつけた。
「ひっ、逃げろ~!」
「くそ! 弱っちいくせに!」
いじめっ子たちが一目散に逃げていくのを鼻で笑いながら、カエデは家路を辿る。
「うちのことをからかうからよ。いい気味だわ」
強気な少女は家に帰ると暗い部屋の隅で蹲る。しばらくすると小さな嗚咽が部屋に響き始めた。
この世界の者なら誰もが知っている
『人間と妖怪の
昔は
それでも差別の目がなくなることはない。いつしかパンダというスラングまで生まれ、
それでもカエデの心は折れなかった。それは彼女を支え続けた女性の存在があったからだ。
木の軋む音が聞こえ、カエデははっと顔をあげた。洗面所で顔を濡らして涙を隠すと音のした玄関に向かう。
「お母さん!」
「あらカエデ、帰ってたの」
駆け寄るカエデに優しく微笑みかける彼女は、カエデの本当の母親ではない。彼女の名は
「あら、どうしたのそんなに濡れて」
髪の毛が濡れていることに気づき、鞄の中に入っていたタオルを頭にかぶせる。
「今日暑かったから友達と水遊びしてたの」
「カエデは体が弱いんだから、気を付けて遊びなさい。ほら、一緒にお風呂に入りましょ」
カエデは生まれながらに体が小さく、弱かった。すぐ熱を出したり、病気にかかったり。
それでも彼女は諦めなかった。一人でこっそり練習をして、何度も失敗を重ねた。いつか強くなっていじめっ子たちを、この国の妖怪たちを見返すために。
ある日のこと。カエデはおつかいを頼まれ、街に出ていた。いつもより賑やかな街を眺めながら首をかしげていると、人々がドーム状の建物に吸い込まれていることに気づいた。何が行われるか確かめるために人混みをかきわけながら前に出る。そしてその光景に、カエデは目を輝かせた。
真ん中の舞台で二人の妖怪が妖術を駆使して戦っていた。観客たちは両者に声援を送っている。
「かっこいい……」
齢十二の少女はその世界に憧れた。
以来彼女はより一層真剣に妖術の練習に取り組むようになった。そして十四の春――ついに初出場、初優勝を飾ることになった。トロフィーを抱え、一目散に家に帰る。
「お母さんあのね、
トロフィーと賞金の小切手を見せびらかすカエデ。モミジは目を丸くさせながらそれらを見つめる。
「お金もたくさんもらったし、うち専用の部屋も用意してあるって。だからうちはもう一人立ちできるよ。これでお母さん、少しは楽になれる?」
カエデは気づいていた。自分のせいでモミジも周りから嫌われ、カエデを育てるために仕事をいくつも掛け持ちしていることを。
モミジが体を震わせながらカエデを抱きしめる。いろんな気持ちがあふれ出し、なかなか声にならない。ようやく出た言葉は……。
「そんなの……いらないわ」
カエデは小切手をモミジに押し付け、家を飛び出した。自分の名前を叫ぶ声など聞こえないふりをして、あふれ出る涙を拭いながら走る。
モミジは決してカエデを否定したかったわけではなかった。注目を浴びればカエデを批判する妖怪も増えるだろう。いつも隠れて一人で泣いているカエデを知っているモミジは、これ以上不幸になってほしくなかったのだ。
だがそんな親心など、十四のカエデにはわからない。モミジのためにやったことを否定された。その事実が彼女の心を大きく苦しめた。
それでもカエデは孤独だった。優勝したのに、周りはパンダと揶揄するばかり。唯一の味方であるモミジとは年に数回、手紙を交わすだけになった。
そして
耳のいいカエデは飛んでくる野次も全て聞こえてくる。その状況の中で勝ち抜くのはかなりの精神力が必要だ。それでもカエデには勝つ以外の選択肢はなかった。そして――
『カエデ嬢、二連覇です!』
激闘の末に収めた勝利を噛みしめながらカエデは舞台袖へと戻った。タオルで汗を拭いながらプライベートルームに足を運んでいると、何やら廊下が騒がしいことに気づいた。
巻き込まれないように遠巻きに眺めながら様子を伺う。どうやら一人の少年が騒いでいるようで、数人の警備員が取り押さえていた。
「うちの悪口……かな」
右耳の耳たぶを触りながらそっとその場を離れようとする。
「だ、か、ら! 俺を側近にしてくれって言ってんの!」
少年の言葉に思わず立ち止まる。カエデに気づいた少年が叫んだ。
「あ、パンダ!」
暗い顔をするカエデに近づこうとした少年を警備員が必死に抑える。
「離せ! おい、パンダ! お前の側近にさせてくれ!」
「は? うちの側近? バカにしてんの?」
パンダと揶揄する妖怪が何故側近になりたがっているのか、カエデには理解できなかった。
「側近なんて、いらないから」
小さく呟き立ち去ろうとしたカエデに少年が叫ぶ。
「独りになるな!」
足を止め、少年の方を向く。少年は真っ直ぐこちらを見つめていた。カエデは自分の心のもやをはらうために髪をぐしゃりとかいた。
「なんでパンダなんてスラングでうちのことを呼ぶやつが、うちの側近になろうとしてんのよ、イミわかんない」
「え、パンダってスラングなのか?」
パンダがスラングと知らない妖怪が存在するのか、とカエデは呆れる。
「じゃあお前、なんて名前だよ」
「……あんたに名乗る義理はないでしょ」
「側近は知る権利あるだろ」
「まだ側近じゃないし」
警備員をはらった少年と正対する。黒い短髪と少々地味な見た目のわりに、目立つ狐面を頭につけている。
カエデの中には苛立ちが募り始める。
「いい? 側近ってのは守るためにいるの」
少年は自分の胸をぽんと叩いた。
「だから、俺がお前を守るって言ってんの」
カエデはじろりと睨みつける。狐面の辺りに妖力が集中している程度で、大した力も無さそうだ。
「そんなんでうちを守る気でいるの……」
カエデは自分の右腕に雷を纏わりつかせると、身を低くして構える。
「じゃあ、うちに勝ったらいいわよ」
「……え?」
少年も警備員もあっけにとられる。
「側近がうちより弱かったら意味ないでしょ。だからうちに勝ったら、側近としてうちを守ってもいいわよ」
少年の返事を待たずにカエデは飛びかかった。
「
振り下ろした右手を少年は間一髪避ける。だがバランスを崩してしまった少年をカエデは見逃さなかった。
「
すぐさま雷剣を形成したカエデはそれを少年の頭に振り下ろす。少年は持っていた日本刀で受け止めた。それならばと雷剣を囮に少年の脇腹に蹴りをいれる。反射で後ろに退いた少年。カエデはそれを追って雷剣を振り回す。慌てた少年が躓き倒れると、カエデは振り下ろした雷剣を少年の首元で止めた。
お互い、荒い息を吐く。カエデは
負けてしまった少年は側近にはなれない。諦めて立ち去ろうとした時、カエデが声をかけた。
「ねぇ、名前は?」
「えっと、大日向類」
カエデは汗を拭う。
「そう。うちは新夜楓。あんたのこと、側近として認めてあげてもいいわよ」
「え、なんで。俺負けたけど……」
カエデはルイに近づき、小声で言った。
「うちが疲れてるの考慮してわざと手抜いたでしょ。それに免じて特別に認めてあげる。でも次戦う時は本気で来なさいよ」
金髪を翻し颯爽とプライベートルームの中に入ったカエデの背中を見つめながら、ルイは小さく笑みをこぼした。
「強情なやつだな……」
それからカエデの傍には常にルイがいるようになった。部屋にこもってばかりのカエデを連れまわすルイ。ずっと一緒にいる二人だが、ルイはカエデの家庭事情を一切聞かなかった。そのためカエデもルイのことは聞かないようにしていた。
カエデが十六になった年の秋、二人は海に行った。
「もう海のシーズン終わってるのに……」
電車に揺られながら不満げにそっぽを向くカエデ。
「いーじゃん。ヒト少ないから貸し切りだぜ」
ルイはにひひっと笑った。カエデは右耳の耳たぶを触りながら顔を歪ませる。
「ねぇ、やっぱり帰ろ――」
「お、見えたぞ」
ルイが正面を指さした。カエデはゆっくりと顔をあげ、指さした方を見る。窓の奥、落ちていく太陽に照らされキラキラと輝く大きな海がそこに広がっていた。
真っ白な砂浜に二人の足跡がぽつりぽつりとついていく。鼻で空気を吸い込むと酸素と共に塩のかおりが入ってくる。
「ヒトいないから静かでいいだろ」
ルイは近くにあった流木に座り、海を眺め始めた。カエデも無言で隣に座る。
「せっかくだし、もっと波打ち際まで行ってみるか?」
カエデは首を横に振った。
「うち、濡れたくない」
「なんだ? パンダって水苦手だっけ?」
いつものように揶揄いながらカエデの方を見ると、目にうっすらと涙が溜まっていた。笑っていたルイは頭をかくとおもむろに裸足になって立ち上がり、波打ち際まで歩いた。
「んお? ここにちっちぇカニがいるぞ。って、わ! 冷たいな~」
ばしゃばしゃと波打ち際で一人はしゃぐルイ。俯くカエデの耳にルイの声が飛んできた。
「嫌いになってほしくねぇの」
カエデはゆっくりと顔をあげる。波打ち際で遊んでいたルイが少しずつカエデに近づき、手を差し出す。
「知らないものを知らないまま、嫌いになってほしくねぇの」
瑠璃色の瞳が波のように揺らめく。カエデは恐る恐る自分より一回り小さい手をとった。途端に引っ張られ、カエデの足が地面から離れた。
「きゃっ!」
ばしゃりという水の音と共に、カエデは仰向けで波打ち際に倒れた。
「ふひひ、どうだ! 参ったか!」
呆然とするカエデの顔を覗き込みいたずらっ子のような笑みをみせたルイ。カエデはその腕を引っ張り、海に引きずり込んだ。
「とわっ!」
慌てて起き上がったルイの横で寝そべったまま、カエデはふふふっと笑う。
「お返し」
ルイは濡れた髪をかきながらへらっと笑い、またその場に倒れた。二人はそのままさざ波に耳を傾けながら、日が落ちていくのを眺めた。
「あのさ」
ふと、ルイが口を開いた。思わずカエデはルイの方を向く。ルイは真っ直ぐ天を見つめていた。
「俺の好きな人が言ってたんだ。『嫌いになるなら、まずはよく知りなさい。よく知ったうえで好きか嫌いかを判断しろ』って」
斜陽が射しこみ、ルイの瞳が赤みがかった。まるで日の光を水晶体という鏡に映すように。
「お前が水を嫌っているのはわかってた。……なんとなく。それでも、水を嫌いだからって、海を嫌いになってほしくはなかったんだ。海は……」
ルイは左手で海水をすくいあげる。きらきらと光る水は手のひらから零れ落ちた。
「海は、俺の大事な場所だから」
この時カエデには何故か、ルイがとても悲しげな表情をしているように思えた。何か言葉をかけようか迷っていると、ルイがむくりと起き上がった。そして寝転がっているカエデの顔にばしゃりと水をかける。
「……帰るよ」
いたずらっ子のような笑みを浮かべるルイ。カエデは上体を起こすとそのままルイを押し倒した。
「うち、好きになったよ」
ルイの両腕を掴み、ぽつりと言ったカエデ。ルイからその表情は見えないが、髪の先からぽたぽたと水滴を垂らしていた。ルイの全身の筋肉が一気に強張った。
「海」
「う、海かぁ……」
カエデの一言でルイの力が抜ける。カエデは髪をすくいながら立ち上がる。
「なに、あんたのことだと思った? 言っとくけど、あの時のこと許してないから」
「あの時?」
ルイも立ち上がり、全身の砂をはらう。
「最初に戦った時よ。あんたに手を抜かれたの、ほんとにむかつく」
「そんなに嫌だったのか?」
浜辺にあがりながらカエデは不満げに腕組みをする。
「当たり前よ。手なんか抜かれなくてもうちは勝ってたし」
カエデはルイにびしっと人差し指を突き出した。
「
堂々とした宣戦布告に、ルイは思わず笑みをこぼした。
「ははっ、んじゃあそんときはお互い全力だな」
♢
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