歪められたもの

 シセツ。そう呼ばれていたその建物の外に出たのはたった一度きり。そこを出ていくことになったその日だけだった。それでも、そのことに不満を唱える子どもはいなかったように思う。

 シセツはとても居心地が良かった。

 雨風を凌げたし、食事も三食に加えて甘味も提供された。広く大きな中庭には自然を感じられたし、大概の望みは叶えられた――とリュカは振り返る。


「それはリュカが優等生だったからだろ」


 クゥはいつもの調子でふん、と鼻で返したが、そんな彼もシセツから抜け出そうとはしていなかったはずだった。

 同じシセツ出身でも、育ち方は違う。育成方針が大きく違ったせいだ。


「言いたかないけど、おれとリュカじゃ全然ちがうよ。おかげさまでおれは根っからおかしくされちまったンだから」

「……どんな」

「……言わねーよ。人形みたいにおキレーじゃない、ってハナシ」


 シセツ時代、子ども等の寝室は四人ひと部屋でリュカとクゥはその同室だった。が、本当に一緒にいる時間はそう長くなかった。寝起きと少しの自由時間を除いてはシセツ員がプログラムと称して各部屋で各々を教育する。それぞれにどんなことが行われているのかを知ることはほとんどなく、一部を除いては大抵その内容を口にしたがらなかった。

 リュカはてっきり、自分と同じように日がな美しい所作を保つ練習とその相貌の向上維持をしているのだと信じ込んでいた。

 シセツを出た今でも、クゥはその詳細を語ろうとしない。文句だけは、折々零しても。


「大体そもそも、リュカは客前にも出されなかっただろ。おれの方が長くいたせいもあるけど。リュカは運がいいよ。仕込みの段階でシセツ解体だもん」

「戻りたいのか戻りたくないのかよくわかんないな、クゥの話」


 正直にぽつりと零すリュカに、クゥがハッとしたように見えた。真紅の瞳が狼狽を明らかにして揺れる。

 シセツを出て、互いに新しい家族に迎えられて数ヶ月が立つ。新しい家族は、二人揃って男やもめの顔馴染み、合間を縫って話を聞く限りは互いに平穏に暮らせているという認識だった。


「……戻りたいかって言われたら、そうかも」


 押し黙るような間のあとでクゥは小さく呟いた。

 その反応がまた意外で、リュカは首を傾げる。


「徹生さん、いい人なのに?」


 僕は、今のほうがしあわせだけどな。と続けることはできなかった。目の前で頭を垂れるクゥの表情からは混じり合ったような複雑の色があまりに濃い。

 それでいてその理由ワケをこの素直じゃない友人が語ることもないのはわかっていた。


「別に徹生のせいじゃない。……だから始末が悪いんだ」


 眉をハの字に下げて、クゥは肩を竦めた。

 

「おれはお前が羨ましいよ。素直だしかわいげもある、まっさらでキレイなお前が」

「僕は、クゥのそういうところを徹生さんが気に入ってるんだと思うけどな」

「そういうんじゃない」


 シセツを出た今は、ふつうの子どものように学校にも通えて、ようやく一般的な暮らしを手にしたと言える。問題は何もないはずだとリュカは思っても、クゥの問題はもっと別にあるのだろう。

 

「おれは、飼われたままであるべきだったのかも。シャクな話だけど、アイツといると時々そう思ってしまう。アイツには叶えられないし、おれはそれを望めない」

「望もうとしない、ンじゃなくて?」


 リュカの知る限りはクゥを引き取った徹生という男はクゥを可愛がりたがった。そしてそれを煙たく振り払うのを何度となく見ていた。

 リュカの素直な感性で言えば、望めば望むものを与えてくれる相手だと確信する。

 簡単な話に見えたが、クゥは足をぶらつかせて困ったように笑うだけだった。


「帰るか、家に」


 夕日が傾く地平線を横目に、クゥが高台を飛び降りる。河川敷をさらう風は生温く夏を帯びようとしていた。

 リュカにわかるのは、今の暮らしが一般的な幸福なものであるということぐらいだ。それが同じくクゥにとってもそうであるはずだと、心の何処かでは信じていた。

 管理されない暮らし。選択肢が広く、自分で選ぶ猶予のある暮らし。シセツ時代を振り返って、それが不幸であったとはリュカも考えない。

 それでも、今の境遇を複雑に嘆くほどのことはない。

 隣を歩く友人の横顔には先程の複雑さはもう窺えない。それでも、その心に根差した何かがなくなったわけではないこと、その深さを垣間見たように思う。

 

(しあわせじゃないなんて、考えもしなかった、な)


 抱えたものを話せないつらさはどんなものだろうか。想像もつかない。同じ境遇であるとばかり思っていたが、その内情はそれぞれに違うことを改めて知らしめられたことに、リュカはため息を吐く。


「ごめん」


 リュカが口にするより先にクゥが言った。


「こんなの八つ当たりだよな。別におれだって、不幸ぶるつもりはないんだ。鬱陶しいことも多いけど、アイツとの暮らしもヤな訳じゃない。……もう少し時間が要るだけだよきっと」


 言い聞かせるような言葉のあとに、クゥはニッと歯を見せて笑った。いつもの交差点で、それじゃあなと手を振り走って帰って行く。

 まっすぐに走る後ろ姿が消えるまで見送ってから、リュカも帰路に向けて歩き出した。

 それなりに幸福だと思っていたシセツ時代。盲目に慣れた瞳が光を得たときの眩しさに、クゥはまだ慣れていないのかもしれない。それとも。

 リュカの脳裏には、先日学校で習った雛鳥の習性の話がふと蘇える。

 ぴよぴよ。ぴよぴよ。その目を開いたときに見たものを何より慕う、雛鳥のことが。

 

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