あらまほしきかな

一ノ瀬 水々

第1話 夜刻に猫

 あれは去年の暑さを思い出されるような初夏の夜だった。


 いきなりの気温の上昇加減に体がついて行かれず、昼間は蒙昧とした意識を辛うじて保つに全身全霊を注ぐのであった。その夜は幾分か風が涼しさを取り戻したことを感じ、嫌というほどの熱気から逃避行を図って散歩を試みることにした。とうとうと歩いていると、目の前に黒猫。やあと小さく声をかけると猫もこちらを向き直し小さくお辞儀をしてくる。これはこれは、如何せん近頃夜刻に外出ていなかったからか、猫というものは最低限のエティケットを弁えるに至ったらしい。

 こちらもウカウカとはしていられぬ。襟を正し、まくり上げた袖口をグイと手首まで巻き戻し、英国紳士のごとく深々と首を垂れる。

「いやはや、お初にお目にかかる。私、小夜に彷徨う旅人にて候」

 心の中で四~五秒数えた後、プイと目線をくれると、目の前にはさっきの黒猫と、それを抱く若い女がおった。それはもう飛び切りの不審な視線を私は克明に刻み込まれてしまい、「アッ!またやってしまった」と思うが否や反応速度に鈍さを感じながらも一匹と一人にクルリと背を向けて立ち去ろうとした。

 背後から「あなた、お金持ってるかしら」と尋ねられたと同時に私は強烈な眩暈に襲われた。暑い昼間にジッとしていたのにも関わらず、ご機嫌に任せて急に散歩などと洒落込んだ自分の思考的な若さに絶望を感じざるを得なかった。

 ヘタリとその場に蹲み込んだ私の視界に先ほどの一匹と一人が入り込んでくる。

「あなた、どうしたの。死ぬならその前にお金くれない?」

「金はやらん、断じてだ。自分の女でもない女にくれてやるものなど何もない」

 体勢とは裏腹に強気な言葉で応戦する。なんと浅ましい女であろうか、私の弱り目を見計らってめぐんでもらおうなどと不届き千番。このような手合いには折れてはならぬ。決して怯んではならぬ。

「じゃあ私、あなたの女になる。それでいいでしょう」

「ならよろしい。それではお前に最初の甘えをしようと思う。近くに行きつけのバアがあるからそこに俺を運んでくれ」

「いいわ。でも嫌よ、自分で歩いて」

「構わない。それでもよろしい」


 この夜から始まったのだ、私の人生における伝説とも表現して差し支えない数日が。

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