仏の眼

二六イサカ

仏の眼

「思い出した!」


 助手席のイヴが、いきなり膝を叩いてそう叫んだので、ウィンスローは思わずバックミラーに目をやった。


「思い出した、何かに似ていると思ったの。あの眼よ。あの眼は、大仏よ!」


 カーラジオからはカントリーが流れていたが、ウィンスローにはそれが何という曲名なのかは分からなかった。


 一瞬、イヴは歌の話をしているのかと思ったが、そうではなく、半刻ほど前に両親の家で出会った日本人の留学生のことらしかった。


「ほら手を嗅いでみて、私達あの子と握手したでしょ? 花の香りがするわ、蓮の花じゃない? それに観た? あの笑い方、あれはアルカイック・スマイルよ。これでわかったわ、あの子はきっと仏の化身よ。梵我一如よ。禅だわ、素晴らしい!」


 自分の手の匂いを嗅ぎながら恍惚とする妻をみて、ウィンスローは20年前の遠き日々を思い出した。自分だってかつては、カリフォルニア・ドリームを追いかけたのだ。


 母はそんな自分たちとは違い、日本人と戦った世代であったけれど、父が病院の世話になり始めると、寂しさを紛らわすために日本人のホームステイを受け入れることにしたのだ。


 イヴはそんな、海を挟んだに会ったことに興奮したようだった。


 隣人の名前はノドカと言った。ノドカは髪が黒く、健康的な小麦色の肌をしており、背は年老いて縮んだ母よりも小さく、身体の線は細くて凹凸がなく、典型的な蒙古系の少女と言えた。


 ウィンスローはGメンのように、頭の中で今日出会ったばかりの日本人の特徴を並べた。眼も、確かに細かった。


「ただの日本人だよ。可愛らしいが、控えめで大人しい。それに今の日本人は、それほど仏教と親しくはないんじゃないかな。彼らだってTシャツにジーンズを履くんだ。僕たちアメリカ人と大差ないさ」


 ウィンスローはとりとめのない返事をして、妻の反応を待った。


「あら、まるで見てきたかのように物を言うのね。日本に行ったこともないくせに、そんなこと分からないでしょう。よしんばそれが事実だとしても、救世主はそういう信仰と人々の関係が希薄になった時にこそ現れるのよ。キリストのようにね」


 そうきたか、とウィンスローは心のなかで両手を挙げた。自分の霊験に釘を刺されたことが頭にきたのか、イヴは外を向いて黙りこくってしまった。


(しかしまあ、面白いことを思いつくものだ)ウィンスローは微かに微笑んだ。


(ノドカは確かに眼が細かった。その点で典型的な日本人であることは変わりない。ただ―)


 ウィンスローは学生時代に読んだ、歴史の教科書に描かれた日本兵のイラストを思い出していた。そこで日本人はメガネを掛けた出っ歯の男として描かれ、白人の女性を乱暴に抱く腕は、猿のように毛深かった。


 そしてあの眼。眼は小さい虫のように細く歪んでいて、顔全体の醜さを際立たせていた。戦時中のプロパガンダだと分かっていても、ウィンスローはその顔を初めて見た時、嫌悪感を抱かずにはいられなかった。


 頭の中では分かっていても、日本人の眼の細さは、暴力や野蛮といった、かつて敵だった時代の印象と密接だった。


 だが同時に、ウィンスローはそうでない日本人像があることも知っていた。それは浮世絵や絵巻物に描かれる、自分たちとは違えど、芸術や文化を背負った、1つの文明人としての日本人の姿だった。


 前者では細い眼は憎悪を抱かせるのにたいし、後者は光悦に満ちており、仏教的な(あの全てを自然に任せるような)気怠さを感じさせた。どうして同じ日本人の同じ細い眼に、これほどの違いがあるのだろうか。


 ウィンスローは改めて疑問に思うと同時に、では今日会ったノドカはどちらだろうと思い返してみた。


(あの眼。あの興味深い眼は、確かに細かったけれど、不快感はなかった)


 そう考えてみると、イヴがノドカの眼を大仏の眼に例えたのはおかしなことではあるが、分からないでもないなとウィンスローには思えてきた。


 ウィンスローは妻にバレぬよう、鼻を擦るフリをして片方の手をハンドルから離し、匂いを嗅いでみた。汗と鉄の混ざったような酸っぱい匂いしかしなかった。


 ウィンスローはおかしくなって、ふてくされるイヴに向かって言った。


「ハニー、仏陀は日本人じゃなくてインド人だよ。日本の大仏の眼は確かに細いけど、本当の仏陀はきっとあんなのじゃない。」


「あら、じゃあインド人は眼が大きいの?」


「そうさ、ベティ・デイヴィスのようにね。」


 ウィンスローがこう返すと、機嫌を取り戻したのか、笑いながらイヴが言った。


「それなら、ベティ・デイヴィスも仏の化身だわ。」


 カーラジオはまだカントリーを垂れ流している。相変わらず歌手の名前は分からない。

 

    ◇


 数ヶ月程たって、ウィンスローの元に母から電話が入った。電話の向こうの母は静かに、入院している父が危ない状況であることを告げた。


 受話器を置いたウィンスローは、ついに来たかと内心思った。前回の訪問も父の容態が余り良くないがためであり、背が高く、骸骨のように痩せ細った父の担当医は、持って年内という見込みを下していた。


 運悪く、イヴはインフルエンザに罹ってしまい、取り敢えずはウィンスローが向かい、イヴは体調が回復次第、父がまだようならば来る手はずとなった。


「ごめんなさいウィンスロー、こんな時に」ベッドに横になったイヴは、夫を見上げて言った。


「僕こそすまない、病気の君を一人置いていくことになってしまって」ウィンスローはそう言うと、妻の額に口付けした。


「お義父さんなら大丈夫よ、お義母さんがついているし。それにノドカもついているわ、彼女は仏陀よ」


 イヴは夫が余りにも物憂げな顔をするので、精一杯の励ましをしようとした。ウィンスローはそんな妻の気持ちが分かり、「そうかもしれないな」と力なく微笑んだ。


 病院に向かう車の中でウィンスローは、イヴに言われるまで、母親の元にいる日本人のことをすっかり忘れていたことに気が付いた。


 でも一度思い出してみると、ノドカのあの細い眼がありありと脳裏に浮かび上がったことが、ウィンスローには不思議でならなかった。


(仏の眼、か)ふと、イヴの例えがウィンスローの心をとらえた。


 病院に着き、受付を済ませると、ウィンスローは父の病室へと向かった。母は父の着替えを取り替えに一度家に戻っているとのことだった。病室のある5階に上がると、そこには誰もおらず、フロア全体がしんと静まり返っていた。


 不審に思いナースステーションに向かったが、そこも蛻の殻だった。ウィンスローは謂れのない不安が自分を支配し、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 そんな時、恐ろしい男の悲鳴が静寂を切り裂いた。


 ウィンスローはそれが父のものだと感覚的に分かるやいなや、病室へと駆けていった。父の病室は扉がキッチリと閉められており、肩で息をしながら開けようとしても、無情にもビクともしなかった。


 扉には小窓が付いており、そこから中を覗き込んだウィンスローは、ベッドに横たわりながら怯える父と、その視線の先にいる小柄な女を認めた。


 (馬鹿な、どうして、なんのために)間違いなく、その線の細い女はノドカだった。


 混乱した頭は、ノドカが父に何らかの危害を加えようとしているという結論に至った。ウィンスローはもう一度ドアをこじ開けようとしたが、やはりドアは鉄のように微動だにしない。


 焦ったウィンスローは、ノドカの注意を自分に向かせようと、ドアを叩いたり蹴ったりして大きな音を出し、更に思いつく限りの罵詈雑言を彼女に浴びせた。彼女のみならず、父すらこちらに気付いた様子はなかった。


 無力さを感じたウィンスローは、扉の前で目をつむり、歯を食いしばった。額からは汗が止まらない。


「来るな女狐め。お前の正体は分かってるんだ。俺に会いに来た魂胆も知っている。全て知っているんだ! クソッタレの猿め! くたばれクソッタレ!」


 父の声が聞こえ、ウィンスローは再び中を覗き込んだ。ノドカは父の剣幕にも怯まず、その距離を縮めている。音も立てず動くその様は、まるで幽霊のようだった。


「来るな、近寄るんじゃない! その汚らしい手で俺に触れるな、クソッタレ! 今更なんだって言うんだ! 俺はお前の正体を知っているんだぞ! 俺はずっとお前たちに助けを求めていたというのに、ずっとお前たちを必要としていたのに、お前たちは俺を気にかけたことなんて一度もなかった。お前たちは俺を必要となんてしていなかった。お前たちは詐欺師だ、大嘘つきの罪人だ! お前たちこそ地獄に落ちるべきなんだ。俺だってお前たちなんて必要としていない。クソッタレ!」


 何を言っているのか、ウィンスローには全く理解できなかった。一体誰が、何の権利をもって息子にこんな哀れな父の姿を見せようというのか。ウィンスローは絶望した。


 ノドカが歩み寄るたび、年老いた病身のどこにそんな力があるのかと思われるほど、父は激しく身体を動かして抵抗した。それでもノドカは父に近づいていき、父の顔を覗き込むと、耳元で何かを囁いた。


 ウィンスローは、その時の父の恐怖に歪んだ顔をはっきりと観た。


 父は大きく目を見開いたまま、ノドカの言葉を聞いていた。ウィンスローは一瞬、父が死んでしまったのではないかと思ったが、静かに胸が上下するのをみて安心した。


 少しして、父は目を瞑って淡々と何かを喋り始めた。


「まだ4月だっていうのに信じられないぐらい暑かった。生涯で体験したことないぐらい、世界中のあらゆる砂漠に行ったって、あんな暑さはない。島は常に熱風が吹いていた。海からは艦砲射撃をやるし、陸では味方が火炎放射器をやっていたんだから仕方がない。日本兵ジャップも盛んに撃っていたからな、とにかく仕方がなかった」


 父の声以外は自分の拍動すら聞こえず、ウィンスローには世界中のあらゆる存在が、父の話を聞いているよう思われた。


 ノドカはいつの間にかベッドの端に座っている。慈しむかのように父に向けられた日本人の眼と表情に、ウィンスローは見覚えがあった。


「俺達はいつも5人だった。デトロイトのジョナサン・ムーアに、ボルチモアから来たパトリック・バウマン。赤毛のハーパー・サン=シールはニューオーリンズ。チビのロベルト・マルティネッリはブルックリンだった、間違いない。そして、エドワード・ウォーカー、奴はサンフランシスコで、俺たちの大将だった。

 

 エドワードはイオウジマにも行ったことがあって、俺は日本兵ジャップを殺すのはどんな感じだと奴に聞いたことがあった。エドワードはわけないさと笑いながら、害虫駆除みたいなもんだと言ったから、それを聞いた俺達4人は笑った、忘れもしない。ある日のことだ、その日も暑かった。太陽は常に俺たちの頭上にあった。俺たち5人は、日系二世のタローと一緒に日本兵ジャップの掃討に出かけた。エドワードはタローが嫌いだった。

 

 島には何千もの天然の洞窟があって、その一つ一つに日本兵ジャップが潜んでいた。俺たちはその洞窟に出かけていって、奴らに投降を呼びかけ、応じなかった場合は、火炎放射や毒ガスで奴らを殺した。火炎放射で焼き殺すときは特に暑かった。俺たちはいつもどおりの仕事に取り組むため、ある洞窟の前に立った。


 日本語のできるタローが洞窟の前で投降を呼びかけると、1人の女が怯えながら出てきた。着ている服はボロボロで、痩せ細った身体の所々に傷跡があった。にも関わらず女は俺たちを見回すと、笑った。間違いないし、忘れもしない。あの時、あの哀れな女は確かに俺達を見て笑ったんだ。細い目を更に細めて、口角を上げ、まるで大仏のように笑った。


 女は死を覚悟していたから、敢えて仏のように笑ったんだ。きっとそうだ。何故なら、何故なら死は奴らにとってきっと救いだからだ。何故なら、何故ならその後俺達は、何故なら、何故なら」


 そこまで言って父は言葉に詰まった。ノドカがまた耳元で何かを囁くと、父は首を横に振り、声を上げて泣き出した。


 ウィンスローは目の前で繰り広げる奇妙な光景を、ただただ息を飲んで見守るしかなかった。


「エドワードは、女に銃口を向けた。そして、そして、ああクソッタレ!奴は女を撃った、奴は撃ったんだ! 俺はやつが何を考え、何をしたのかが分からなかった。俺は女を哀れに思ったし、他の連中も同じ気持ちだと思っていた。


 女を撃った後、エドワードがタローを睨みつけると、その哀れな日系人は下を向いて何も言わなかった。動けない俺を横目に、他の4人は黙々と仕事を進めた。いつのまにか女の死体は無くなっていた。俺はその後、ずっとそのことを考え続けた。夜眠る度、瞼の裏にあの女の顔が浮かび上がってきた。


 それで、耐えきれずに俺はエドワードを問いただした。どうしてあの女を撃ったんだと。そうしたら、疲れた顔をしてエドワードは答えた。「暑かったから仕方がない」と。俺は、俺は納得が行かず、ずっと考えていた。でも結局納得できる答えは見つからなかった。何故なら、何故ならもう誰もいないからだ。


 ジョナサンとハーパーはある日偵察にいったきり戻ってこなかったし、パトリックは腕を、ロベルトは足を吹き飛ばされて死んだ。エドワードは一番酷かった。あいつは砲弾を直に喰らって跡形もなく吹き飛んだ。惨すぎる。


 もしかしたら、あいつらが死んだのは天罰なのかもしれない。では俺は? 1人だけ、1人だけ生き残った俺は生き地獄だ。ああクソッタレ! 国に帰って仕事に就き、結婚して子供が作っても、俺はずっと答えを探していた。でもいくら考えても答えがでる筈などないんだ。何故なら、何故なら答えはあの島に埋まっているからだ! クソッタレ、どうして!」


 父は両手で顔を覆い、身を震わせた。ウィンスローは初めて、父がここまで感情を露わにして、激しく慟哭する様を観た。ノドカは父の両手を握るとゆっくりと顔から剥がした。


 父は真っ赤になった眼を大きく見開いて、ノドカの顔と、そこに浮かんでいる笑みをまじまじと見つめた。


「やっぱりそうだ、お前なんだな、ようやく会えた。俺はあの日以来ずっとお前を忘れたことはない。俺は疲れた。俺を地獄に連れて行ってくれ、あいつらが俺を待っているんだ。頼む」


 ノドカは笑みを絶やさずぬまま、もう一度父の耳元で何かを囁いた。父は眼を瞑り、涙を流しながら何度か頷いた後、小さく「ああ神様」と呟いたようだった。


 ウィンスローは扉の前で呆然と立ち尽くし、これは夢か現か、はたまた自分が生きているのか死んでいるのかすら検討がつかなかった。


「ウィンスロー? どうしたの、そんなところに突っ立って」


 ハッと我に返ったウィンスローが声のする方向に眼を向けると、そこには怪訝そうに自分を見つめる母が立っていた。


 気付けば周囲に喧騒が蘇り、いつもの病院に戻っている。混乱するウィンスローの背後で、扉が開く音がした。


「あらノドカ、来ていたの? 学校はどうしたの」


 母が驚きの声を上げた。そこにはさっきまで父の側にいたノドカが立っていた。ウィンスローはどう接していいか分からず、口をパクパクさせた。


「こんにはサリーおばさん。午後の授業が休講になったので、おじさんの様子を見に来たんです。幸せそうに眠っていたので安心しました。もう戻ります。おばさん、ウィンスローさん、また後で」


 そう言うとノドカは、あの笑みを浮かべて去っていった。ウィンスローはその背中をジッと見つめたが、日本人の小さな背中は何も語らなかった。


「わざわざ来てくれるなんて、本当にノドカは良い子だわ。神様の贈り物ね」


 鉄のようにビクともしなかった扉をやすやすと開けながら母は言った。


 ウィンスローはおそるおそる病室に入り、父の様子を伺った。小さな寝息が父がまだ生きていることを物語っており、ウィンスローはようやく息をついた。


 ノドカの言う通り、確かに父は幸せそうだった。父の顔をしげしげと覗き込んだ母が言った。


「観てよお父さんの寝顔、やっぱり若い女の子が来ると元気になるのかしら。男なんて幾つになっても一緒ね」


    ◇


 翌日、イヴが合流した。電話で妻の声を聞いた時、思っていたよりも治りが早かったので、無理をしていないかとウィンスローは心配になった。だが会ってみると、すっかり元気そうだった。


 その後1週間、ウィンスローは、妻と母と共に末期の父を見守った。ノドカは学校が忙しいらしく、両親の家以外では会わなかったが、母は別に気にしていないようだった。


 ノドカの方も父を心配する素振りこそあれ、怪しい所は1つもなかった(やはりあの日のことは白昼夢だったのではないか)次第に、ウィンスローはそう思い始めていた。


 父は時々目を覚ましては、昔話をしたり、家族の近況を聞いたりして過ごした。


 一度たりとも、ノドカと戦争の話は出てこなかった。そんな春の昼下がりのような暖かな日々の終わり、文字通り眠るように父はこの世を去った。


 担当医は悔やみと、自分たちの対応が至らなかったことを形式的に述べたが、母が「夫はこれまでに観たことがないぐらい安らかでした。生前は日曜日の教会にも行かないような人でしたが、最後の最後に神の恩寵をうけられたようで安心しました」と言うと、安心して次のに去っていった。


 ウィンスローは帰りの車の中で、あの日のことを考えていた。ノドカは相変わらず不気味であったものの、父の最期からみるに、漠然とではあるが、少なくともあの出来事は父にとって悪いことではなかったように思えた。


 バックミラーには、頬杖をついて窓の外を見つめる助手席のイヴの姿が写っていた。


「ハニー、聞いて欲しいことがあるんだが」


「どうしたの?」


 ウィンスローは思い切って、あの日のことをイヴに打ち解けた。あの日のことは、母には結局話さなかった。


 もし話せば、ノドカを実の娘のように愛する母に、何らかの変心をもたらすのではないかと、恐れていたからだった。


 イヴは夫の話を黙って聞いていたが、やがて話が終わると、静かに口を開いた。


「私もあなたに話したいことがあるの、これはきっと今あなたが話したことに関係のあることよ。貴方がお義父さんの所へ行った晩、熱にうなされながら私、夢を観たの。夢の中で私は花畑の中にいたわ。頭上には太陽が燦々と輝いていた。


 私、そんな綺麗な所じゃ手持ち無沙汰だから、ぶらぶら歩いていたの、そしたら地平線の向こうに人影が見えた。それがぐんぐん近づいてきて、ようやく観えるようになって初めて気付いたの。


 それはノドカだった、間違いないわ。だってあの眼と、あの笑みを浮かべていたから。私、びっくりしたわ。でも恐怖とか不安はなかった。むしろ身体が風船のように軽くなって、空に浮かびそうなぐらい気持ちよかった。


 目を覚ましたら、ビックリ。枕が汗で水浸しよ。でも、不思議と頭はすっきりとしていて、身体もすっかり元気になっていたの。それで次の日、私もすぐにお義父さんの所へ行ったのよ」


 ウィンスローはただ一言、「そうか」と答えた。それ以来、2人は黙ってしまった。


 ウィンスローは病室、イヴは夢での出来事をもう一度頭の中で噛み締めていた。それはどことなく、半ば伝説と化した子供の頃の遠き思い出を辿る作業に似ていた。


 それは決して、不快ではなかった。


    ◇ 


 数年後、ウィンスローとイヴはまとまった休みが取れたので、思い切って日本へ旅行することにした。


 ノドカは父が死んで間もなくして日本に帰った。母はあれ以来、よほど日本人が気に入ったらしく、今では2人の日本人留学生を家に住まわせている。


 ウィンスローはこの新しい家族に会ったが、2人共真面目で大人しく、年老いた母の側にいてくれることが有り難かった。


 直接口には出さないものの、ウィンスローもイヴもノドカのことを忘れてはいなかった。折角の機会だし、久しぶりにノドカに会いに行こうとイヴが言うと、ウィンスローは早速連絡をとってみることにした。


 だが母にノドカの連絡先を聞いても、不思議なことに、名前と通っていた日本の学校、そして楽しかった日々の思い出の他は何も覚えていないととという返答しかなかった。


 それで仕方なくウィンスローは、ノドカが通っていた日本の学校に電話を掛けた。


「初めまして、私は以前貴校の留学生を預かっていたホストファミリーの者で、ウィンスロー・スタントンと申します。今度来日する際、是非とも彼女と久しぶりに会って話がしたいのですが、生憎彼女の連絡先を知りません。名前はノドカ・オトナシです。もしよろしければ、連絡先を教えて頂けませんか」


「少々お待ち下さい」受話器の向こうで元気な返事があった後、保留音が流れた。


 待っている間、ウィンスローはノドカの細い眼と、あの特徴的な笑みを思い出していた。今でもとあの情景を思い浮かべることができ、きっと死ぬまで忘れることはなかった。


 しばらくして、受話器の向こうから困惑したような声がした。


「申し訳ありませんが、そのような在学生及び卒業生は当校にはおりません。失礼ですが、人違いではないでしょうか」























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