CASE:Ryuka

太陽の花


「いつになく目が泳いでんぜ、聡。……何があった」


 同僚の徹生にデスク向かいから声を掛けられて我に返った。さる昼下がり、昼休憩の合間を縫って自宅に会議資料を取りに戻った俺は、今し方見て来た事実の処理を持て余していた。

 楽しそうに愉悦を隠そうともしない徹生へ睨むように一瞥を返すが、すぐに諦めがついた。

 同じ環境を持っているのは徹生だけだと気づいたからだ。

 俺は重い口を開いた。声を潜めて絞り出す。


「年頃の子どもの性の目覚めってのは……」

「あァ? 何だそれ。お前、性教育なんて真面目に語る気か? まだ昼間だぜ、酒もなしにどうした」

「……なら今晩付き合え。お前にしか言えん」

 

 徹生がニッ、と笑って承諾のサインを出す。こいつは酒と女と性の話題が大好きな平均的な……やや平均より過剰かもしれなかったが概ね健全な普通の男だ。

 それきり無駄話を展開することなく仕事に勤しんだ。俺はというと、耳に残る粘ついた声に苛まれ、その日は結局ろくな成果を上げることができないまま夕刻定時を迎えた。

 本来なら残業を課したいところだったが、約束を前にすべてを明日に投げた。


「クゥは盛らんのか」


 一言目にするにはひどいセリフだったが、徹生は笑いながらジョッキを受け取って前に置くだけだった。


「さあどうだか。オレが風俗帰りした日にゃ機嫌が悪いような潔癖だし。……ははーん、リュカに盛りの季節か」

「昼に一度家に戻ったんだが……部屋で」


 遡ることふた月ほど前。俺は徹生と今日のように酒の帰りに街頭演説に出食わし、【里親制度】の契約を交わして齢十四の男児と暮らすことになった。

 リュカ、と名乗った彼は色素の薄い胡桃色の髪に薄荷色の瞳の――まるで人形のような容貌に似つかわしい、柔和で朗らかな健全そのものの性格をしていた。

 いい子としか言いようのないそつのなさだった。


「部屋で俺の名を、呼んでいた」


 まだ耳に残る、あの吐息、あの声。それがどういう意味合いを持つのかは何故だか疑いもしなかった。ドアノブを握る手にじわりと汗が滲んで、音を立てずにその場から離れることに苦心した。資料が寝室になかったことを心の底から安堵した。

 いつもの調子なら、そりゃあいいや、と大笑いしたろう徹生の目が据わった。生ビールを飲み干すまで、まじまじと考え込むような間を挟む。


「……お前、冗談でも触れてみたことあるかリュカに」

「あるわけないだろう、男の子だぞ」

「今どき言っちゃう、そういうこと?」


 なるほどな、と徹生は小さく零した。

 枝豆をしがむ顔はこの男にしてはかなり珍しいシリアスさを含む。俺は静かに生ビールのジョッキを傾けた。酒に強い性分ではなかったが、今日は素面で帰られる自信がなかった。

 隣で徹生が早くも生おかわり、と注文を入れる。


「触られたいんだろ、お前に。難しい話じゃねえよ。ただの家政婦じゃないんだぜ、あいつら」

「あんな歳の子を、抱くわけにはいかないだろう」

「好みじゃないってんなら、見なかったことにしな。扶養義務はあと三年ぽっちだ。普通に親代わりしてやりゃあいい。……やり方まで教授してほしいんじゃないだろ?」


 それは半ば分かっていた言葉だったのかもしれない、なんて徹生の声を聞いてようやく頭が理解する。

 俺は迷っていた。

 リュカの望みを前に自分がどうすべきなのかを。自分がどうしたいと思うのかを。

 徹生のおかわりのジョッキが届く頃を見計らって、自分も麦焼酎のロックを頼む。


「リュカは素直でいいな。うちのクゥもそれぐらいの愛嬌があればよかったんだけどなァ」


 徹生の言葉が頭に入って来ない。頭の中はあの健全そのものに見えた少年の痴態と、その願望を前にどうするのか、そればかりが占める。

 政府官僚の高級娼として育てられたという噂が本当であるのならば、リュカのともすれば少女に見えなくもない仕草や表情も生々しい現実味を帯びる。

 昼の鮮明な記憶はそれだけで俺の身体を熱くさせるに易い。酒のせいなのかどうなのかはもうどうだってよかった。隣でブツブツと管を巻く徹生をよそに杯を重ねているうちに、意識は途切れた。


 


 目を覚ました時、俺は自室のベッドに横になっていた。身体を起こそうとしてひどい頭痛に眉を顰めると、額から濡れたタオルがぼとりと落ちた。

 ベッドサイドの傍らに、リュカが蹲って眠っていた。看病ながらに眠り就いたようだった。


「……リュカ」


 その白い頬へ手を伸ばすと、無意識に擦り寄る仕草を見せ、リュカはゆっくりと長い睫毛を持ち上げた。

 澄み渡るその瞳に見据えられた時、胸が焼けるような心地がした。衝動的にリュカの身体を両脇から掬い上げ、腹の上に跨るように促す。

 リュカは瞬きながら半覚醒のまま首を傾げている。


「さと、り?」

「今日の昼、ここで何をしていた?」


 問うた瞬間、リュカの瞳が明らかに動揺して揺れた。


「ぼ、く……」

「咎めてるんじゃない」


 唇を噛んで俯いては、腰の引けるリュカの両手を捕まえる。その手は汗ばんでいるのに急速に熱を失っていく。手を引いて胸に引き寄せると、リュカは大人しく胸に収まり安堵したのか堪えていた息を吐く音が聞こえた。


「……ぼく、あなたの子どもじゃ、ないよ」


 小さな声で零れる声。切実な響きに応えるよう、俺はその耳朶へ唇を寄せた。息を飲んで震えるように耐えるその姿に、じわり、じわりと欲が燻られる。


「大人じゃないのは、わかッてる。でも……」


 ゆっくりと顔を上げて、俺の瞳を覗き込むリュカは「それだけじゃ嫌だ」と訴えたように見えた。

 どちらが先に動いたのか、重なった唇を食むことに抵抗はない。歯列へ触れて来る舌を受け入れたら、もう迷いはそこになかった。

 互いの熱に触れて触れられて、口へ含んだそれはネクターのように零れる一滴すらも啜り尽くせるほどに甘く、酔い痴れた。

 薬や食事で体液そのものを作り変えるなんて所業があることを知るのはもう少し先の話だった。

 彼らがそれゆえにネクタ・ボーイズと暗喩されたそのことも。

 まだまだ、リュカのことを俺は何も知らない。


「聡」


 温かい布団の中で、柔らかく花のように笑うリュカが俺の両頬を包む。


「ぼくと一緒に居てくれて、ありがと」


 その笑顔を守るためならなんだってしたいと思う瞬間だった。

 両腕に搔き抱いて、どうかこのままと強く願う。

 無機質なばかりの生活に添えられた、太陽の花。

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