第4話 滴る

 血を吐いた日の夜、私は女と情を交わした。

 女の言ったとおりに、夕からは滝のような雨が降った。

 蔀戸しとみど越しに聞こえる雨音にめられて、私は我と女の息遣いのなかにいた。

 檜皮拭きの屋根にうちつけた雨粒が軒から滴り落ち、この北の離れは檻のようだった。

 ――ここは開闢かいびゃくの地に拓かれししとね。我のはじまりのまぐわい。

 女の身体からは土の匂いがした。

 春草のように柔らかく、夏の光を浴びた大地のように濃く、実りの秋にも似て満ち足り、そして鎮もれる冬の森のように秘めやかな、女の匂い。

 血を吐いたあのとき、輿こしから落ちそうになった私をともの者たちが慌てて抱き留めて、屋敷に戻ってきたのは覚えている。

 女がどこから入ってきたのか、分からない。

 供と一緒についてきたのか。

 なにより、どうしてこうなったのか覚えがない。

 女に誘われたのか、私が……いたのか。

 私は女を抱いたことがなかった。

 我が君の屋敷で為すべきことも定まらず日々を暮らしていく身、妻を娶るのは気が引けた。

 なにより虚弱の質で、そういうことに気が向かなかった。

 けれどもいまは。

 女から命を分けてもらったかのようにちからが漲り、どこもつらくはなく、自由だった。

 そしてただただ、この女が欲しかった。

 この女に、与えたかった。

「もどれなくなる」

 いくらか満ち足り、それでもまだ物欲しげな顔をしていただろう私の腕をほどいて女が言った。

「戻れなくともよい」

 意味など分かっていなかったが、私は本気だった。

「うまれなおすか」

 女の手のひらが私の頬を包み、唇が重なった。

 口蓋を舌でまさぐられ、こふ、と私は血を吐く。

 胸は苦しくなかった。痛み止めの薬湯を飲んだときのように、どこか覚束なく、ただほんのりと熱だけが灯っている。

 口のなかいっぱいに生温かい錆の味が広がったが、私は女の舌の感触に陶然としていた。

 女の喉が動いた。

 ――私の血を飲んでいるのか。

 腹の底から愛おしさが湧き上がってくる。

 手放したくない、女を身体を抱きしめたかったが、腕に力が入らない。

 女の言ったとおり、私は生まれなおそうとしていた。

 とろとろと、溶けてゆくここちがする。

 ぬくみと安らぎに蕩かされて、まぶたか重くなる。

 不思議と怖くはなかった。どうせなにものにも成れず、病に斃れようとしていたのだ。なにかに成れるのなら、それがなんであろうと構わなかった。

 私の血に唇を染めて女は立ち上がり、美しい指を自分の口に寄せて、舌に載っていたものをつまみ上げた。

 私の萎えた手のひらに載せられたそれは、人肌に温かく、骨のようにしろい勾玉だった。

われなれたまなき。たまなきままにさまようわれらのあいだのいしにしてみずのこ。なれとかかわるもののたまよ魂寄らば、うまれる」

 閃く微笑。

 優しく、哀しく、寂しげな。

 ――待て。

 引き留める言葉は虚しい。

 女は身を翻して雨のなかへ駆けて行った。

 篠突く雨音に紛れて、狼の遠吠えが聞こえる。

 ――行ってしまったのか。

 ――私を置いて行ったのか。

 私は勾玉を手のひらに載せたまま、みずからの吐いた血の香りに包まれて目を閉じた。

             *

 滝のそばの洞穴に宿を求め、その音を聞いているとあの夜を思い出す。

 どれほどの歳月が流れたろうか。

 あのとき、天より降り落ち、蔀を伝って滴り大地を潤したしずくは、私の身体から流れ出たたまだったか、それとも女の血だったか。

 ――あの年の秋の実りは見事だった。

 我と女とのまぐわいによって播かれたいのちが、大地を潤したのだ――ひそかにそんな不遜なことを考えもした。

 二十年に一度あるかという豊作に我が君もとても安堵したようで、さまざまなことにお悩みだった君の悩みがひとつ、減ったのだと思えば、私もとても嬉しかった。

「結局、戻れなかったな」

 ――むろん、それでいい。

「私は、なんに成ったのだろうか」

 ――それを知るための旅だ。

 私は満ち足りた気持ちで、目を閉じた。

 足元で、くるくると私の主殿が喉を鳴らしていた。


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