第10話 くらげ


 数条の黒煙が天を目指して立ち上っている。

 岬の先端を目指して歩く道すがら、彼方を見晴るかせば、対岸に炎が見える。

 この岬に至る道にはいつも憲兵が立っていて、ながらく立ち入りが禁じられていた。対岸に軍用の施設があり、こちらの方が高地になるので、ここに立てば対岸は丸見えだからだ。

 ただし海岸線が入り組んでいるこの国土で、海岸に施設をつくって防諜を完全にしようと思うのには無理がある。私は敵国に味方するつもりは毛頭なく、たんなる興味から、ときどきこの岬に立って対岸を眺めていたが、時間と忍び込む場所を選びさえすればほとんどばれることはなかった。忍び込みやすい木立や灌木の茂みもそのまま放置されている場所が多かった。

 ここ一年は敵の飛行機がよく飛んできたから、なにもこの岬に立たなくても、うえから施設のようすは覗き放題だったと思うが。

 今日はその憲兵すら立っていなかった。

 建設され、盛んになり、おわる。

 なにを成そうとしたか、なんのためにそこにあったか、事実も真実も、いずれはなにもかもが彷徨さまよいだし、だれにも分からなくなっていくというのに、みな、沈黙を急ごうとする。

 陽は中天にあり、蝉の声がろうがわしい。

 町ではついいましがた、降伏を宣する皇尊すめらみことの声が電波を通じて届けられたと、みなが噂しあっていた。

 ――すべてをなかったことにするつもりなのだ。

 対岸の炎がなにを意味するか、政治にはほとんど関わってこなかった私でも、この歳になれば察しもつく。


「盛大なものね」

「最近はほとんど紙だからな」

 対岸の一番よく見える岬の特等席には、先客があった。男と女の二人連れだった。「昔は陣を放棄するときには町や砦、持って行けない兵糧まで燃やしたものだけれど、そういうのは今回はなし?」

「どこかに落ち延びて捲土重来を目指すのではないらしいから、そこまでしないのではないかな。そもそも敵はこちらで略奪せずとも自分の食い扶持は自分で運んでこられるというぞ」

「それは……すごい」

「判官殿の話では、北のほうは昔ながらの略奪もあるらしいし、さきに敵の上陸した南はいまでもどうなっているか、分からないようだが。ゆかりのあった安芸は焼け野原になった。とはいえ……本州はこれいじょうのことはないようだ」

 年配の男がおおきく伸びをして、ふと笑った。

「巨大な鉄の船が海に浮いてるのを見たときは、これほど驚くことなどもうないと思った。けれども鉄の翼が空を飛んでるのを見て……魂消たまげるここちがした。敵の飛行機は年を追うごとにどんどん大きくなっていったしな。長生きすると、なにが起こるか分からん」

「結局はいくさの道具のことばかり。もう自分が使うわけでもないのに。刀や鎧、馬の善し悪しに血眼になっていたころと全然、変わらないこと」

 女はずいぶん呆れている。

「そう言われると言葉もないな。……行こうか。ともあれ『見るべきほどのことは見つ』もう自害する理由もなければ、自害も出来ぬ身ではあるが」

「見るべきほど……わたしはそうは思いませんよ。見届けたいものはまだまだたくさんあります。そもそもこれからじゃないですか」

「そうか、それはよかった」

 男が女を見遣って嬉しげに笑う。

「でも、海辺は離れましょうか。ここからは見えないと分かっていても、この時期はくらげの漂うのを見てしまいそうで。ともがらの魂がいまでも漂ってるみたいで、ぞっとしてしまう」

「漂ってはおらぬさ。『浪のしたにも都はさぶろうぞ』と、二位殿は言うた、とされているだろう? 水底、根之堅洲國ねのかたすくに妣國ははのくに……みな、そこで安らいでろうよ。折悪しく我らばかりがそこへ行き着けなかっただけのこと」

「わたし、そんなこと言ったかしらね」


 ふたりが私の脇を歩きすぎてゆく。

 わずかに目を細め、軽く会釈。

 互いに分かるのだ。

 鬼の匂いが。

「あなたは、どこに行かれますか?」

 男が私に問うた。

「ある人を、探しているのです。目尻に紅を挿した、おおきな犬狼を連れた女性を」

「その方なら、お目にかかったことがありますよ」

 女が答える。

「若狭で。水を汲みに来たと、言ってらしたかしらね。でもあれは……幕府と新政府が戦争をしていたおりだったから、もうずいぶん昔のこと」

「ありがとうございます。どこにいるか分からなくても、どこかにいる、それで充分なのかもしれません」

「同朋にも尋ねておくよ。我々は、すこし数がいて、全国に散っているのでね。もしかしたら最近遭った者もおるやもしれん」

「かさねがさねありがとうございます。どうぞご健勝で」

「君こそ、身体に気をつけて。ずいぶん色白で、肉が薄い姿だが」

「生まれつき虚弱の質でしたから。それに苦しめられることはもう」

 さくさくと、夏草を踏み分けてふたりは去って行った。

 別れを告げるように、背の主殿が、こうこうと鳴く。

 ふたりは振り返って微笑んだ。


 眩いばかりの夏の陽射し。

 燃やされる過去の記録。

 曖昧になってゆくみずからの過去。

 さあ、次はどこへ行こうか。

 私は――我々は、どこへ往けばいいのだろう?

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