第18話 デモデモ、ダッテ
「だから、今の旦那様でいいじゃないの」
服を持ってきてくれた姉が、この上なく面倒臭そうに言った。
「別に、問題のある旦那様じゃないんでしょ? 勘違いだろうが、なんだろうが、気がつかない程度なんだったら、このまま行ってもどうってことなくない? どうせ、一生気がつかないと思うわ」
それはそうかもしれない。釈然としないが。
天使だとか言っているのが、頭おかしいと思うけど。
「いいじゃないの。あなたのことでしょ?」
「別人だと思うんですよね。あの一件で騎士団の皆さんは入場禁止になったし、むしろ、私、恨まれているんじゃないかと。でしゃばり女ってことで」
「遅かれ早かれ、禁止になったと思うわよ? 大体、動機が不純よ」
姉は、お茶をもう一杯所望した。
「お茶のおかわりを」
私はアンに命じた。
アンは思いっきり仏頂面で、台所に消えた。
「なんなの、あの子」
「旦那様に惚れているんです」
仕方ないから私は言った。
姉は相当驚いたようだった。
「なんですって? でも、だからと言ってあの態度はないでしょう。実家から誰か代わりを連れてきた方がいいんじゃない?」
「まあ、この結婚の行く末次第ですね」
姉は、修道院長様から入手した当時の在籍者リストを持ってきてくれた。
懐かしい名前が並んでいる。
「ねえ、私、最初から、このリストが必要だって言う理由がわからなかったんだけど。そもそもあなたの旦那様は、名前を見ても誰が誰だかわからないのよね?」
私はうなずいた。
「だったら、いくらこの名簿を旦那様にお見せしても、何もわからないんじゃないの?」
「もちろんですわ。ですから、これから人相と現在の状況、それから当時あの場で何をしたかの検証を……」
「でも、旦那様だって忘れていると思うわ」
私は黙った。その通りだ。
「結局、旦那様の頭の中の問題だと思うのよ。その時、天啓を受けたとおっしゃっているのよね?」
「まあ、いわばそう言うことです」
私は渋々認めた。
「それで、気に入った天使のような娘を見つけて、結婚したいと思った。でも、きっと誰だかわかっていないのよ。その時の鮮烈な印象だけなんじゃないかしら。その人の性格なんかは、実際、知らないわけだし。話したことなんか一度もないんでしょう?」
それも、その通りだ。
「ほっときなさいよ。せっかく夢が叶って、喜んでいるのでしょう? そして、ここ何日か、一緒に暮らして問題なかったのだったら、逆に合格したと思いましょうよ。結婚生活なんか、熱烈に恋して結婚して、一緒に暮らしてみたら嫌になって別居なんかいくらでもあるんだから」
もう三十代に突入し、子どももいる姉の言葉には重みがあった。
「そんな知りあい、山ほどいるわ」
でも、私がこのリストを集めようと思ったのは、それが理由ではない。
旦那様は、私のことを好きになったわけじゃない。
旦那様が好きな人は私じゃない。
あんなところで騎士団の教師を吊し上げにするような女を、好きになる男はいない。
どんな男からも嫌われる、その女性だったとバレたくないのだ。
あの思い出は、私にとっては、誇りであり同時に黒歴史でもあった。
はっきり指摘して、おかしいことを正したのは、生徒たち、修道女様、修道院長様から見れば、実にスッキリできる素晴らしい手腕だった。
みんな手を叩いて喜んだし、いつもは渋い修道院長様さえクスッと笑って、それから真面目な顔を取り繕って、よくやりましたと褒めてくださった。
だけど、満座で言われた側はどうだったろう。
それに、それまで、得意満面で好き放題に自分語りをしていた騎士団のにわか教師たちは、かわいらしいだけのはずの生徒たちから鋭い反撃を受けて撃沈したのではないだろうか。
せめて旦那様には人違いで終わってほしい。
その、例の、生意気で、男なら誰もがムカッとくる女性だと知らないままでいてほしい。
バレてしまったら、絶対にものすごく嫌がられるだろう。
今後、ムカデを見るような目つきで見られるんじゃないかな。
ドレス代だって、慰謝料だって、出し渋るに決まっている。
それどころか、あの例の、女子修道院の女の園に、先生として堂々と入れる特権を潰した張本人なんかと結婚した件は、騙されたと慰謝料の請求を受けかねない案件だと思っている。マーガレット様が保証したのだもの。旦那様でなくたって、信じるだろう。
正確に言うと、マーガレット様が変な保証をしたせいで旦那様は勘違いをしているのだから、旦那様からの慰謝料の請求はマクスジャージー家の方へ送ってほしいくらいだ。
「なら、余計、黙っておけばいいじゃないの。マクスジャージー家を巻き込むのは得策じゃないわ。それにあなたの旦那様には、永久に分かりっこないわ」
姉は他人事だと思って、呑気にお茶菓子を口に入れた。
私は嫌なのだ。
だって、旦那様は、一生懸命乏しい語彙力で、一目惚れした美しい天使の話を聞かせてくれて、自分の思いを告げてくれるのだが、それ、全部、私の話ではないのだ。
どこかの他人への讃歌なのだ。
旦那様は、女学校時代私たちが夢見ていたイケメンタイプじゃなかったし、口が立つ訳でもないが、不器用ながら一生懸命思っている。
私じゃない人を。
「でもね、その人のことは結局、
そのことがこんなに辛いとは思っていなかった。
気にしなければいいだけ。
そうかもしれない。
あの女かーと、真実を知られて嫌悪の目を向けられ、とんでもないものと結婚してしまったなとほぞを噛まれて、それから離婚されるのと、別人との勘違い婚だった、失敗失敗と解散するのだったら、せめて嫌悪されない分、勘違い婚離婚の方がマシじゃないだろうか。
「だから、どうしてこのままじゃいけないの?って、聞いてるのよ、さっきから。別に嫌いじゃないんでしょ?」
は…………?
「嫌いとか、好きとか、そんな目で見たことありません。大体、男の方がどうも苦手なんです、ご存知のように」
「なに敬語になっているのよ?」
「でも、旦那様は、男の方ではないんです」
姉は、飲みかけの紅茶のカップの手を止めて、私を動物園で初めて見た新種の動物を見るような目つきで見つめた。
「誤解されているなあ、と思った時から、これは正さないといけない、気の毒だと思ったので、とにかくそこからは男性うんぬんの話じゃなくなりまして」
「シャーロット独特の正義感が発動したのね……」
姉が妙なことを言い出した。
「正義感……では、ないと思いますけど、とにかく、耳元で私の天使とか言われ出すと、正直、うっとうしいですし」
「自分のことだと思っておけばいいじゃないの」
「他人への賛辞なんですよ。聞いていられません」
姉は紅茶のカップをテーブルの上に置いて、考え始めた。
「でもね、その真実のお相手の方だけど」
姉はついに言った。
「まず、旦那様への事情聴取が先でしょう。どんな様子の方が好きになったのか、どうしてその方が気に入ったのか」
……………………。
聞きたくないんです。
旦那様が、どんな方を好きなのかなんて、聞きたくないんです……。
知りたくない。
それくらいなら、このまま離婚して何もなかったままの方がいい。
饒舌な姉が黙ってしまった。
「なんだか知らないけど、どうやら一人だけ事情聴取をした人物がいるわよね」
「え?」
誰?
「いえ、分かりました。じゃあ、まあ、この紙はここへ置いておくから、好きなように使いなさい」
私は目をパチクリさせたが、姉はさっさと帰っていった。
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