第23話 ひまわり

 そこに戸籍があるから、というわけではないけれど、なにか縁ができたような気がして、瀬戸内海を望む西の地に赴くことが多くなった。

 蝉時雨のなか、気安く工場の門をくぐり、忙しそうに立ち働く工員と挨拶をして二階の事務所に向かう。

 工場の古株の社員たちは、私の素性をうすうすは知っているようだ。なにせ、この工場に年に一回か二年に一回、通い始めて十八年、まるで歳を取っているように見えない。いくら若作りしている、老いが顔に出にくいのだと誤魔化しても、そろそろおかしいと思っている者もいるだろう。

 けれども、面と向かって詮索されたことはない。

 彼らにとって、私はただの『過ぎゆく者』だ。

 その工場は三交代制で、ふらりと立ち寄っても、いつも人がいる。

 真夜中に行ったことはないけれども、社長はいつも出社していて、忙しそうにしている。

 たまの不在は営業で商談に出ている……つまりは仕事をしている。

 今日は『社長室』にいた。

 工場二階の事務所の隣室、『社長室』と札の掛かった部屋は、椅子や机こそ見栄えのするものに変えられていたが、飾りの類いはない。工場で作っている部品の見本が並べられているくらいだ。

 時間をとってもらって申し訳ない、と詫びると、

「みんな、僕は働き過ぎだと言ってます。息抜きになっていいんですよ」

 と社長は笑った。

「事業はまずまず上手くいってます。海岸近くの元工場跡地にも工場を新設しましたし、営業員は僕なんかよりずっと巧く商談をまとめてくる。父の持ってた工場跡地で使ってないところは人に貸してその収入もある。ずいぶん、楽をさせてもらってますが『やることがない』のに慣れなくて」

 そう言って頭を搔く彼は、柔らかく微笑んだ。

「そういえば」

 と、私は先日から頭を悩ましていることを彼にも問うてみた。

「あなたも知るあの犬狼を連れた女性に関して、『不在の者』を探せと言う者があるのです。これはどういう意味だと思われますか」

 若狭で会った女の鬼との会話を、徒然つれづれに話す。

 書物が関係するかも、ということで図書館に行って本を開いてみたものの、その膨大さに圧倒されたことも。

 社長は「うーん」と腕を組み、宙を仰いだ。

「整理してみましょう。彼女がどんなちからを持っているのか分かりませんから、いろんな可能性が考えられますが、とりあえず書物の内容は、歴史に限ってみる。彼女はあなたの生まれた時代から存在していたので、それ以前のことを記した本。これですこし限られてくる」

 私は頷いた。

「すると、記紀をはじめとした文献になってきますね」

 そう私が話の穂を繋げると、

「あとは、その時代に関係しそうな『海外の書物』ですね。とりあえずはこの国と関係が深かった国のものに限定してみると良いと思います。最初から範囲を広げすぎると方針が立てられない」

 私はもういちど頷いた。

 まったくの見当はずれかもしれないが、『不在の者』に何の手がかりもないいじょう、どこから調べるかの線引きはたしかに必要だった。

「当時はたくさんの風土記も記され、宮廷に納められましたが、いまはほとんど散逸しています。私もその当時、風土記には目を通したことがなかったのでなにが書いてあったかまったく」

「いま読むことが出来ない本は、考えないでおきましょう。きっとその『判官殿』も読めないでしょうから。まずここから初めて、どうしても見つからない場合は範囲を広げていけばいい。そのうち、『判官殿』に逢えるかも知れませんし」


                 *


 帰り際、工場の前の庭に花が咲いているのが目に留まった。

 太陽のほうを向く、黄金の花。

 背丈は私よりも高く、花は手のひらを広げたよりもおおきい。

 その花影には、かつて影の国のような家に住んでいた青年の面影はなかった。

 いまの彼にふさわしい花。

「ただいま、おじさん!」

 工場の門から勢いよく駆け込んできた少年が、私にも「こんにちわ」と頭を下げた。

 背の高さだけ見れば私とあまり変わらないが、顔立ちはまだずいぶん幼い。

「姉のひとり息子です。十五歳になりました」

 おかえり、おなかが空いたろうから社員食堂で御飯をいただいておいで、と、送り出した後で、彼が言った。

「あの爆弾の後遺症らしい病気で、姉や、母のひとりが亡くなったときには、『どうして罪のない彼女らが苦しむのか』とすべてが憎くてなりませんでしたが、それでもなんとかやってます。……まったく、僕には鬼になる素質がない。ああ、そのうち僕の娘も紹介します。今日は土曜で学校は午前で退けるんですが、友だちと宿題をするとかで」

 ふふ、と彼が笑った。

「あなたに会いたいそうですよ。僕の友人で、いつも鶏を連れて全国を旅している人だ、としか紹介してないんですが。ああ、あと、僕の命の恩人だとも言いました」

 彼の命を救った覚えはないのだが。

「鬼になって、この世の向こうに行くことだってできる、そう思うことで死を選ばずに耐えられたこともたくさんある。命の恩人ですよ」

「人であることに踏みとどまる、というのも、なかなか難しいことなのではないかと、ちかごろ私はそう思うようにもなりました」

 蝉の声が大気に染みる。

 黄金の花のまなかには、くろぐろとした深淵が抱え込まれている。

 割り切れぬものを抱えて沈黙する、花片はなびらを、ことばを持たぬちいさな花々。

 けれどもそこには、いつか大地に降り落ちて芽吹く、明日が眠っている。

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