燦たる、雨が

煌く星はニーチェ

第1話 夏 −静かな午後−

 雨の日は、縁側に出てもいい日だった。

 だから、今日は縁側に出てもいい日だ。

 布団から体を起こし目を擦る。

 普段、あまり動かないから少し頭がくらくらした。

 羽織りを掛けないと、母さんが心配する。

 布団の上に置かれた羽織りを引き寄せ、肩に掛けた。

 布団から出て縁側へ歩み寄り、硝子の窓に右手を置いて庭を眺めた。

 いつの季節も、この庭には花が綺麗に咲いている。

 母さんが、僕が淋しくないようにと、そういうつもりで手入れをしてくれているのに違いない。

 今は、小花がいっぱいに寄せ集まった青い紫陽花が、純情みたいに美しい。

 ゆっくり眺める為に窓を開けて、縁側に腰を下ろした。

 昼間だけれど、雲のおかげで薄暗い。

 顔を天に向けてみて、嬉しくなって、ちょっと笑った。

 外はいい。

 外の空気は、すごくいい。

 細胞が、蠢き、興奮してる。そう、感じる。

 向こうから、玄関の引き戸をガラガラと開ける音がした。

 耳をすませて、そちらを見つめる。

「あら、時君。いらっしゃい」

「こんにちは、おばさん。佐鳥、起きていますか?」

「ええ。きっと起きてるわ。雨が降り出したから。こんな日に、あの子が大人しく寝ているなんて、それは、ないもの」

母さんと、時の会話が聞こえて来る。今日もまた、時が来てくれた。

「おばさん、お土産」

「あら、いいのに」

「でも、受け取るんでしょ?」

 あははっ。

 時が笑って、母さんも笑って、その笑い声を聞いて、僕も笑った。

「すぐに、お茶、用意するわね」

 時がこの部屋へやって来る前に、僕は視線を庭に戻した。青い紫陽花の、花のひとひらに、雨の雫が不意に当たって、跳ねて、砕けて、土へと染みた。

 雨が、少し弱いから?

 土は、まばらに乾燥していて、大蛇の皮膚のようでもある。

「佐鳥、起きてる?」

「うん」

 襖の向こうに返事をしたら、時は、静かに襖を引いた。

「まだ、向こうの空には、陽、出てるよ。雲が涌いて、もう少し暗くなるのを待った方がいいと思う」

「平気だよ。こっちは暗いから。時って、うるさい」

今、言った通り、時は、うるさい。僕の体を心配して小言を言う。

「そういう態度だと、どら焼きあげない」

 どら焼きは僕の大好物だ。

「それ、栗、入ってる?」

「もちろん」

「謝るから、どら焼き頂戴」

 振り返って手を差し出したら、時が笑った。


 どら焼きと引き換えに雲が増えるのを待つ為に、部屋の奥へと僕は戻った。

 窓を閉める事だけは、断固拒否した。

 雨の日の湿った空気が、部屋の中に満たされて行く。時折、吹く微風は、少し冷たく、直接、魂に愛撫を受けているようで、すごく気持ちが良かった。

「また、そうやって、栗だけ食べる……」

 どら焼きを開いて、あんこの中に沈んでいた甘い栗を、指でつまみ出した僕に、時は、飽きもせずに、また、そう言った。いつもの事なんだから、もう、言うのも疲れるだろうに。時の言葉など、どこ吹く風。僕は、栗を頬張った。

「あ、おばさん。ちょうど良い所に来てくれた。佐鳥が、また、行儀を悪くして栗を先に食べました」

漆塗りの、まあるいお盆に、いびつな形の茶碗をのせて、部屋へ入ってきた母さんに、時は、僕の不届きを告げ口した。

「いいじゃないか。いつ死んじゃうかも知れないんだから。好きな物、先に食べて何が悪いの」

 言って、すぐに後悔した。

 母さんが、今、はっきり悲しんだ。

「……あなたは、死なないわよ」

ごめんなさい……。心の中では思ってるんだ。

「そうやって、死ぬ死ぬ言っている奴に限って、しぶとく生きる。それが世の常、人の常。佐鳥は、その典型だよ」

 あははっ。

 時は、優しい。母さんにも、僕にも。

「おばさんさ、こっちのどら焼きも食べる? さっき渡したのはつぶあん。こっちはこしあんなんだよ。佐鳥が我がままを言って、つぶあんだと怒るから」

 包みごと母さんにどら焼きを差し出した。時が、優しく笑うから、母さんも少し笑った。

「ゆっくりしていってね」

 お茶を出してくれた母さんが部屋から出て行った後、時が、僕の頬をつねった。

「何だよ……」

 一応は、抗議する。でも、時が何を言いたいのかは解ってる。

「……悪かったよ」

 謝ったから、時は、僕の頰から手を放した。それから、珍しく怒ったような口ぶりで「佐鳥は百歳まで死なないよ」と、独り言のように言った。時も、僕の言葉に悲しんだのかも知れなかった。


 それからの僕らは、大体、静かだった。

 僕は、母さんを悲しませた事に、ついでに、時を悲しませたのかも知れない事に、落ち込んでいたし、もう、どら焼きの中に栗がない事にも落ち込んでいた。

 時のどら焼きにチラリと目をやる。

 真ん中が膨らんでいて、まだ、そこに栗がある事は明白だった。

「時。君のどら焼き、見せて」

「いいよ」

 時は、どら焼きを開いて宝石のような栗を指でつまんで、それを頬張りながら、僕にどら焼きを差し出した。

「……」

「やるもんか」

 佐鳥の考えてる事、単純だからすぐ解る。

 あははっ。

 時が、能天気に笑うから、僕は、ちょっとムッとした。

「……僕は、君が思っている程、単純じゃない」

 御膳を離れ縁側に寄って、腰を下ろした。

「栗くらいで、怒る事ないのに」

 時が、後ろで言っているけれど、僕は聞こえていないふりをした。理不尽なのは解ってる。栗くらいで僕は怒ったりしない。

 時は、胸の奥の方、僕の秘密の気持ちを知らない。僕は臆病だから、君に、「好き」って言えないんだ。君が、能天気に笑うのも無理ないよ。

「あ、ちょっと陽が出てる。大丈夫?」

「また、訊くの? これくらい大丈夫だよ……。すぐに陰る」

「心配なんだ」

「僕は、しぶとく生きるんだろ。何歳までだっけ?」

「百歳」

「そう。君が、そう言った。だから、心配なんていい。いらない」

 時がそう言ったんだから、僕は、百歳まで生きるんだから。心配なんて迷惑なだけだ。ほら、もう、陰って来た。

 少し待っても返事がないから、奥から出て来て僕の隣に立っている時を見上げた。夢見る瞳で、縁側づたいの向こうを見つめている。

 自分から話を振ったくせに、時は、もう、別の事に興味を示していた。

「……どうしたの?」

「あれ、綺麗だねぇ」

「? 何のこと」

「ほら、あれ。あれは……、あの雫は、雨樋から、流れてるの?」

 時がそう言って指さした先には、屋根から雨樋を伝って、ちょろちょろと地表に流れ落ちる雨粒の群れがあった。

「珍しくも、ない」

 ポツリと言ったら、時は僕に目を向けて、「いいから、見てて。一瞬だから気をつけて」と言って、また、そちらに目を戻した。

 たぶん、空の高い所で風が吹いたんだよ。

 雲が、押されて、流されて、奇跡みたいに陽が射した。

 雨樋から流れる雫が、その陽に射されて、キラキラ、キラキラ、キラキラ、キラキラ……。

「小さな星々が、零れているみたいだねぇ」

 時は、ロマンチストの冒険家のように、そんな事を言った。


 僕の望みは届いたようだ。

 黒くて重たく、今にも底が抜けてしまいそうな雨雲が、今はまだそれに耐えて、しとしとと、静かにゆっくり、雨を降らせている。

 神様って、本当にいるの?

 何はともあれ、この天気。この降り方は、長引くはずだ。

「嬉しそうな顔」

「嬉しいよ」

「雨が降って喜ぶの、砂漠のラクダと佐鳥だけ」

「森林に潜むトラだって、きっと喜ぶさ。彼らは、水遊び大好きだから」

 天から地上へ視線を落とし、僕は地表の膜を見た。

 溶け合う雨粒が、透明な、さらさらとした蜜の様に、土の表面を被っている。そこに入れてと、次々に降りて来る、新しい雨。

 僕も、仲間に入れて。

 裸の足先を、ちょっと伸ばして浸してみた。

 冷たいと、感じる。

 まだ、生きているって、感じる。

 嬉しくて、足先を、膜の上で滑らせた。

 ケロケロケロ。

 ケロケロケロ。

 ……カエルかな?

 しとしとと、降り続く雨の中、何者かが花の陰に隠れているらしい。遠慮がちに喉を鳴らして、僕を呼んでいるのかも。

「この庭は、いつ見ても、綺麗だね」

 僕らは、会話がなければ、それでも良かった。それならそれで、それぞれが好きな事を考えて、ぼんやりしたり、居眠りしたり、今、僕がしていたように、薄い水面に足先を滑らせてみたりする。僕は、時を邪魔に思わないし、たぶん、時も僕を邪魔に思ってない。

「母さんが、手入れをしているから」

 足下に向けていた視線を花に移して、僕は、そう答えた。

「君は……、佐鳥」

「うん?」

「これらの花を見ている時、体、痛いの? 頭とか、お腹とか、いつも痛いの?」

 急に何を言い出すの……。

 僕は、時に目を向けた。

「話の飛躍が凄まじいね。思っている事、整理してから話してよ」

 花に向けていた目を僕に移し、時は、優しいような悲しい様な、そんな目をして微かに笑った。

「……何?」

 見つめられて、照れくさい。僕が顔を俯けて目だけを上げて訊ねたら、時は、何かを言おうとして、それを、ゴクリと飲み込んだ。

「……何だよ?」と、もう一度、訊ねてみると、肩をすくめて「何でもない」と言った。そして、視線は花に戻され、花にも時は微かに笑った。


 とても、静かな午後だった。僕は、少し期待した。

 庇から、大きくなった雨粒が、雫となって水面に落ちる。

 そんな微かな音さえも、はっきり聞こえてくるような。

 とても、静かな午後だった。


おしまい。

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