下界人(3)

 次の日の晩、私は再び洞穴に行こうと鞄一杯に水と食糧を詰め込んでいました。


「もうすぐ消灯の時間よ?ユナウ、貴女何処に行こうとしているの?」

「ク、クリスちゃん。別に何処にも……すぐ戻ってくるよ!」

「そういって昨日も出て行ったけど、貴女帰って来たの明け方だったでしょう?消灯後の見回りで誤魔化すの大変だったのよ。」

「あはは、ごめん。でも今日は大丈夫。出来るだけすぐ戻ってくるから。」

「まったく……まあいいわ。」


 そう言うとクリスちゃんはベッドに潜ってそれ以上何も言ってはきませんでした。


 あの日からクリスちゃんとはあまり話さなくなってしまいました。

 寮を出る時はバラバラに出て、昼食も別々に取るようになって、授業の際の移動やグループ活動も別々に。

 唯一話すのは寮に帰って来て寝る時と起きた時だけです。


「ごめんね、クリスちゃん。」


 ブランケットを手に持つと、ぼそりとそう呟いて私は寮を出ました。


 クリスちゃんには洞穴に行っていることは言っていません。

 ただでさえそれに関する事で今の状況を作ってしまったのに、これ以上話したら余計にクリスちゃんとの間に溝が広がってしまいます。


 そうなったら最悪クリスちゃんとは友達でいられなくなってしまう――。


 でも、そんなのは嫌です。絶対に嫌です。

 だから、クリスちゃんだけには口が裂けても言えないし、バレてはいけないのです。


 禁足の森から洞穴まで行くのはもう怖くはありません。

 それよりも寮を出てからフェンスを越えるまでの方が誰かに見つかってしまう危険があり、そちらの方が寧ろ怖いくらいです。


「良かった、まだ息がある。」


 洞穴に着いてすぐに彼の元に寄り添い、脈を確認してホッとします。


「今日も水を持ってきました。今あげますね。」


 指の一本でも反応してくれることを期待して話しかけてみますが、反応が返ってくることはありません。


 昨日と同様に口移しで彼に水を飲ませました。

 二度目ということもあって昨日よりは恥ずかしさはありません。といっても、人命救助なのですから恥ずかしさなんて本来感じる必要はないのです。

 ないのですが、そうは言ってもやっぱり多少は胸がドキドキします。


「早く目を覚まして下さいね。」


 持ってきたブランケットを彼に掛け、鞄からパンとおにぎりを出して彼のそばに置き、私は洞穴を出ました。


 本当はもう少し彼のそばにいてあげたい。

 ですが見回りもあります。

 これ以上クリスちゃんに迷惑はかけられません。


 私は急いで森を抜け寮へと戻りました。



 それからは三日置きに洞穴へと行くのが習慣になりました。

 毎日行きたいのは山々ですが、誰かに見つかってしまうリスクがありますし、何より毎晩寮を抜け出しては消灯後の見回りでバレてしまうのは時間の問題です。


 私だけ懲罰を受けるのならまだしも、同室のクリスちゃんにまで迷惑を掛けてしまっては意味がありません。


「今日はお水にお塩とお砂糖を少しだけ入れてきました。入れ過ぎは脱水症状を引き起こす恐れもあり逆効果なので本当に少しだけですが、塩分も取らないと体に良くありません。」


 いつもの如く始めに声を掛けて彼からの反応の有無を確認しますが、相変わらず反応はありません。


 それから水筒のお水を口移しで彼に飲ませるのを幾度か繰り返すのですが、これが一向になれません。

 最初の頃に感じた『キスをするという行為』自体への恥ずかしさこそなくなりましたが、慣れてきたが故に今度は別の問題が生じるようになりました。


 彼の唇はカサカサに乾いていて固く、若干の土臭さを感じます。

 見た目もガイラさんの様に綺麗な明るめの褐色ではなく、青紫がかった病人のような褐色でした。


 初めてのキスは苺味と聞きますが、私にとっての初めてはザラザラでほろ苦く、かつ渋みを帯びた味でした。

 でも、不思議と嫌ではありませんでした。

 彼の唇に私の唇を重ねる度に胸がドキドキして、体が火照ったように熱くなります。


「いつから私はこんなに淫猥になってしまったのでしょうか……。」


 下唇を指でなぞるように擦りながら、私は好嫌どっちつかずの感傷に暫く浸っていました。


 この複雑な感情は一体何なのか――答えは出ませんが、時計を見ればそろそろ戻る時間です。


「今日はお弁当を置いておきますね。こちらの腐ったものは私が捨てておきます。」


 鞄から持ってきたお弁当を彼の横に置き、古いものを鞄に戻すと私は立ち上がってスカートについた土を払い落としました。


「早く元気になって下さいね。」


 そう言い残してこの日も変わらず寮へと帰りました。



 そうこうしていると気づけば七月も終わりを告げ、八月に差し掛かる頃でした。

 彼を見つけてから三週間程経ちましたが進展はありません。


 クリスちゃんとは日が経つにつれ益々疎遠になってしまい、夜寝る時にはクリスちゃんは先に寝ていて、朝起きた時にはクリスちゃんは既に寮を出ているようになり、同じ部屋、同じ教室にいるにもかかわらず話さない日がほとんどです。


 ガイラさんとも同様で、洞穴で見つけた彼のことを相談しようと思い何度か手紙を送っているのですが、未だに返事がありません。

 朝校舎に行く前に、昼休みに、夕方寮へ帰る前に、ことあるごとに大庭園にも赴きますが、ガイラさんの姿を見ることはありませんでした。


「どうしてこうなってしまったのでしょう……。」


 心にぽっかりと穴が開いたようにどうしようもない寂しさを覚えます。


 全てはあの日、誤って禁足の森に踏み入ってしまったあの日からすべてがおかしくなってしまった。


 あの時、主教様達について行かなければ――。

 あの日、ガイラさんと別れてからすぐ寮に戻っていれば――。


 そんな後悔ばかりが頭を過って離れません。


「…………さん。」


 私の行動が皆を不幸にしてしまっている。

 あの時クリスちゃんは戻るべきだと言っていたのに、私はそれを拒んでクリスちゃんまで巻き込んでしまった。


 あの日からクリスちゃんはずっと見えない恐怖と戦っている。


「……ウさん!」


 私が早く応えを出せないからガイラさんはもどかしい思いをし続けた上に、好きでもない方と政略結婚する羽目になってしまった。


 よくよく考えてみれば返事が来ないのは当然です。

 きっとこんな私に愛想を尽かしてしまったに違いありません。


 自分の行いを振り返ってみれば一人になってしまったのは至極当然のことで、全部自分の責任――。


「ユナウさん!」

「えっ――!?」


 そこでようやく私は自分が呼ばれていることに気が付きました。

 焦って立ち上がるとクスクスと笑いが起こりますが、後ろの子が答えを言うべき問題を教えてくれました。


「ユナウさん、最近様子がおかしいように見えますが、何処か体調でも悪いのですか?」

「い、いえ……。」


 授業の終わりを告げると同時にミシェル先生に呼ばれてしまいました。

 他の生徒達は談笑しているようでしたが、こちらを盗み見ているようでその視線が痛く感じます。


「そうですか。ならいいのですが、あまり無理をしてはいけませんよ。何かあるなら周りに相談するようになさい。貴女は次期【最優秀淑女】なのですから、一人で抱え込んでしまうのも分かりますが、卒業までに心身を損なっては意味がありませんよ。」

「はい、お気遣い感謝します。」


 こちらの顔色を心配しながらも先生は教室を出ていかれました。


「最優秀淑女、か。」


 その言葉の重みが最近になって枷に感じるようになりました。


 私は最優秀になんか相応しくありません。

 最優秀の称号はガイラさんのような人にこそ相応しいのであって、決して私のような半端者に付けるべきものではありません。


「クリスちゃん……。」



 誰かと話したい――。



 そう思って後ろを振り返りますが、一瞬目が合っただけで直ぐに逸らされ、クリスちゃんは他のご学友の方達と楽しそうに談笑していました。


 午後の授業はてんで頭に入らず、私は耐えきれずに禁足の森へと駆け出しました。

 まだ夕方で人通りもままあるのも気にせず、誰かに見られる危険も顧みず、私は一心不乱に洞穴まで走りました。


 洞穴に着いた時には陽は落ち、風は止んで周囲は静寂に満ちていました。


 息を整えながらゆっくりと洞穴の奥へと進むと、あの奈落の穴が今日も変わらずその姿を現しました。

 この穴ももう見慣れて何も感じなくなってきましたが、今日はいつも以上に穴が大きく見える気がします。


 そうやって穴に視線を落とした時でした――。


「…………。」


 奥の方――すなわち彼が倒れている方からガサッと何か音が聞こえてきました。


「もしかして――!?」


 私は激しく湧き立つ鼓動を押さえながら、忙しなく穴の縁を通って奥へと飛び出しました。

 そしてそこにあった光景を目にした瞬間、私はその場に崩れ落ちました。


「良かった……本当に……。」


 そこにあったのは、ブランケットが絡まって芋虫のようになりながらもうつ伏せで一心不乱にお弁当を貪る〝彼〟の姿でした。


 私は溢れ出る涙を堪えきれず、彼が食べ終わるまでずっと泣いていました。


「……これ、あんたが?」


 食べ終えて満足そうにすると、ようやく彼はこちらの方を向いて話しかけてきました。


「は、はい。一応……。」

「そっか……。」


 初めて聞いた彼の声は、想像していたよりも少し高く、けど男性らしさが残る太めの声でした。


「美味かった。」


 彼の笑顔を見たその時、私の感じていた孤独感は一瞬にして吹き飛んだのです。

 しわがれた顔で、それでも分かる爽やかな笑顔に、私はこの時本当に救われました。


「泣いてるのか?」


 彼は怪訝そうにこちらの様子を窺っていましたが、私はお構いなしに何度も目を擦り涙を拭いました。


「それ、窮屈ではありません?」


 少しして気持ちも落ちつくと、私は芋虫のままで話す彼のそばに歩み寄りました。


「別に……ちょっと体が動かなくて出られなくなっただけだ。」

「今解きますね。」


 芋虫状態の彼は少し滑稽で可愛らしく、もう少し見ていたいと思わなくもないのですが、彼の容体を考えれば流石にこのままには出来ない、と私は絡まったブランケットを解いて彼を壁にもたれ掛かれるよう身を起こしてあげました。


「悪いな。」


 弱弱しくぐったりする彼に、私はまだ安心できる状態ではないのだと改めて気を引き締めました。


「ここまでしてもらったついでに、いくつか聞いてもいいか?」

「な、何でしょうか?」


 彼の声はまだ小さく、顔を近づけないとはっきりとは聞き取れませんでした。

 だからこそ、私はこの時点で気がつくことが出来ました。


「今は王歴何年だ?」


 彼はこちらを見て話してくれていました。

 けれど、それはあくまでであってではありません。


 そう――彼の目は焦点が合っていませんでした。


「い、今は、王歴四九九年の八月です。」


 私は戸惑いながらも答えました。


「ん?四九九年?王歴って千年近くあったと思うんだが……。」

「あっ、ごめんなさい。今言ったのは新王歴です。旧王歴が五〇〇年なので、総王歴だと九九九年ですね。」

「九九九年……てことは、六年か。」


 彼の言葉に私は不安を覚えました。


 今の時代、普通は全て新王歴を使います。総王歴なんて歴史の授業等の特別な場面でしか使いません。


 それに、彼には他にもおかしな点がありました。


 目の焦点が合っていないのもそうですが、さっき彼の身を起こした時に触って分かりました。


 彼は体つきも変です。


 顔や胸部、腹部は、一目見た時の印象通りミイラのように痩せ細っているにもかかわらず、腕や足の筋肉は見た目以上にしっかりついています。



 何故足と腕だけ――?



 そして何より一番変、というより不気味なのは手足の指です。

 特に手の指が異常な欠損の仕方をしています。


 切れた、焼けてしまったというよりも、削れた、抉れたといった表現の方が近く、一体どうしたらこんな状態になるのか見当もつきませんでした。


「貴方はいったい……いつからここに?」


 私は彼に問いかけました。


「…………分からない。もうずっと前から時間の感覚が大雑把にしかないんだ。それに、ここに辿り着いてからの記憶も曖昧で、どれだけの時間が経っているのか分からない。」


 その言葉に嘘偽りは感じられませんでした。

 そして同時に、この時私の中に疑念が生まれました。


 もしかしたら彼は私が想像していた人物――下界落ちで生き延びた人間ではないのかもしれない。


 しかしだからといって、ならどうやってここに来て、何があって今に至るのか。


 それは恐らく考えて答えが出るようなものではないでしょう。

 それだけは確信できました。


「もう一つ、ここは何処だ?洞窟の類なのは分かるが……。」

「ここは、学院北部の禁足の森の中にある洞穴です。」

「学院……?禁足の森……?」


 彼は初めて聞く単語のように、一つ一つ噛み締めるように口にしました。

 その様子は、彼が明らかに学生や学院関係者でないことを示していました。


 何か引っかかることでも?


 そう聞こうと思った時、私は重大なことに気がつきました。


「いけません!早く寮に戻らないと!」


 今日は寮長による月に一度の完全点呼の日です。

 そのことを今の今まですっかり忘れていました。


 ここに来たのは六時過ぎ。

 あれから一時間は経っているでしょうから、そうなると今は七時過ぎ。

 もう点呼まで三十分あるかどうか――。


「ごめんなさい、私急いで帰らなくちゃ!」

「ああ。色々助かった。ありがとう。」


 彼のお礼に、私はニコリと笑顔で返しました。


「そういえば、あんた名前は?」


 去り際に、思えば最初に聞いておくべきだったことを彼に投げかけられ、私はハッとしました。


「私はユナウ。貴方は?」

「ファラ。」


 彼がそう名乗った瞬間、私は何故か直感しました。



 この人はきっと特別な人だ――。



「ファラさん、素敵なお名前ですね。また明日。」

「ああ、また明日。」


 ファラさんに別れを告げて洞穴を出ると、私は急いで寮へと戻りました。



 今思えば、この時にはもう動き始めていたのかもしれません。

 貴方の存在が歯車となって、止まっていた時間が動き出したんです。

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