メロンソーダ

春雷

メロンソーダ

「メロンソーダって、何だか文学的ですよね」彼女は言う。

 この喫茶店には不思議な決まりがある。ここでは必ず相席しなければならないのだ。僕はその決まりを知らずにこの喫茶店に入ったので、決まりを聞いたとき、驚いた。レポートが行き詰って散歩している時に、ふとこの喫茶店が目についたので、入ってみたのだけなのだ。僕は人見知りで非冒険的な人間なので、この決まりを知っていたら、きっとこの店には入らなかっただろうと思う。店に入るなり、彼女が座っている席に案内された。彼女は長い髪と睫毛が印象的な、大人しそうな人だった。彼女も大学生で、僕と同い年だという。

「何ででしょうね。切ない感じがしますよね」僕はそう返す。

 僕と彼女はバニラアイスの乗ったメロンソーダを注文していた。

「きっとアイスが溶けていくからじゃないでしょうか。この形はこの瞬間しか見ることができない」

「花火と同じことですか」

「そうですね。消えて行ってしまうから、切ない」

「切ないから、文学的」

「短絡的な考えですかね?」

「いえ、素敵だと思います」

 僕は小説をほとんど読まないので、どういうものが文学的であるのかいまいち判断することができなかったが、彼女の言っていることは何となく理解できた。

「小説とか、読みますか?」彼女が僕の眼を真っすぐ見つめてくるので、どきどきした。

「あまり読まないですね」

「映画も?」

「うん。音楽を聴くことが多いかな」

「へえ。読書家みたいな雰囲気があるので、少し意外です」

「読書家に見えますか?」

「少し」

「初めて言われたなあ」

 僕はアイスをスプーンで掬い、一口食べる。「美味しい」

「美味しいですよね。私、人見知りなので相席するのは苦手なんですけど、ここのメロンソーダが美味しくて、頑張って通ってるんです」

「へえ。人見知り? そんな感じしないけどなあ」

「そうですか? 今、結構頑張って喋ってますよ」

「そうは見えないなあ」

「そう見えないように頑張ってますから」

 アイスがメロンソーダに溶けていく。その光景は、どこか切なく、なぜか懐かしい。綺麗な緑色がだんだんと濁っていく。

「最近、色々とうまくいってなくて」彼女は少し俯いていた。

 僕はどう返答すべきか迷った。何を言っても的外れになってしまうと思った。

「人生、色々ですよ。うまくいくときもあれば、そうでないときもある」

「一般論ですね」

「一般論です。ごめんなさい」

「敬語、やめませんか?」彼女は僕の眼をちらりと見た。

「あー、わかりました」

「えっと」彼女は困った表情を見せる。そこで僕は自分の過ちに気づく。

「あ、そうか。えっと、わかった」

「やっぱり敬語がいいかな?」彼女は笑っていた。

「いや、大丈夫」僕も笑った。

 それが彼女との出会いだった。僕と彼女は、この喫茶店にいるときだけ会う、奇妙な友達だった。


「どんな音楽が好きなの?」彼女は今日もメロンソーダを飲んでいる。

「何でも。ジャズもクラシックも好きだし、アニソンも好きだよ」僕はキャラメルマキアートを頼んでいた。

「へえ。自分で作りたいとは思わないの?」

「思わない」

「どうして?」

「どうしてかな。たぶん、そこまでの情熱がないということなんだろう」

「そっか」

「君は何か趣味があるの?」

「うん。小説を書いてる」

「へえ。どんな小説?」

 僕がそう問いかけると、彼女は照れくさそうに笑った。

「内緒」

「内緒?」

「うん。まだ、内緒」


 それから僕らは何度も会った。毎週水曜日が、僕らの会う日だった。彼女と色んなことを話した。交わす言葉を失ったときは、メロンソーダを眺めた。溶け行くバニラアイスは、やはり切なさを表しているように思えた。

 僕は大学二年生になった。

 そして、彼女はいなくなった。


「わからないねえ。彼女は常連さんだったけど、個人的なことはあまり話さなかったから」「私も困ってる。だってあの子にお金貸してたんだもの」「知らない」「突然だよ。急に研究室に顔を出さなくなったんだ」「親にも当然連絡したが、知らないと言う返事だった」「俺も心配してたんだ。あいつ、どこ行っちまったんだろうな」「そうだよね。突然いなくなるなんておかしいよな」「それがわかれば苦労しないよ」「警察にも捜索届を出したという話を聞いたが」「親友の私に何の連絡もなしに」「弟がいるという話を聞いたけど、どうやら引きこもっているらしいね」「そうそう、思い詰めているような表情をしているときがあった」「みんな心配しているよ。彼女、いい子だったからねえ」「優等生なりの苦悩があったのかもしれないな」「……あるいはこう考えることもできる。つまり、彼女は自殺した、と」「もう諦めている」「捜索も打ち切られたという話だ」「商店街にいたのを見たっていう人が」「メディアでもかなり取り上げられていたんだがな」「何の情報もなしだ」「神隠しじゃないか」「今、どこにいるんだろうな」

 一年間、色んな人に尋ねて回った。しかし何の手がかりもなかった。僕は茫然とした。ああ、どこに行ってしまったんだ。自然と涙が零れた。眠れない夜が増えた。そんな夜は酒に頼った。

 カランコロン。喫茶店を訪れる。今日こそは彼女がいるのではないかと、そんな期待をしながら。でも彼女はいない。今日もいない。どうしてだろう。どうして彼女はいなくなってしまったのだろう。

 僕は適当な席に座った。相席した相手は、シルクハットを深く被った怪しい男性だった。アロハシャツを着て、ジーパンを履いている。僕は座る席を間違ったと思った。もう少しちゃんと周りを見てから座ればよかった。彼女がいないことで、周囲が見えなくなっていたのだ。

「やあ」その男性は僕に話しかけた。無精ひげを手で擦りながら。

「あ、すみません」

「いやいや。そのままでどうぞ。構わないよ。ここのルールだからね、相席必須というのは」

 彼はサングラスをかけていた。ますます怪しい人物だと思った。

「怪しいと思うかい」

「いえ」

「正直になってくれよ。この姿を見て怪しいと思わないなら、君の感覚はかなり世間ずれしているということになるよ」

「あの……」

「ふふ。すまないね。説教をするつもりはないんだ。ただ君に正直になってほしいだけさ」

 彼の眼の前にはメロンソーダがあった。彼はそのメロンソーダをスプーンかき回した。バニラアイスがメロンソーダに溶け出した。炭酸も抜けていった。濁ったメロンソーダは、雨後の川のように見えた。

「彼女を探しているんだろう」

「え?」

「ふふ。知っているよ。ここで君と彼女は何度も会っていただろう? 恋仲とまではいかないにせよ、それに限りなく近い関係だった」

「な、何故それを」

「彼女に会わせてあげようか?」

「居場所を、知ってるんですか」

「もちろんだ」

「彼女は今どこに?」

「付いてくればわかる」

 彼はメロンソーダの入ったグラスを持ち上げ、一気に飲み干した。


 彼が向かった先は、僕の家だった。

「ここ、僕の住んでいるアパートです。ここに、彼女がいるって言うんですか」

「ああ。付いてくればわかる」

「でも、僕は彼女を散々探したんですよ。こんな場所にいるはずがない」

「まあ黙って付いてくることだ」

 彼はボロアパートの階段を上り、二階に上がった。そしてそのまま廊下を歩き、僕の部屋の前に来た。

「ここって、僕の家です。どういうことですか。あなたは一体何者なんですか。どうして僕の家を知ってるんですか」

「それについてはまた後で話そう。ドアを開けてくれ」

 僕はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。彼と僕は部屋の中に入った。ごくありふれた普通の独り暮らしの部屋だ。彼は部屋を歩いて、勉強机に向かった。そして机の引き出しを開け、一冊の大学ノートを取り出した。黄色い大学ノートだった。そのノートはかなり使い込まれていて、薄汚れていた。

「これを読んでみてくれ」彼が僕にノートを差し出す。

「何でですか。これは一体」

「いいから読んでみろ。声に出して読んでくれ」

 僕はそのノートを彼から受け取り、ページを捲った。そこにはノートいっぱいにびっしり文章が書かれていた。僕はちらりと彼を見て、ノートに視線を戻し、その文章を読み上げた。こんな文章だった。

「『メロンソーダって、何だか文学的ですよね』彼女は言う」

 僕は息を呑んだ。呼吸を整えて、次を読んだ。

「この喫茶店には不思議な決まりがある。ここでは必ず相席しなければならないのだ。僕はその決まりを知らずにこの喫茶店に入ったので、決まりを聞いたとき、驚いた。レポートが行き詰って散歩している時に、ふとこの喫茶店が目についたので、入ってみたのだけなのだ。僕は人見知りで非冒険的な人間なので、この決まりを知っていたら、きっとこの店には入らなかっただろうと思う。店に入るなり、彼女が座っている席に案内された。彼女は長い髪と睫毛が印象的な、大人しそうな人だった。彼女も大学生で、僕と同い年だという。

『何ででしょうね。切ない感じがしますよね』僕はそう返す。

 僕と彼女はバニラアイスの乗ったメロンソーダを注文していた……」

 僕の顔が青白くなっていくのがわかった。頭は混乱し、ノートを持つ手は震えていた。「な、何なんですか、これ」

「君の書いた文章だ。『メロンソーダ』という題の小説だろう」

「僕の書いた……」何を言っている?

「そうだ。初めから彼女なんていなかったんだ。彼女は君の作り出した妄想に過ぎない。現実がうまくいかなくなった君は、妄想の世界に逃げ込んだのだ。そして、現実と妄想の区別がつかなくなった。現実と妄想を混同するようになった。あらゆる欲望を小説という世界の中に描き込もうとしたのだ。僕のことを『シルクハットを深く被った怪しい男性』と描写したね。よく見てごらん。現実の僕は普通の格好をしている」彼は両手を広げた。白いシャツに黒のズボン。

 どういうことだ。どういうことなんだ。「あ、あ、あ」嘘だ、嘘だ、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! 「ああ、ああああ、あ」何だこれは、どういうことなんだこれは「あああああ」

「僕は医者だ。君の担当医をしている」

「あ、あああ、ああああ、ああ、あああああああああああああああああああ!」

「さて、戻ろうか。もう病棟から逃げ出すんじゃないよ。見つけ出すのが大変だ」

 のたうち回り、這いつくばって吐いた僕を、彼は見下ろしていた。


 アイスがメロンソーダに溶けていく。その光景は、どこか切なく、なぜか懐かしい。綺麗な緑色が、だんだんと濁っていく。

 

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メロンソーダ 春雷 @syunrai3333

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