第5話 線香花火

 わたしはこれがとても好きなのですよ、と大江山の鬼が言った。

 蘇芳に染めた美しい爪で藁稭わらしべを摘まみ、香立てに刺す。

 初めて会った時と同じようにまゆずみで眉を描き、歯は鉄漿かねに染めていた。

 成人のように錆浅葱さびあさぎの狩衣を纏ってはいたが、名前の通りに被髪姿だ。禿かむろと言うには、うしろをすいぶん長く伸ばしてはいたが。

 禿風かむろふうに切りそろえられた前髪、額のあたりから覗くのは、二本の角。

「――茨木童子」

 私が名を呼ぶと、鬼がひっそりと笑った。

 燭の灯りは広々とした板張りの部屋にひとつきり、陽の落ちたあと、几帳を立てて月明かりも遮った室内は、まさに幽冥の境。

「あなたと会うのは、これで四度目ですか」

 私は頷いた。

 濃灰に染まったしべのさきに軽く触れると、火がつくのは妖しの業か。

 鬼の手元で稭のさきに点った玉が、チリチリと火花が散らし、ひときわ大きく散ったかと思うと数条の名残の火花を撒いて消える。

「線香花火ですね。江戸のものとはすこし違うようですが」

「線香のように香立てに刺して楽しむのが都風なのです。だから線香花火と言う」

 なにか夢でも見ているのか、主殿あるじどのがくうくう、と低く喉を鳴らしながら私の腕のなかで幽かに身じろぎした。

「春待つ蕾、絢爛の牡丹、蒼き松葉、終わりの散り菊。線香花火の火花のようすをよっつに分けて、人生に喩えることもあると――こう申すのは、受け売りですが。あなたのお探しのあの方が、教えてくださいました。この花火をわたしに手渡して。もう、百年も前のことになります」

「――何故」

「なぜ? あなたが問いますか。あの方は旅をしている……ただそれだけのことだと、あなたが一番よくお分かりでしょうに」

 そう諭されたら、頷くしかない。

「この地は、我々のものだった。ときの朝廷に追われるまでは。憤りのままに鬼に変じ、思うままに復讐した。しかし」

 鬼は小首をかしげて私に笑んでみせる。

「なぜ、鬼は人を喰わねばならないのでしょうね? もはやかつての朝廷はちからを失い、我々を討伐しようという者も絶えて久しい。この地はふたたび我らの棲処となった。もう人とかかわる道理もないというのに、人喰いたさに里へ下りねばならぬとは」

 鬼は伝承の者となり果てても、神隠しはある。

 まつりごとを脅かさぬのなら、京の山裾にある里の人がときおり消えることなど、江戸のさむらいには些末なことにすぎない。

 もう一本、鬼が香立てに線香花火を立てて、火を灯す。

 再び花火が密やかに音を立てて花開き、散り、消えた。

「わたしはもう、ずいぶん倦んでいた。――そんなときだったのですよ、あの方がここを訪れたのは」

 不意に、鬼の手元に瑠璃のさかずきが現れた。

 紅い飲み物がなみなみと注がれたそれを、高坏たかつきに載せ、すい、とこちらに寄せる。

「お飲みなさい。あなたにはまだ必要だ」

 私は頷いて、杯を干した。

「童子、あなたは」

「わたしにはもう不要になったのです。ええ、あの方に救っていただいた。春を過ぎ、夏を謳歌し、永遠の秋に留まっていたわたしの血肉に、冬枯れの季節を教えてくださった。ここに遺っていたのは、わたしの悪癖というものですよ。あなたが……そう、あなたが羨ましかった。あの方に因果を解いてもらいながら、心残りしてしまっていた。けれども、それももうおしまいにしましょう。その杯、わたしの形見にもらってください」

 ――私の、なにが羨ましいと仰るか。

「そういうところですよ」

 鬼が、ふっくりと笑む。

 さながら緋色の菊花が開くように。

「あなたには、返していない恩がある」

 私はなおも言い募った。彼が失われるのが惜しかった。

「たしょうのやましさを抱えて心残りしていたほうが、張りがあるというものです。なにかを成さねばならない、なにかに悔いがある……ひとはそういうものを杖にして、明日へ踏み出していく。それを希望と錯覚していさえする。鬼はきっと、そういうものを持たない。茫漠とした夜のなかで動けなくなってしまった者なのでしょうね。――あの方だけは、きっと違いますが」

 主殿がにわかに首をもたげ、きょろきょろと二度、周囲を見回した。

「さあ、常世長鳴鳥とこよのながなきどり。天照大御神の御庭に侍りし鳥よ、君が使命を果たし賜え」

 茨木童子の言葉は古謡を口ずさむように楽しげだ。

 時を告げる一声

 東の空に曙光が射した。


 ほとんど板も抜け、草におおわれた廃屋の、かろうじて板の遺っているところに私は座っていた。

 れ屋根の隙間から眩い朝日が差し込んでいる

 童子の座っていた場所には、皓々しらじらとした骨がうずくまっている。髑髏には、二本の角が生えていて、骨ばかりの腕に香立てを抱えていた。

 私の手には、紅のしずくの残る瑠璃の杯が握られている。

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