煮えるまで

 さらに幾日か経った。もう水しか口にしていない。店にはまた客が来て喚いているが、こちらにまで来ることはなかった。今度また襲われたら抵抗できない。それほどに体が弱り、もう瞼を開くことさえ億劫だった。それでもぐつぐつという音は聞こえていて、自分がいよいよ煮えあがるような気持になった。

 床板が軋む。足音。板を鳴らし、誰かが近づいてくる。

 また客が入ってきたか。今度こそ殺される。食われるのだろうか。肉を。背骨を。

「もうこ、こにいるひつよう、はない」

 ぼそぼそとした、くぐもった声が聞こえた。最初は夢かと思った。もう起きているのか寝ているのかさえよく分からない。

 しかし数秒して、それが源七の声だと気づいた。私は目を開け、足音のする方を向いた。

 黒い影があった。先日にあの客に壊されたせいで屋根には穴が開き、月明かりがいつもより漏れ入るようになっていた。その光が照らしているのは、四つ足の、馬のような何かだった。

 雲が月を隠し、光が消える。そしてその何かがまた囁く。

「じゆうにい、きろ」

 自由に生きろ? 源七が、私を自由にしようというのか。

「……ふざけるな! 勝手なことを……ずっとこんなところで働かせて、今更どこで生きろと言うんだ!」

 馬のような何かは何も答えない。ただ私の荒い吐息だけが暗い部屋に響いている。こめかみがどくどくと疼く。煮える音がする。今も私は、あの鍋の前に座っている。

「この傷のせいか……おまえがつけたこの傷のせいか! いっそ殺してくれればこんな目には合わなかった! 化け物の相手をして、骨を煮て、骨ばかり煮て、私は何のために生きているんだ!」

「すま、ない」

「謝るくらいなら最初から助けるな! 何で助けた! お前は……!」

 自分が何を言いたいのかわからなかった。怒っているのか、悲しいのか、それさえ分からない。ずっと煮られ続けてぐずぐずになった感情はもう人の形をしていない。私はもうきっと人間などではない。なら私は何なんだ。この感情は何故消えないんだ。

「……骨を、持ってこい」

 私が言うと、闇の中でそいつは動いたようだった。だが何も言わずじっとしている。

「わたしは骨を売る。それだけだ。貯蔵庫に骨が入れられ、私がそれを洗い、煮て、売るんだ。それだけだ。何の意味もない。でも、それしかないんだ……」

「すまない」

 その何かはもう一度謝った。それは源七の声だった。だが再び光が差して部屋を照らすと、その何かはもう姿を消していた。

 さっきの声は私の幻聴だったのかもしれない。ぐつぐつ。音がする。ざわざわ。何が聞こえても、見えても、おかしくはなかった。


 朝になると骨が置かれていた。それと、私の食料も。私はおもゆを作って食べ、それから骨を洗い、煮始めた。

 久しぶりに店が開いたからか、初めて行列が出来ていた。奇妙な体つきで厚着をした客たち。恐怖はなかった。それどころか、うきうきとした様子で列に並んでいる様子はかわいらしくさえあった。そのうちの一人に殺されかけたことも、もうどうでもいい事だった。

 それからも数日おきに骨は補充され、私の食料も置かれていく。それを持ってきているのが源七なのかどうかは分からなかった。もう、どうだってよかった。骨があるのなら私はそれを煮て、それを客たちに食わせなければならない。


 夜になり、営業を終え、眠りにつく。

 雨が降っていた。梅雨の、重たい雨だ。屋根が濡れ、穴からはボタボタと小さな滝のように水が垂れてくる。私の肌を濡らす。畳もふすまも腐り、梁だけが残るだろう。そしてすかすかの背骨だけになり、その背骨も死んでいく。ここには何も残らない。音と臭いも消えていく。

 目をつむって耳を澄ます。ざわざわ。音が聞こえる。ぐつぐつ。煮られる音。私が煮られていく音。臭いに私の血が混じり、世界に溶けていく。

 いつか上手に煮えたなら、源七が私の背骨を食べに来るだろうか。私はそんな事を夢想する。私はその時を待っている。

 臭いと音を体に染みつかせて。

 夜の闇に、くるまれながら。

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骨の屋 登美川ステファニイ @ulbak

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